平清盛を排出した伊勢平氏
平将門によって倒された伯父の平国香。そして平国香の息子・平貞盛が平将門を倒しましたね。その平貞盛の四男・平維衡からはじまる一族が関東から伊勢国(三重県)に移り住み、朝廷や上流貴族に仕える軍事貴族となったのが「伊勢平氏」でした。
伊勢平氏は当時武家として勢力を伸ばした河内源氏と対をなす武門となります。けれど、藤原摂関家に仕え、さらに関東に勢力を持つ河内源氏に対して、伊勢平氏はどうしても見劣りしてしまいがちでした。
そんな不利な状況でもなんとか上にいけないかと努力した結果、伊勢平氏は西の国々の国司を歴任して勢力圏を拡大していきます。一方、源氏は摂関家の弱体や関東で源氏内での紛争が起こり、しだいに両者の立場は逆転しはじめました。
そうして、平清盛が生まれるころには、ライバルだった源氏は這う這うの体であり、かたや平清盛の父・平忠盛は院御所を警備するエリート「北面武士」の一員となっていたのでした。
こちらの記事もおすすめ
平清盛を生んだ「伊勢平氏」とは?その発祥と行く末を元大学教員が5分でわかりやすく解説
平氏政権の樹立
平清盛の出世の第一歩は「保元の乱」にはじまりました。この乱で後白河天皇サイドについて勝利を収めた平清盛は出世コースまっしぐら。四年後に起こった「平治の乱」でも勝つと、いよいよ日本の軍事権や警察権を手中に収めます。
そうして、平清盛は日本初の武士出身の太政大臣(現在でいうところの内閣総理大臣)にまで上り詰めたのでした。
さらに、平清盛は娘を高倉天皇に嫁がせ、孫の安徳天皇に皇位を継いでもらったことで外祖父となり、本当にすべてを手に入れていきます。平家は彼のもとで、朝廷の権力と軍事力、さらに日宋貿易で手に入れた経済力により大きくなっていきました。
「平家にあらずんば人にあらず」とは、このとき「平忠時」が言った言葉です。平忠時は先述した通り「高棟王」の末裔ですね。
こちらの記事もおすすめ
源平合戦への序章「保元の乱」を源平マニアが5分でわかりやすく解説!
打倒・平清盛を掲げた源氏
伝狩野元信 – 『源平合戦図屏風』 赤間神宮所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる
平家が国の頂点を極める一方、冷遇され続けた源氏。このとき、「平治の乱」で伊豆へ流罪となった「源頼朝」が平家の監視下のもとで成長していました。彼を監視していたのは「北条時政」。名字こそ違いますが、北条家は平氏の傍流、平家の縁者です。
けれど、監視下においた源頼朝と娘の北条政子が恋仲になってしまいます。これが平家に伝わったら一大事。裏切り者と誹られるでしょう。頭を抱えた北条時政でしたが、結局はふたりの結婚を許して源頼朝の後援者となりました。
そこへきて、平家の圧政に耐えかねた都の以仁王から平家打倒の令旨が各地に散っていた源氏の人々に届きます。最初こそ静観していた源頼朝でしたが、源頼政の敗走をきっかけに伊豆の主が平時忠に代わるやいなや、東国に平家の手が伸びてきました。
一度は死罪を見逃された源頼朝でしたが、このまま放っておいてはいつ殺されるかわかりません。挙兵を決めた源頼朝は、縁故のある関東の豪族に協力を求め、打倒平家を掲げて立ち上がったのでした。
こちらの記事もおすすめ
幕府に捧げた波乱万丈の一生「北条政子」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説
驕る平家は久しからず
かくして始まった源平合戦(治承・寿永の乱)は六年もの長きにわたり、源義経の活躍によって源氏の勝利に終わりました。
ことわざに「驕る平家は久しからず」とありますね。これはまさしく平清盛の平家一門の運命に由来するもので「栄華を極めた平家の天下も、その傲慢さによって必ず失脚する。だから、勢いが盛んなときほど慎まねばならない」という意味です。
最後の「壇ノ浦の戦い」で、負けが決まった平家の人々は次々に海に飛び込むという悲しい結末を迎えました。
武士だけでなく、政治家としても
武士のイメージの強い「平氏」ですが、もともとは天皇家の血筋から生まれた賜姓皇族の一筋でした。なので、政治家として活躍した平氏の人々もいます。ただ、平安時代といえばちょうど藤原氏がとてつもなく強い時代でしたから、その陰に隠れてしまったのでしょう。
けれど、その藤原氏や他の貴族から政権をもぎとったのは紛れもなく武士だった「平清盛」です。さらに前時代の「平将門」は朝廷を脅かすほどの勢力を築き上げ、独立国まで作ってしまいました。
両者ともに武士でありながら、政治面まで手を伸ばした立派な政治家と言えます。