今回は徳川斉昭を取り上げるぞ。幕末によく名前が出てくるが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末は勤皇佐幕に関係なく興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、徳川斉昭について5分でわかるようにまとめた。

1-1、徳川斉昭は7代藩主の3男

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徳川斉昭(なりあき)は、寛政12年(1800年)3月、水戸藩江戸小石川藩邸で誕生。父は水戸藩7代藩主徳川治紀(はるとし)、母は側室で日野家一門の公卿の外山氏の娘永(瑛想院)。

きょうだいは3人夭折し、男5人と女6人、斉昭は3男。長男斉脩(なりのぶ)は8代水戸藩主、3女偉姫(従子)は二条斉信室、5女規姫は高須藩主松平義建室(尾張藩主徳川慶勝の母)、4女鄰姫(清子)は鷹司政通室、6女苞姫(厚姫)は守山藩主松平頼誠(よりのぶ)室、次男は水戸の支藩高松藩主松平頼恕(よりひろ)、4男は水戸の支藩宍戸藩主松平頼筠(よりかた)。

斉昭の幼名は虎三郎、敬三郎、初めは父治紀の偏諱をもらって紀教(としのり)を名乗ったが、藩主に就任後、11代将軍徳川家斉の偏諱をもらって斉昭に。

尚、亡くなった後の諡号(しごう)は烈公、字は子信、号は景山、潜龍閣。2代藩主光圀とともに祀られているため、神号は「押健男国之御楯命」(おしたけおくにのみたてのみこと)・「奈里安紀良之命」(なりあきらのみこと)。

1-2、斉昭の子供時代

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斉昭は、有名な儒者会沢正志斎のもとで、水戸学(儒学思想を中心にして、国学、史学、神道を結合させたもので、幕末の思想家にも多大な影響)を学び、聡明といわれたということ。

斉昭の男兄弟は4人が成長、3歳上の長兄斉脩は次代藩主、次兄と弟も支藩へはやくから養子先が決まっていたが、3男の斉昭は30歳まで部屋住み、これは優秀で期待されたがひ弱だった斉脩の控え的存在だったため。また父の治紀は斉昭に対して、もし他家に養子に入るならば、朝廷と幕府が敵対したときに朝廷に弓をひく可能性がある譜代大名の養子に入るなと言い残したという話も。

2-1、斉昭、兄の病死でお家騒動になりかけたが、9代藩主に

斉昭の兄の藩主斉脩の正室は11代将軍家斉の娘峰姫だったが、子供がないため、家斉は数多くの息子の一人を水戸家の養子にと狙っていたが、文政11年(1828年)には具体的に家斉の20男恒之丞(徳川斉彊)が養子候補となり、また恒之丞と斉昭の長女賢姫(のちに宇和島藩主伊達宗城と婚約したが夭逝)とを結婚させ、水戸藩を継がせるという話まであったそう。

そして水戸家家中では上士層が幕府との関係を深めて援助や加増を期待して図りたい将軍養子派、それに対し斉脩の治世で冷遇された下士層は激しく反発、藩主の弟である斉昭の継承を主張して対立。文政12年(1829年)9月、斉脩の病状が悪化すると10月1日、斉昭擁立派40名あまりが無断で江戸に上って緊迫するなかで、斉脩ははっきりと継嗣を決めないまま10月4日に33歳で死去。

ここで泥沼のお家騒動となるかと思いきや、斉脩の死後ほどなく、弟斉昭を跡継ぎにと書いた遺書が発見されて、斉昭が9代藩主に決定。

2-2、斉昭、有栖川宮家の姫宮と結婚

斉昭は、天保2年(1832年)、有栖川宮織仁親王の娘、登美宮吉子女王(とみのみやよしこじょおう)と結婚。兄に有栖川宮韶仁親王、尊超入道親王、姉に喬子女王(12代将軍家慶正室)、織子女王(広島藩主浅野斉賢正室)、幸子女王(長州藩主毛利斉房正室)など。しかし吉子女王は、天保元年(1830年)、27歳という結婚適齢期過ぎた年齢で斉昭と婚約したため、「幕末の水戸藩」によれば、本当は殿様より年上だとか、本当の年はわからないなどと影口が。

尚、斉昭は31歳で、それまでは部屋住みだったため正室なしだったということ。また、この婚約は吉子女王の姉で、12代将軍家慶の正室喬子女王のお声掛かりで、婚約の勅許を下した仁孝天皇も、「水戸は先代以来、政教能く行われ、世々勤王の志厚しとかや、宮の為には良縁なるべし」とご満足。

