今回のテーマとなる「平氏」ですが、「平氏」と言えば平家物語に登場する「平清盛」が最も著名です。しかし、長い日本の歴史を紐解けば彼以外にも、もちろん「平」の姓を持つ人間が登場する。
今回は「平氏」の始まりから歴史に名を残した「平将門」や「平清盛」らを中心に歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平氏は源氏のライバルとして描写されるため詳しくなりました。

1.そもそも「平氏」ってなに?

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桜木先生のおっしゃった通り「平氏」と言えば平家物語の「平清盛」を最初に思い浮かべる人が多いでしょう。何年か前には大河ドラマの主役にもなりましたね。まずは「平氏」が生まれた経緯からお話ししていきましょう。

日本の名字の歴史

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今でこそ日本人の誰もが生まれながらにもっている名字ですが、古代の日本では名字に対する感覚が私たちとは少し異なりました。「平氏」を知るために、ここで名字の歴史について簡単に触れておきましょう。

まず、名字とは家族や親せきなど血のつながった集団を指す言葉ですね。平安時代以前は「氏(うじ)」といって、氏を同じくする血縁集団を「氏族」といいました。さらに古代日本のヤマト王権下では、「氏姓制度」によって出身氏族で政治的な地位や就ける役職が決まっていたんですよ。

「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」の「中臣氏」は神事担当で、「物部守屋(もののべのもりや)」の「物部氏」は軍事や刑罰を担当する、といった具合です。

臣籍降下で名字をたまわる

「氏族」のようにもともと名字があった人々とは別に皇族が名字を与えられて天皇家を離れることもありました。これを「臣籍降下」といいます。また、臣籍降下によって名字を賜った彼らを「賜姓(しせい)皇族」と呼びました。「源」か「平」の氏が与えられるようになる前は「橘」や「清原」などさまざまな氏が与えられいます。

増えすぎた藤原氏

平安時代、朝廷の重要な役職に就いた貴族の多くが「源」「平」「藤原」「橘」の名字だったため、四つをまとめて「源平藤橘」といいました。

このなかでも特に強かったのが「藤原氏」。藤原不比等からはじまり、彼の四人の息子たちがそれぞれ四つの家を起こして興亡します。そうすると、今度は権力の中枢から端の役人まで、朝廷内の役人たちに藤原の名字を持つ人が非常に多くなってしまいました。右を見ても左を見ても藤原です。「すみません、中務省の藤原さんを呼んでもらえませんか?」と窓口で頼んでもどの藤原さんかわかりません。きっと窓口の人も藤原さんです。

藤原姓が増えすぎたことで、藤原さん同士でも区別がつかなくて不便になってしまったんですね。それで平安時代後期になると、藤原姓の貴族たちは、自分の邸宅がある地名を名字として名乗るようになりました。京都の「一条」に住んでいたから「一条さん」、「近衛」に住んでいたから「近衛さん」という具合です。これは現代の私たちと同じような名字の使い方ですね。

平氏のはじまり

初めて「平」姓が生まれたのは、825年の淳和天皇の時代。淳和天皇は異母兄弟の葛原親王の息子「高棟王(たかむねおう)」「善棟王(よしむねおう)」「高望王(たかもちおう)」らを臣籍降下させて「平」の姓を与えたのです。

葛原親王が桓武天皇の息子だったことから、彼らを「桓武平氏」といいます。「平氏」の前につく「桓武」は、「桓武天皇の血縁」という意味があるのです。「平氏」にはこの「桓武平氏」の他に、「仁明平氏」「文徳平氏」「光孝平氏」の四つの流派がありました。

先述した「平清盛」や「平将門」は「高望王」の子孫なので「桓武平氏」にあたります。

「平氏」と言えば武士のイメージだが…

みなさんのなかでは「平氏」と言えば武士のイメージが強いでしょう。しかし、「平氏」のなかでも武家となったのは「高望王」の子孫のみで、あとはみんな文官だったんです。

なかでも「高棟王」の子孫で、平安中期の公家「平惟仲(たいらのこれなか)」は能力を認められて従二位中納言大宰帥にまで上りつめていました。「従二位」は上から数えて四番目くらいに高い地位、「中納言」は天皇のそばに仕える役職、最後の「太宰帥」は大宰府(九州)の長官を指します。とんでもないエリートですね。

その後も「高棟王」の一族からは、平清盛の正室・平時子が生まれ、彼女の弟の「平時忠」は平清盛の影響で正二位大納言、妹の「平滋子」は後白河天皇の皇太后、そして高倉天皇の母となりました。

