今日は山崎の戦い(やまざきのたたかい)について勉強していきます。1582年のこと、天下統一を目前とした織田信長が本能寺の変によって死亡、この事件は明智光秀の反乱によって起こった。

しかしその約10日後、明智光秀もまた戦いによって死亡することになり、その戦いというのが山崎の戦いです。そこで、今回は山崎の戦いについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から山崎の戦いをわかりやすくまとめた。

明智光秀の人物像

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朝倉義景との出会い

本能寺の変で反乱を起こした明智光秀ですが、実は彼のプロフィールには不明な点が多く、誕生した生年すら明らかになっていません。ただ、仕えていた斎藤道三の斎藤家に内紛が起こったことで明智城が落城してしまい、浪人となって生活に苦労した時期もあったようです。

明智光秀が浪人となって過ごしていた頃、生活の苦しさから今度は越前国の朝倉義景に仕えるようになり、ここから彼の未来は変わっていきました。1565年、当時の将軍・足利義輝が暗殺されたため、弟である足利義昭が朝倉義景を頼って訪れます。義昭は朝倉義景の力で将軍の座を手に入れようとしたのです。

しかし義昭が望むように動いてくれない朝倉義景、そこで明智光秀は義昭に織田信長を紹介。当時は戦国時代の真っ只中、戦国武将として名を上げた信長の強さはきっと義昭の力になると思ったのでしょう。また、明智光秀が信長を紹介できたのは、信長の正室である濃姫と親戚関係にあったためとされています。

織田信長への突然の裏切り

明智光秀が思ったとおり義昭の力になった信長、信長は義昭を奉じる形で京都へと入り、そのおかげで義昭は晴れて1568年に15代将軍の座に就けました。最も、後に信長と義昭は対立しますが、明智光秀は信長の元で功績をあげて着々と信頼を高めていきます

1570年の金ヶ崎の戦いでは信長を救った手柄から近江国に5万石の領地を与えられ、長篠の戦いでの活躍や丹波平定を成功させた手柄から29万石の丹波一国の領地を与えられた明智光秀。実に34万石を持つ大名にまでのぼりつめ、信長の家臣の中でも重臣としての地位を手にしました。

1582年、明智光秀は信長から出撃を命じられます。出撃の目的は中国地方で毛利氏と戦闘中の羽柴秀吉を援護すること、羽柴秀吉とは後の豊臣秀吉です。ただ援軍として出撃する最中、明智光秀は急遽進路を変えて本能寺へと向かって本能寺の変を起こすのでした。

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明智光秀の誤算

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発見できなかった信長の遺体

1582年の本能寺の変、当時信長も中国地方の援軍へと向かう予定でしたが、その日は京都府の本能寺に宿泊していました。お茶会を楽しんでくつろぐ信長は、諸説では護衛もわずか250人程度だったと言われています。そこに奇襲をかけた明智光秀、彼は10000人もの軍勢を率いており、さすがの信長も多勢に無勢でした。

明智光秀が本能寺を襲撃した知らせを聞いた信長ですが、この兵力差では為す術がありません。そのため信長は本能寺に火を放って自害、息子である織田信忠も襲撃されて徹底抗戦を試みますが、父・信長の死を知ると自らも自害、信長の天下統一の夢と野望はあと一歩のところで明智光秀の謀反によって散りました。

さて、本能寺の変を成功させて織田信長を倒した明智光秀、しかしここでいくつかの誤算が生じます。まず信長の遺体が発見できなかったことで、これでは自分が信長を倒した証拠にはなりません。そして、最大の誤算は中国地方で戦闘中だった羽柴秀吉の中国大返しでした。

羽柴秀吉の中国大返し

信長には多くの家臣が仕えていましたから、本能寺の変を知ればその家臣達は主の仇として明智光秀を倒そうとするでしょう。もちろん明智光秀もそれは分かっており、そのため仲間を集めて戦いの準備を整えていましたが、実際にはそこまで焦っておらず、準備の時間には余裕がありました。

なぜなら、有力な武将達はいずれも各地で敵の大名と戦闘を繰り広げていたからです。その戦闘を終え、京都に戻ってくるにはまだ時間がかかると読んでいました。ただ、明智光秀のそんな想像を凌駕したのが羽柴秀吉、信長の死を知った秀吉は毛利軍と講和を結んで戦闘を切り上げます。

とは言えそこは中国地方、京都に到着するには相当時間がかかるはずでした。しかし、秀吉は200キロもの距離をわずか10日ほどで戻ってきて、羽柴秀吉によるこの脅威的な移動を中国大返しと呼びます。そのため、明智光秀は準備不足の状態で秀吉と戦わなければならなくなりました。