斉昭は、結婚後も数多くの側室に37人の子が続々と生まれたが、夫婦仲は円満。吉子女王は義理の母となった峯寿院(8代藩主徳川斉脩の正室)に、「自分は年齢が高く、子供は無理かもしれないので、側室を置いてくれるように」と申し出たが、斉昭との間に長男慶篤(10代水戸藩主)、2男二郎麿(夭折)、7男慶喜(15代将軍)、女子一人(夭折)が誕生。

夫によく仕えて、庶子の教育にも目を配った賢夫人と言われ、和歌や有栖川流の書、刺繍や押絵、楽器では箏や篳篥、釣りも趣味という多芸さで、12代将軍家慶の正室の妹で、宮家出身のため井伊直弼ら南紀派の幕府首脳に警戒されたそう。

\次のページで「2-3、斉昭、藩政改革を行う」を解説!/

2-3、斉昭、藩政改革を行う

藩主となった斉昭は、天保8年(1837年)7月文武の奨励、富国強兵、検地などを唱えて藩政改革。藩校弘道館を設立、門閥派を押さえ下士層からの人材登用に努めたため、戸田忠太夫、藤田東湖、会沢正志斎、武田耕雲斎、安島帯刀、青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった軽輩の藩士を重用。

また、「追鳥狩」と称して大規模軍事訓練を行ったり、農村救済に稗倉を設置。そして国民皆兵路線を唱え、西洋近代兵器の国産化を推進し、蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言したということ。

斉昭の改革は、水野忠邦の天保の改革にも影響を与えたそう。

2-4、藩校の弘道館を設立

天保8年(1837年)、斉昭は、藩校として弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取に、藤田東湖も、古事記、日本書紀などの建国神話を基にした道徳を説いて、日本固有の秩序を明らかにしようと、弘道館の教育理念を示した「弘道館記」をあらわし、その注釈書「弘道館記述義」で、水戸学の思想である尊皇思想を簡潔に表し、「尊皇攘夷」の語をはじめて用いたということ。

そして黒船来航後、水戸学の影響が日本中に伝わると、弘道館は尊王攘夷思想のメッカとして多くの志士たちが訪れる聖地となり、斉昭も一種カリスマ的な殿様として実物以上の大人物のように見られるようになったそう。

2-5、斉昭、廃仏毀釈を行う

宗教の面では、大砲の材料にするためもあり、寺院の釣鐘や仏像を没収、廃寺や道端の地蔵を撤去、村に神社の設置を義務付け、寺請制度で僧が行っていた人別改などの民衆管理を神官の管理へ移行するなど、藩政改革の過程での藩士の間の派閥争いがおこったために藩をまとめる必要もあり、明治初期の神仏分離、廃仏毀釈の先駆け的政策を行ったということ。

2-6、斉昭、幕府から藩主辞任と謹慎に

 しかし弘化元年(1844年)、斉昭は幕府から改革の行き過ぎを咎められて、藩主辞任と謹慎の罪となり、改革派の家臣たちも同様に謹慎の罪に。この謹慎の間、藤田東湖は「回天詩史」、「和文天祥正気歌(正気歌)」をあらわしたが、その後、佐幕、倒幕の志士に愛読されることに。

また斉昭を支持する下士層の復権運動などで、弘化3年(1846年)に謹慎を解除され、嘉永2年(1849年)に藩政関与が許可に。

2-7、斉昭の息子七郎麿が一橋家の当主に

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不明 - 個人蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

弘化4年(1847年)、老中阿部正弘は水戸の付家老中山備後守を召し出し、まだ内密だが、将軍家慶が斉昭の息子七郎麿(のちの慶喜)を一橋家の養子に迎えたいと内意があると伝えたということ。

この年の秋に11歳の七郎麿は水戸から江戸へ出府し、一橋家を継いで慶喜と名乗ることに。将軍家慶の正室は慶喜の母の姉であることもあり、家慶は子供のころから賢いと評判の高い(また斉昭が入れ込んで教育している噂も高かった)慶喜を、何度も一橋邸に訪ねたりと可愛がったということで、将軍継嗣にする心つもりもあったようだが、老中に反対され、遺言を残さず急死したためにややこしい継嗣問題が勃発することに。