平時忠は源平合戦の末、壇ノ浦の戦いのあとに能登(石川県北部)に流罪となりましたが、彼の弟・平親宗や叔父・平信範の子孫は以降も公家として存続していました。また、名字こそ「平」から変わりましたが、江戸時代にも上流貴族の家柄を排出しています。

「高望王」上総へ赴任、坂東平氏の誕生

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皇族の末裔として、公家として朝廷につとめる「平氏」の人々がいる一方、「高望王」は上総国(現在の千葉県)の国司に任命されます。普通、地方へ任官された貴族は、その土地まで行かずに代理人を現地に派遣して自分は都に残るものでした。この方法を「遙任」といって、貴族の誰もが行っていたことです。

しかし、「高望王」は都にいては将来の展望がないと判断して、息子の平国香(たいらのくにか)や平良将(たいらのよしまさ)らをともなって上総国へ赴きました。そうして、任期が過ぎても都へ帰らず、息子たちは現地で家族をつくって未開墾地の開発を行い、東国に勢力を広げていったのです。

土地を開発すれば、当然、その土地から得られる利益を守る必要性がでてきますよね。土地の権利を守るべく、「高望王」たちは戦えるものを集め、武士団を形成していったのでした。これが、「平氏」における武士の誕生です。

2.「将門記」の中心人物・平将門

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豊原国周 - ウォルターズ美術館: Home page  Info about artwork, パブリック・ドメイン, リンクによる

軍記物語のなかでも最も初期の「将門記」は、「平将門の乱」を中心に書かれています。中心人物はもちろん「平将門」そのひと。「将門記」自体は、作者も成立年代も不明で、現存する写本にも欠けがあります。しかしながら、「平将門の乱」の一部始終が詳細に書かれていることから、史料として高い評価を得た書物です。

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平将門はどんな人?

平将門は15~16歳のころに、一族が捨てたはずの京の都へ赴き、当時の藤原北家の氏長者だった藤原忠平に仕えはじめたのです。

前述の通り父・平良将は鎮守府将軍であり、平将門自身もまた桓武天皇の子孫でありましたが、藤原氏が幅を利かせる平安京において、主君の藤原忠平には認められながらも平将門が大出世することはできずに中級官吏止まりでした。それで結局、父の平良将が亡くなったのをきっかけに、東国へ戻ることにしたのです。

坂東平氏内で内紛勃発

さて、東国へ戻った平将門でしたが、ここからが「将門記」のメインストーリーのはじまりです。

平将門が平安京から帰ってみると、父・平良将の遺領は伯父の平国香らに横取りされているではありませんか。親戚とはいえ、こんな非道に黙っていられません。平将門は下総国豊田を本拠地にして勢力を伸ばしながら、伯父たちに反撃を開始しました。

一族内の私闘は両者押しつ押されつの末、平将門が勝利をおさめます。そうして、熾烈な戦いを終えたころには、平将門は周囲から頼られる存在になっていたのでした。

朝廷との対立へ

翌932年に武蔵国権守の興世王(おきよおう)と、新たに赴任してきた武蔵国守百済貞連が不和となり、興世王は自分の任地を離れて平将門にべったり頼るようになってしまいます。さらにそこへ常陸国(茨城県)のお尋ね者だった藤原玄明(ふじわらのはるあき)を匿い、やがて平将門と朝廷の対立は高まっていきました。

そうして、ついに平将門と常陸国の国府とで合戦となってしまいます。国府というのは、簡単に言うと今の県庁みたいなもので、朝廷から派遣された国司や役人たちが勤めているところでした。なので、「国府を襲撃する=朝廷に対する謀反」であり、こうなってしまうともう平将門はどんな言い訳をしても国家への謀反人として裁かれるしかありません。

しかし、平将門は常陸国を打ち負かしてしまうどころか、常陸国国府の制圧だけに止まらず、下野国(栃木県)や上野国(群馬県)の国府を襲撃して制圧してしまうのです。

周辺諸国を次々と配下においた平将門は関東を我がものとし、とうとう彼は自身を「新皇」として王座についたのでした。

平将門追討の命令

平将門の謀反に独立国樹立の報はすぐさま朝廷へともたらされました。そうしてただちに平将門追討の命令が下り、平将門のいとこ平貞盛と、のちに三上山の大ムカデ退治伝説で名をはせる藤原秀郷(俵籐太)が東国へ駆けつけます。

ここからまた凄惨な合戦になると思いきや、しかし、平将門の軍勢は奮わずにあっけなく打ち取られてしまうのでした。独立国樹立から、わずか二ヶ月目のことです。

3.平安時代末の大政治家

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平安時代末期、武士としても、政治家としても大出世を果たした「平清盛」。「平氏」は「平」の名字を持つ人々すべてにあてはまりますが、平清盛の一族を特に「平家」といいました。