山崎の戦いの始まり

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戦力を揃えられなかった明智光秀

明智光秀は本能寺の変を成功させた後、京都の治安維持に加えて近江の平定を急ぎました。京都は信長が治めていた場所ですから治安維持に努めるのは当然として、近江平定を急いだのは柴田勝家の存在が理由でしょう。なぜなら柴田勝家は信長の家臣の中でも強く、明智光秀にとって最も恐れる敵になる可能性があったからです。

そのため、明智光秀は仲間である武田元明や京極高次らの派遣を求めています。しかしまだまだ仲間の数が足りない明智光秀、とりわけ親戚の細川藤孝や細川忠興にも協力を求めますが、これは断られてしまい、その間にも秀吉の軍は明智光秀のもとへと迫ってきました。

結局、充分な兵力を揃えることができないうちに秀吉は中国大返しで到着してしまい、倍以上の兵力差という圧倒的不利な状況の中で秀吉軍との合戦を強いられることになったのです。1582年、本能寺の変が終わってわずか10日そこそこしか経っていない中、明智光秀と羽柴秀吉の戦いが始まります。

明智軍を追い詰める秀吉軍

1582年の明智光秀と羽柴秀吉の戦い……それが山崎の戦いで、当日の天候は悪く雨が降っていました。天王山のふもとを横切った秀吉軍、その中で中川清秀の軍が高山右近の軍の横に陣取ろうとします。ちなみに、高山右近もまた明智光秀が協力を求めた一人でしたが、このように高山右近は秀吉側につきました。

そこへ襲いかかってきたのがが明智軍の伊勢貞興の軍、こうして始まった山崎の戦いでは天王山での戦いが何度も繰り広げられたため、山崎の戦いのことを天王山の戦いと呼ぶ声もあります。ただ、実際には本当に天王山で戦いが起こったことを示す根拠がなく、そのため天王山の戦いについては不確かな部分が多いのも事実です。

山崎の戦いが始まり、合戦開始時は互いに一進一退の攻防が続いていましたが、この状況を変えたのが秀吉軍。池田恒興・池田元助・加藤光泰の軍が明智軍に対して仕掛けた奇襲が成功、その勢いのまま秀吉軍は明智軍を追い詰めていき、明智軍の武将は次々と倒されていきました。

山崎の戦いの決着

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明智光秀の死

頼れる武将が次々と倒されてもう後がなくなった明智光秀、命からがら逃げ込んだのは勝竜寺城でした。しかし、この城は元々平地に築かれていたため、籠城戦に持ちこむにしてはあまりにも無防備な城です。敗北を悟ったのか、明智軍の兵士達もほとんど脱走してしまいました。

とは言え、明智光秀もまた数々の戦いに勝利した強者ですから、当然戦術における心得もあったのでしょう。すぐさま勝竜寺城では籠城戦が不可能だと把握した明智光秀は、自身の城である坂本城を目指そうとしましたが、その道中には思わぬ運命が待ち受けていたのです。

明智光秀は坂本城に向かう途中、道中にて落ち武者狩りに遭遇して殺害されてしまいました。落ち武者狩りとは百姓が自分の村の地域を守るため、敗戦して逃亡する武将……すなわち落武者を探して略奪と殺害を行う行為です。ただしこれも諸説の一つであり、坂本城に辿り着いた後に自害したという説もあります。

「三日天下」の由来

国語の中で、「ほんのわずかな間だけ権力を手に入れる」を意味する言葉として「三日天下」を習うことがあります。実はこの言葉、明智光秀が本能寺の変にて天下を取り、その天下が山崎の戦いまでの短い期間だったことが由来です。

最も、歴史においてこれを正確に当てはめてしまうと間違いで、実際には明智光秀の天下は羽柴秀吉の中国大返しの期間を考慮しても3日ではなく10日ほどは続いているでしょう。ただ、山崎の戦いは明智光秀の惨敗で、この戦いはわずか1日で決着がつくほど秀吉の勝利は圧倒的なものでした。

また、一時的とは言え明智光秀は天下を取ったわけではないと思うかもしれません。確かに「織田信長を倒す=天下を取る」はいささかオーバーですからね。しかし、明智光秀公家譜覚書と呼ばれる書物には、信長を倒した明智光秀が朝廷より征夷大将軍に任命されたことを示す記述があり、束の間ではあっても明智光秀が天下を取ったのは確かでしょう。

\次のページで「山崎の戦いのその後」を解説!/

山崎の戦いのその後

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清須会議の対立

山崎の戦いの後、信長が死亡したことを受けて織田氏の家督相続……つまり信長の後継者を決めるための清須会議が開かれました。ここで秀吉が後継者に推したのはまだ3歳の信長の孫である三法師、おそらく秀吉はまだ幼く何もできない三法師につき、結果的に自らが権力を握ることを考えたのでしょう。