2-8、斉昭、幕政参与に

嘉永6年(1853年)6月、ペリーの浦賀来航に際し、斉昭は老中首座阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わるように。そして強硬な攘夷論を主張し、江戸防備のために大砲74門を鋳造、弾薬と共に幕府に献上、また石川島で建造した洋式軍艦帆船「旭日丸」を幕府に献上したということ。

また斉昭は、安政2年(1855年)、軍制改革参与に任じられるも、同年に起こった安政大地震で、藤田東湖や戸田忠太夫という大事なブレーンが死去、斉昭はかなり困ったそう。そして安政4年(1857年)に阿部正弘の死去後は、開国を推進する井伊直弼と対立するように。

\次のページで「2-9、斉昭、将軍継嗣問題でも井伊直弼と対立」を解説!/

2-9、斉昭、将軍継嗣問題でも井伊直弼と対立

さらに13代将軍家定の継嗣問題で、紀州藩主慶福を擁す南紀派の井伊直弼らに対し、斉昭は実子の慶喜を擁す一橋派として、直弼と激しいバトルを。

しかし、安政5年(1858年)に直弼が大老に就任し、日米修好通商条約を独断で調印、そして将軍家定が跡継ぎを慶福(家茂)に決定したため、斉昭は、安政5年(1858年)6月、越前藩主松平慶永、尾張藩主慶勝、一橋慶喜らと江戸城無断登城を行い、井伊直弼を詰問したため、7月には江戸の水戸屋敷で謹慎となったが、孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことで、幕府がないがしろにされたと井伊直弼が激怒、安政6年(1859年)、斉昭は、水戸での永蟄居に。

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戊午の密勅(ぼごのみっちょく)とは
安政5年(1858年)8月8日に孝明天皇が水戸藩に対して、幕政改革を指示する勅書を直接下賜した事件で、「戊午」は下賜された安政5年の干支のことで、「密勅」は正式な手続きを経ずに下賜された勅語。

この異例の勅諚は、条約調印についての幕府の対処を批判し、水戸藩の攘夷(じょうい)の推進を促す内容で、朝廷が将軍を差し置き臣下の水戸藩へ直接勅書が渡され、そして水戸藩から諸藩に対して密勅の写しを回送する指示を出してあったために、幕府の威信失墜になりかねず、幕府は勅諚の内容秘匿を水戸藩主の慶篤に命じ、大老井伊直弼による安政の大獄が本格的に。

2-10、斉昭、永蟄居のまま死去

安政6年(1859年)8月、安政の大獄で斉昭は永蟄居となり、水戸に幽閉状態になったが、翌年の万延元年(1860年)8月、蟄居処分のまま61歳で急死。

壮年から狭心症の症状がみられ、脚気にもかかっていたということで死因は心筋梗塞と推定されるそう。桜田門外の変から間もない時期のため、彦根藩士による暗殺の噂もあったが、当時の彦根藩の調査では否定。

\次のページで「3-1、斉昭の逸話」を解説!/

3-1、斉昭の逸話

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不明。 - 京都大学付属図書館所蔵品, パブリック・ドメイン, リンクによる

水戸藩領内の景勝地「水戸八景」を選定したとか、斉昭が詠んだ歌たもとで水戸藩中屋敷址に弥生という地名が付いたため、弥生時代の間接的な名付け親となったとか、大の肉好きだったとか、武術にも堪能で神発流砲術、常山流薙刀術の創始者であるとか、ほかにもいろいろな逸話があります。

3-2、常識外のセクハラおやじだった

斉昭は大奥の女性たちに嫌われたため、将軍家定の継嗣問題にも悪影響を及ぼしたことは有名。現代と違い、正室のほかに側室がいることも、正室以外の母から生まれた子供がいることも問題にならなかった時代、実質上将軍のハーレムでもあったはずのあの大奥の女性たちになぜ嫌われたのか。

斉昭には、先代藩主の兄の正室で将軍家斉の娘峰姫の美貌の上臈唐橋(元大奥女中で公家出身)に手を出した話、長男の慶篤の正室線姫の急死が、斉昭が線姫に手を出したための自害だったという話が。

これは要するに斉昭の女好きが一線を越えているということで、斉昭正室と将軍家慶の正室が姉妹、家慶時代の大奥で絶大な権勢を振るった上臈御年寄姉小路と水戸藩奥に仕える老女花野井は、公卿橋本家の出身で姉妹(和宮の大叔母)という具合に、大奥の情報ネットワークはあなどれないものだということ。

