しかしその約10日後、明智光秀もまた戦いによって死亡することになり、その戦いというのが山崎の戦いです。そこで、今回は山崎の戦いについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から山崎の戦いをわかりやすくまとめた。
朝倉義景との出会い
本能寺の変で反乱を起こした明智光秀ですが、実は彼のプロフィールには不明な点が多く、誕生した生年すら明らかになっていません。ただ、仕えていた斎藤道三の斎藤家に内紛が起こったことで明智城が落城してしまい、浪人となって生活に苦労した時期もあったようです。
明智光秀が浪人となって過ごしていた頃、生活の苦しさから今度は越前国の朝倉義景に仕えるようになり、ここから彼の未来は変わっていきました。1565年、当時の将軍・足利義輝が暗殺されたため、弟である足利義昭が朝倉義景を頼って訪れます。義昭は朝倉義景の力で将軍の座を手に入れようとしたのです。
しかし義昭が望むように動いてくれない朝倉義景、そこで明智光秀は義昭に織田信長を紹介。当時は戦国時代の真っ只中、戦国武将として名を上げた信長の強さはきっと義昭の力になると思ったのでしょう。また、明智光秀が信長を紹介できたのは、信長の正室である濃姫と親戚関係にあったためとされています。
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織田信長への突然の裏切り
明智光秀が思ったとおり義昭の力になった信長、信長は義昭を奉じる形で京都へと入り、そのおかげで義昭は晴れて1568年に15代将軍の座に就けました。最も、後に信長と義昭は対立しますが、明智光秀は信長の元で功績をあげて着々と信頼を高めていきます。
1570年の金ヶ崎の戦いでは信長を救った手柄から近江国に5万石の領地を与えられ、長篠の戦いでの活躍や丹波平定を成功させた手柄から29万石の丹波一国の領地を与えられた明智光秀。実に34万石を持つ大名にまでのぼりつめ、信長の家臣の中でも重臣としての地位を手にしました。
1582年、明智光秀は信長から出撃を命じられます。出撃の目的は中国地方で毛利氏と戦闘中の羽柴秀吉を援護すること、羽柴秀吉とは後の豊臣秀吉です。ただ援軍として出撃する最中、明智光秀は急遽進路を変えて本能寺へと向かって本能寺の変を起こすのでした。
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