3-1、斉昭の逸話

不明。 – 京都大学付属図書館所蔵品, パブリック・ドメイン, リンクによる
水戸藩領内の景勝地「水戸八景」を選定したとか、斉昭が詠んだ歌たもとで水戸藩中屋敷址に弥生という地名が付いたため、弥生時代の間接的な名付け親となったとか、大の肉好きだったとか、武術にも堪能で神発流砲術、常山流薙刀術の創始者であるとか、ほかにもいろいろな逸話があります。
3-2、常識外のセクハラおやじだった
斉昭は大奥の女性たちに嫌われたため、将軍家定の継嗣問題にも悪影響を及ぼしたことは有名。現代と違い、正室のほかに側室がいることも、正室以外の母から生まれた子供がいることも問題にならなかった時代、実質上将軍のハーレムでもあったはずのあの大奥の女性たちになぜ嫌われたのか。
斉昭には、先代藩主の兄の正室で将軍家斉の娘峰姫の美貌の上臈唐橋(元大奥女中で公家出身)に手を出した話、長男の慶篤の正室線姫の急死が、斉昭が線姫に手を出したための自害だったという話が。
これは要するに斉昭の女好きが一線を越えているということで、斉昭正室と将軍家慶の正室が姉妹、家慶時代の大奥で絶大な権勢を振るった上臈御年寄姉小路と水戸藩奥に仕える老女花野井は、公卿橋本家の出身で姉妹(和宮の大叔母)という具合に、大奥の情報ネットワークはあなどれないものだということ。
また、斉昭の水戸藩での廃仏毀釈、質素倹約贅沢禁止なども、仏教への信心の篤く贅沢が命の大奥女性たちに嫌われたようで、もちろんセクハラまがいの発言も多かったということで、13代将軍家定の実母本寿院 (家慶側室)は、斉昭の息子の慶喜が将軍継嗣になれば自殺するとまで忌み嫌い、大奥を一橋派にし、慶喜将軍推進のために島津斉彬によって大奥入りした天璋院篤姫でさえも、水戸嫌いとなり南紀派に。
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3-3、倹約家であった
水戸家は実高が表高よりも低く、毎年幕府から1万両の援助金を受けていたが、斉昭は、祖公以来、35万石で暮らすことが本意であるので、以後は奢侈を固く禁止し節約して拝領した石高で暮らすべき。家来たちも持高に応じた忠勤に励み、役人たちもこの趣旨に沿って生計をたてるようにと1万両を幕府に返上したということ。
また、斉昭が藩主就任間もない頃、家臣らは先代藩主の兄と同じ食事を用意したところ、斉昭は、御三家の格式は非常に重いので、表向きのことは変更できないだろうが、食事などの内向きのことに金をかけるなと言い、翌日から部屋住みの頃の食事に戻させたそう。
3-4、斉昭の子供たち
17人の夭折を含めて37人の子供が誕生しましたが、長男慶篤は水戸藩10代藩主に、3女祝姫(欽子、本岐姫)は家老山野辺義正室に、6女松姫(明子)は盛岡藩主南部利剛室、5男池田慶徳は鳥取藩主、7男慶喜は一橋徳川家当主、のち第15代将軍、8男は川越藩主松平直侯、9男初め忍藩主、のち岡山藩主池田茂政、10男浜田藩主松平武聰、9女八代姫(孝子)仙台藩主伊達慶邦室、11男喜連川藩主喜連川縄氏、14男松平昭訓、11女茂姫(貞子)有栖川宮熾仁親王室、16男島原藩主松平忠和、12女愛姫(愛子)下総高岡藩主井上正順室、17男土屋藩主土屋挙直、18男清水家当主、のち水戸藩11代当主徳川昭武、19男初めは会津藩主松平容保の養子、のち守山藩主松平喜徳、22男守山藩主松平頼之、15女正姫(正子) 初め英勝寺住持、のち異母兄池田慶徳の養女となって池田徳澄室と、いろいろな大名家や宮家とも縁組を。
水戸光圀以来の水戸家のカリスマとして尊王攘夷派にもてはやされた
徳川斉昭は、藩主の3男として生まれ、幼少から期待されて養子にやられなかったせいで30歳まで部屋住みの身分だったが、兄の早世で藩主になった人。藩主になって後は、自分を支持する層から有能な学者たちを登用して藩政改革を行い、ブレーンの助言があったために、彼らが安政の大地震で亡くなるまでは幕政に提言を。
また藩校の弘道館はあの水戸黄門光圀以来の水戸学を教え、尊王攘夷のメッカとなり、斉昭も水戸の老公としてカリスマ的な存在にと、その後の討幕運動の推進力となった思想に。
そして英邁と評判の息子慶喜を将軍にという運動も行ったが、慶喜は14代にはなれず。しかし斉昭はその後の将軍後見職、そして15代将軍となった後、大政奉還を行い、鳥羽伏見の戦いの敗戦後、大坂城から逃げ帰って勝海舟に丸投げしてひたすら謹慎した慶喜を見ずに亡くなったのは幸せだったかも。