\次のページで「平清盛を排出した伊勢平氏」を解説!/

平清盛を排出した伊勢平氏

平将門によって倒された伯父の平国香。そして平国香の息子・平貞盛が平将門を倒しましたね。その平貞盛の四男・平維衡からはじまる一族が関東から伊勢国(三重県)に移り住み、朝廷や上流貴族に仕える軍事貴族となったのが「伊勢平氏」でした。

伊勢平氏は当時武家として勢力を伸ばした河内源氏と対をなす武門となります。けれど、藤原摂関家に仕え、さらに関東に勢力を持つ河内源氏に対して、伊勢平氏はどうしても見劣りしてしまいがちでした。

そんな不利な状況でもなんとか上にいけないかと努力した結果、伊勢平氏は西の国々の国司を歴任して勢力圏を拡大していきます。一方、源氏は摂関家の弱体や関東で源氏内での紛争が起こり、しだいに両者の立場は逆転しはじめました。

そうして、平清盛が生まれるころには、ライバルだった源氏は這う這うの体であり、かたや平清盛の父・平忠盛は院御所を警備するエリート「北面武士」の一員となっていたのでした。

平氏政権の樹立

平清盛の出世の第一歩は「保元の乱」にはじまりました。この乱で後白河天皇サイドについて勝利を収めた平清盛は出世コースまっしぐら。四年後に起こった「平治の乱」でも勝つと、いよいよ日本の軍事権や警察権を手中に収めます。

そうして、平清盛は日本初の武士出身の太政大臣(現在でいうところの内閣総理大臣)にまで上り詰めたのでした。

さらに、平清盛は娘を高倉天皇に嫁がせ、孫の安徳天皇に皇位を継いでもらったことで外祖父となり、本当にすべてを手に入れていきます。平家は彼のもとで、朝廷の権力と軍事力、さらに日宋貿易で手に入れた経済力により大きくなっていきました。

「平家にあらずんば人にあらず」とは、このとき「平忠時」が言った言葉です。平忠時は先述した通り「高棟王」の末裔ですね。

打倒・平清盛を掲げた源氏

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伝狩野元信 - 『源平合戦図屏風』 赤間神宮所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

平家が国の頂点を極める一方、冷遇され続けた源氏。このとき、「平治の乱」で伊豆へ流罪となった「源頼朝」が平家の監視下のもとで成長していました。彼を監視していたのは「北条時政」。名字こそ違いますが、北条家は平氏の傍流、平家の縁者です。

けれど、監視下においた源頼朝と娘の北条政子が恋仲になってしまいます。これが平家に伝わったら一大事。裏切り者と誹られるでしょう。頭を抱えた北条時政でしたが、結局はふたりの結婚を許して源頼朝の後援者となりました。

そこへきて、平家の圧政に耐えかねた都の以仁王から平家打倒の令旨が各地に散っていた源氏の人々に届きます。最初こそ静観していた源頼朝でしたが、源頼政の敗走をきっかけに伊豆の主が平時忠に代わるやいなや、東国に平家の手が伸びてきました。

一度は死罪を見逃された源頼朝でしたが、このまま放っておいてはいつ殺されるかわかりません。挙兵を決めた源頼朝は、縁故のある関東の豪族に協力を求め、打倒平家を掲げて立ち上がったのでした。

驕る平家は久しからず

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かくして始まった源平合戦(治承・寿永の乱)は六年もの長きにわたり、源義経の活躍によって源氏の勝利に終わりました

ことわざに「驕る平家は久しからず」とありますね。これはまさしく平清盛の平家一門の運命に由来するもので「栄華を極めた平家の天下も、その傲慢さによって必ず失脚する。だから、勢いが盛んなときほど慎まねばならない」という意味です。

最後の「壇ノ浦の戦い」で、負けが決まった平家の人々は次々に海に飛び込むという悲しい結末を迎えました。

武士だけでなく、政治家としても

武士のイメージの強い「平氏」ですが、もともとは天皇家の血筋から生まれた賜姓皇族の一筋でした。なので、政治家として活躍した平氏の人々もいます。ただ、平安時代といえばちょうど藤原氏がとてつもなく強い時代でしたから、その陰に隠れてしまったのでしょう。

けれど、その藤原氏や他の貴族から政権をもぎとったのは紛れもなく武士だった「平清盛」です。さらに前時代の「平将門」は朝廷を脅かすほどの勢力を築き上げ、独立国まで作ってしまいました。