そんな秀吉の思惑を見透かしたのか、柴田勝家は信長の三男である織田信孝を推しました。柴田勝家も信長の家臣の中で強い力を持っていましたから、山崎の戦いで功績をあげた秀吉に対して警戒したのでしょう。そして、意見が合わない二人は対立の末に翌年には賤ヶ岳の戦いを起こします。

この戦いで勝利したのが羽柴秀吉、柴田勝家を倒した秀吉はその後も対立する勢力を次々と倒していき、信長でも果たせなかった天下統一の夢に向けて進んでいきました。しかし、ここにきて秀吉の前に強敵が立ちふさがることになり、その強敵の名前は徳川家康です。

羽柴秀吉から豊臣秀吉へ

1584年、小牧・長久手の戦いにて秀吉と家康が対決、これが秀吉と家康が対峙した唯一の戦いです。この戦いで秀吉は家康に敗北してしまいますが、ここから秀吉は頭の良さを発揮しました。まず名門である藤原氏の養子となり、その上で朝廷から関白に任命されます。

この時、秀吉は朝廷から豊臣の姓を授かっていて、以後秀吉は自身を豊臣秀吉と名乗るようになりました。さらに母と妹を人質として徳川家に差し出す秀吉、こうなると家康も秀吉には刃向かえず、つまり秀吉は武力ではなく権力を利用して家康を従わせようとしたのです。

続いて秀吉は九州の島津氏・関東の北条氏を屈服させ、これで秀吉はとうとう天下統一を果たしました。最も、秀吉の天下も永遠に続くわけではなく、一旦は従えさせた家康が秀吉の死後に関ヶ原の戦いを引き起こし、やがては家康が天下を取る流れになっていくのです。

山崎の戦いは本能寺の変から覚えていくと理解しやすい!

山崎の戦いのポイントは、明智光秀の敗因です。思えば、奇襲とは言え天下統一を狙えるほどの織田信長が敗れ、一方で家臣の羽柴秀吉が明智光秀を圧倒したのは戦力を考えると若干不自然に感じますね。

これは明智光秀が充分な準備を整えられなかったことが原因で、その原因を作ったのが羽柴秀吉の中国大返しです。ですから、山崎の戦いを理解するには本能寺の変まで遡って覚えていくと良いでしょう。

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室町時代戦国時代日本史

亡き信長に向けた秀吉による敵討ち「山崎の戦い」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は山崎の戦い(やまざきのたたかい)について勉強していきます。1582年のこと、天下統一を目前とした織田信長が本能寺の変によって死亡、この事件は明智光秀の反乱によって起こった。

しかしその約10日後、明智光秀もまた戦いによって死亡することになり、その戦いというのが山崎の戦いです。そこで、今回は山崎の戦いについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から山崎の戦いをわかりやすくまとめた。

明智光秀の人物像

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朝倉義景との出会い

本能寺の変で反乱を起こした明智光秀ですが、実は彼のプロフィールには不明な点が多く、誕生した生年すら明らかになっていません。ただ、仕えていた斎藤道三の斎藤家に内紛が起こったことで明智城が落城してしまい、浪人となって生活に苦労した時期もあったようです。

明智光秀が浪人となって過ごしていた頃、生活の苦しさから今度は越前国の朝倉義景に仕えるようになり、ここから彼の未来は変わっていきました。1565年、当時の将軍・足利義輝が暗殺されたため、弟である足利義昭が朝倉義景を頼って訪れます。義昭は朝倉義景の力で将軍の座を手に入れようとしたのです。

しかし義昭が望むように動いてくれない朝倉義景、そこで明智光秀は義昭に織田信長を紹介。当時は戦国時代の真っ只中、戦国武将として名を上げた信長の強さはきっと義昭の力になると思ったのでしょう。また、明智光秀が信長を紹介できたのは、信長の正室である濃姫と親戚関係にあったためとされています。

織田信長への突然の裏切り

明智光秀が思ったとおり義昭の力になった信長、信長は義昭を奉じる形で京都へと入り、そのおかげで義昭は晴れて1568年に15代将軍の座に就けました。最も、後に信長と義昭は対立しますが、明智光秀は信長の元で功績をあげて着々と信頼を高めていきます

1570年の金ヶ崎の戦いでは信長を救った手柄から近江国に5万石の領地を与えられ、長篠の戦いでの活躍や丹波平定を成功させた手柄から29万石の丹波一国の領地を与えられた明智光秀。実に34万石を持つ大名にまでのぼりつめ、信長の家臣の中でも重臣としての地位を手にしました。

1582年、明智光秀は信長から出撃を命じられます。出撃の目的は中国地方で毛利氏と戦闘中の羽柴秀吉を援護すること、羽柴秀吉とは後の豊臣秀吉です。ただ援軍として出撃する最中、明智光秀は急遽進路を変えて本能寺へと向かって本能寺の変を起こすのでした。

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