また、斉昭の水戸藩での廃仏毀釈、質素倹約贅沢禁止なども、仏教への信心の篤く贅沢が命の大奥女性たちに嫌われたようで、もちろんセクハラまがいの発言も多かったということで、13代将軍家定の実母本寿院 (家慶側室)は、斉昭の息子の慶喜が将軍継嗣になれば自殺するとまで忌み嫌い、大奥を一橋派にし、慶喜将軍推進のために島津斉彬によって大奥入りした天璋院篤姫でさえも、水戸嫌いとなり南紀派に。

3-3、倹約家であった

水戸家は実高が表高よりも低く、毎年幕府から1万両の援助金を受けていたが、斉昭は、祖公以来、35万石で暮らすことが本意であるので、以後は奢侈を固く禁止し節約して拝領した石高で暮らすべき。家来たちも持高に応じた忠勤に励み、役人たちもこの趣旨に沿って生計をたてるようにと1万両を幕府に返上したということ。

また、斉昭が藩主就任間もない頃、家臣らは先代藩主の兄と同じ食事を用意したところ、斉昭は、御三家の格式は非常に重いので、表向きのことは変更できないだろうが、食事などの内向きのことに金をかけるなと言い、翌日から部屋住みの頃の食事に戻させたそう。

3-4、斉昭の子供たち

17人の夭折を含めて37人の子供が誕生しましたが、長男慶篤は水戸藩10代藩主に、3女祝姫(欽子、本岐姫)は家老山野辺義正室に、6女松姫(明子)は盛岡藩主南部利剛室、5男池田慶徳は鳥取藩主7男慶喜は一橋徳川家当主、のち第15代将軍、8男は川越藩主松平直侯、9男初め忍藩主、のち岡山藩主池田茂政、10男浜田藩主松平武聰、9女八代姫(孝子)仙台藩主伊達慶邦室、11男喜連川藩主喜連川縄氏、14男松平昭訓、11女茂姫(貞子)有栖川宮熾仁親王室、16男島原藩主松平忠和、12女愛姫(愛子)下総高岡藩主井上正順室、17男土屋藩主土屋挙直、18男清水家当主、のち水戸藩11代当主徳川昭武、19男初めは会津藩主松平容保の養子、のち守山藩主松平喜徳、22男守山藩主松平頼之、15女正姫(正子) 初め英勝寺住持、のち異母兄池田慶徳の養女となって池田徳澄室と、いろいろな大名家や宮家とも縁組を。

水戸光圀以来の水戸家のカリスマとして尊王攘夷派にもてはやされた

徳川斉昭は、藩主の3男として生まれ、幼少から期待されて養子にやられなかったせいで30歳まで部屋住みの身分だったが、兄の早世で藩主になった人。藩主になって後は、自分を支持する層から有能な学者たちを登用して藩政改革を行い、ブレーンの助言があったために、彼らが安政の大地震で亡くなるまでは幕政に提言を。

また藩校の弘道館はあの水戸黄門光圀以来の水戸学を教え、尊王攘夷のメッカとなり、斉昭も水戸の老公としてカリスマ的な存在にと、その後の討幕運動の推進力となった思想に。

そして英邁と評判の息子慶喜を将軍にという運動も行ったが、慶喜は14代にはなれず。しかし斉昭はその後の将軍後見職、そして15代将軍となった後、大政奉還を行い、鳥羽伏見の戦いの敗戦後、大坂城から逃げ帰って勝海舟に丸投げしてひたすら謹慎した慶喜を見ずに亡くなったのは幸せだったかも。

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日本史歴史江戸時代

水戸の烈公15代将軍慶喜の父「徳川斉昭」を歴女がわかりやすく解説

今回は徳川斉昭を取り上げるぞ。幕末によく名前が出てくるが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末は勤皇佐幕に関係なく興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、徳川斉昭について5分でわかるようにまとめた。

1-1、徳川斉昭は7代藩主の3男

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徳川斉昭(なりあき)は、寛政12年(1800年)3月、水戸藩江戸小石川藩邸で誕生。父は水戸藩7代藩主徳川治紀(はるとし)、母は側室で日野家一門の公卿の外山氏の娘永(瑛想院)。

きょうだいは3人夭折し、男5人と女6人、斉昭は3男。長男斉脩(なりのぶ)は8代水戸藩主、3女偉姫(従子)は二条斉信室、5女規姫は高須藩主松平義建室(尾張藩主徳川慶勝の母)、4女鄰姫(清子)は鷹司政通室、6女苞姫(厚姫)は守山藩主松平頼誠(よりのぶ)室、次男は水戸の支藩高松藩主松平頼恕(よりひろ)、4男は水戸の支藩宍戸藩主松平頼筠(よりかた)。