両者ともに武士でありながら、政治面まで手を伸ばした立派な政治家と言えます。

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平安時代日本史歴史

簡単でわかりやすい「平氏」の歴史!「平将門」や「平清盛」も歴史オタクが詳しく解説

平清盛を排出した伊勢平氏

平将門によって倒された伯父の平国香。そして平国香の息子・平貞盛が平将門を倒しましたね。その平貞盛の四男・平維衡からはじまる一族が関東から伊勢国(三重県)に移り住み、朝廷や上流貴族に仕える軍事貴族となったのが「伊勢平氏」でした。

伊勢平氏は当時武家として勢力を伸ばした河内源氏と対をなす武門となります。けれど、藤原摂関家に仕え、さらに関東に勢力を持つ河内源氏に対して、伊勢平氏はどうしても見劣りしてしまいがちでした。

そんな不利な状況でもなんとか上にいけないかと努力した結果、伊勢平氏は西の国々の国司を歴任して勢力圏を拡大していきます。一方、源氏は摂関家の弱体や関東で源氏内での紛争が起こり、しだいに両者の立場は逆転しはじめました。

そうして、平清盛が生まれるころには、ライバルだった源氏は這う這うの体であり、かたや平清盛の父・平忠盛は院御所を警備するエリート「北面武士」の一員となっていたのでした。

平氏政権の樹立

平清盛の出世の第一歩は「保元の乱」にはじまりました。この乱で後白河天皇サイドについて勝利を収めた平清盛は出世コースまっしぐら。四年後に起こった「平治の乱」でも勝つと、いよいよ日本の軍事権や警察権を手中に収めます。

そうして、平清盛は日本初の武士出身の太政大臣(現在でいうところの内閣総理大臣)にまで上り詰めたのでした。

さらに、平清盛は娘を高倉天皇に嫁がせ、孫の安徳天皇に皇位を継いでもらったことで外祖父となり、本当にすべてを手に入れていきます。平家は彼のもとで、朝廷の権力と軍事力、さらに日宋貿易で手に入れた経済力により大きくなっていきました。

「平家にあらずんば人にあらず」とは、このとき「平忠時」が言った言葉です。平忠時は先述した通り「高棟王」の末裔ですね。

打倒・平清盛を掲げた源氏

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伝狩野元信 – 『源平合戦図屏風』 赤間神宮所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

平家が国の頂点を極める一方、冷遇され続けた源氏。このとき、「平治の乱」で伊豆へ流罪となった「源頼朝」が平家の監視下のもとで成長していました。彼を監視していたのは「北条時政」。名字こそ違いますが、北条家は平氏の傍流、平家の縁者です。

けれど、監視下においた源頼朝と娘の北条政子が恋仲になってしまいます。これが平家に伝わったら一大事。裏切り者と誹られるでしょう。頭を抱えた北条時政でしたが、結局はふたりの結婚を許して源頼朝の後援者となりました。

そこへきて、平家の圧政に耐えかねた都の以仁王から平家打倒の令旨が各地に散っていた源氏の人々に届きます。最初こそ静観していた源頼朝でしたが、源頼政の敗走をきっかけに伊豆の主が平時忠に代わるやいなや、東国に平家の手が伸びてきました。

一度は死罪を見逃された源頼朝でしたが、このまま放っておいてはいつ殺されるかわかりません。挙兵を決めた源頼朝は、縁故のある関東の豪族に協力を求め、打倒平家を掲げて立ち上がったのでした。

驕る平家は久しからず

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かくして始まった源平合戦(治承・寿永の乱)は六年もの長きにわたり、源義経の活躍によって源氏の勝利に終わりました

ことわざに「驕る平家は久しからず」とありますね。これはまさしく平清盛の平家一門の運命に由来するもので「栄華を極めた平家の天下も、その傲慢さによって必ず失脚する。だから、勢いが盛んなときほど慎まねばならない」という意味です。

最後の「壇ノ浦の戦い」で、負けが決まった平家の人々は次々に海に飛び込むという悲しい結末を迎えました。

武士だけでなく、政治家としても

武士のイメージの強い「平氏」ですが、もともとは天皇家の血筋から生まれた賜姓皇族の一筋でした。なので、政治家として活躍した平氏の人々もいます。ただ、平安時代といえばちょうど藤原氏がとてつもなく強い時代でしたから、その陰に隠れてしまったのでしょう。

けれど、その藤原氏や他の貴族から政権をもぎとったのは紛れもなく武士だった「平清盛」です。さらに前時代の「平将門」は朝廷を脅かすほどの勢力を築き上げ、独立国まで作ってしまいました。

両者ともに武士でありながら、政治面まで手を伸ばした立派な政治家と言えます。

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