斉昭の幼名は虎三郎、敬三郎、初めは父治紀の偏諱をもらって紀教(としのり)を名乗ったが、藩主に就任後、11代将軍徳川家斉の偏諱をもらって斉昭に。

尚、亡くなった後の諡号(しごう)は烈公、字は子信、号は景山、潜龍閣。2代藩主光圀とともに祀られているため、神号は「押健男国之御楯命」(おしたけおくにのみたてのみこと)・「奈里安紀良之命」(なりあきらのみこと)。

1-2、斉昭の子供時代

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斉昭は、有名な儒者会沢正志斎のもとで、水戸学(儒学思想を中心にして、国学、史学、神道を結合させたもので、幕末の思想家にも多大な影響)を学び、聡明といわれたということ。

斉昭の男兄弟は4人が成長、3歳上の長兄斉脩は次代藩主、次兄と弟も支藩へはやくから養子先が決まっていたが、3男の斉昭は30歳まで部屋住み、これは優秀で期待されたがひ弱だった斉脩の控え的存在だったため。また父の治紀は斉昭に対して、もし他家に養子に入るならば、朝廷と幕府が敵対したときに朝廷に弓をひく可能性がある譜代大名の養子に入るなと言い残したという話も。

2-1、斉昭、兄の病死でお家騒動になりかけたが、9代藩主に

斉昭の兄の藩主斉脩の正室は11代将軍家斉の娘峰姫だったが、子供がないため、家斉は数多くの息子の一人を水戸家の養子にと狙っていたが、文政11年(1828年)には具体的に家斉の20男恒之丞(徳川斉彊)が養子候補となり、また恒之丞と斉昭の長女賢姫(のちに宇和島藩主伊達宗城と婚約したが夭逝)とを結婚させ、水戸藩を継がせるという話まであったそう。

そして水戸家家中では上士層が幕府との関係を深めて援助や加増を期待して図りたい将軍養子派、それに対し斉脩の治世で冷遇された下士層は激しく反発、藩主の弟である斉昭の継承を主張して対立。文政12年(1829年)9月、斉脩の病状が悪化すると10月1日、斉昭擁立派40名あまりが無断で江戸に上って緊迫するなかで、斉脩ははっきりと継嗣を決めないまま10月4日に33歳で死去。

ここで泥沼のお家騒動となるかと思いきや、斉脩の死後ほどなく、弟斉昭を跡継ぎにと書いた遺書が発見されて、斉昭が9代藩主に決定。

2-2、斉昭、有栖川宮家の姫宮と結婚

斉昭は、天保2年(1832年)、有栖川宮織仁親王の娘、登美宮吉子女王(とみのみやよしこじょおう)と結婚。兄に有栖川宮韶仁親王、尊超入道親王、姉に喬子女王(12代将軍家慶正室)、織子女王(広島藩主浅野斉賢正室)、幸子女王(長州藩主毛利斉房正室)など。しかし吉子女王は、天保元年(1830年)、27歳という結婚適齢期過ぎた年齢で斉昭と婚約したため、「幕末の水戸藩」によれば、本当は殿様より年上だとか、本当の年はわからないなどと影口が。

尚、斉昭は31歳で、それまでは部屋住みだったため正室なしだったということ。また、この婚約は吉子女王の姉で、12代将軍家慶の正室喬子女王のお声掛かりで、婚約の勅許を下した仁孝天皇も、「水戸は先代以来、政教能く行われ、世々勤王の志厚しとかや、宮の為には良縁なるべし」とご満足。

斉昭は、結婚後も数多くの側室に37人の子が続々と生まれたが、夫婦仲は円満。吉子女王は義理の母となった峯寿院(8代藩主徳川斉脩の正室)に、「自分は年齢が高く、子供は無理かもしれないので、側室を置いてくれるように」と申し出たが、斉昭との間に長男慶篤(10代水戸藩主)、2男二郎麿(夭折)、7男慶喜(15代将軍)、女子一人(夭折)が誕生。

夫によく仕えて、庶子の教育にも目を配った賢夫人と言われ、和歌や有栖川流の書、刺繍や押絵、楽器では箏や篳篥、釣りも趣味という多芸さで、12代将軍家慶の正室の妹で、宮家出身のため井伊直弼ら南紀派の幕府首脳に警戒されたそう。

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