平将門はどんな人?
平将門は15~16歳のころに、一族が捨てたはずの京の都へ赴き、当時の藤原北家の氏長者だった藤原忠平に仕えはじめたのです。
前述の通り父・平良将は鎮守府将軍であり、平将門自身もまた桓武天皇の子孫でありましたが、藤原氏が幅を利かせる平安京において、主君の藤原忠平には認められながらも平将門が大出世することはできずに中級官吏止まりでした。それで結局、父の平良将が亡くなったのをきっかけに、東国へ戻ることにしたのです。
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坂東平氏内で内紛勃発
さて、東国へ戻った平将門でしたが、ここからが「将門記」のメインストーリーのはじまりです。
平将門が平安京から帰ってみると、父・平良将の遺領は伯父の平国香らに横取りされているではありませんか。親戚とはいえ、こんな非道に黙っていられません。平将門は下総国豊田を本拠地にして勢力を伸ばしながら、伯父たちに反撃を開始しました。
一族内の私闘は両者押しつ押されつの末、平将門が勝利をおさめます。そうして、熾烈な戦いを終えたころには、平将門は周囲から頼られる存在になっていたのでした。
朝廷との対立へ
翌932年に武蔵国権守の興世王(おきよおう)と、新たに赴任してきた武蔵国守百済貞連が不和となり、興世王は自分の任地を離れて平将門にべったり頼るようになってしまいます。さらにそこへ常陸国(茨城県)のお尋ね者だった藤原玄明(ふじわらのはるあき)を匿い、やがて平将門と朝廷の対立は高まっていきました。
そうして、ついに平将門と常陸国の国府とで合戦となってしまいます。国府というのは、簡単に言うと今の県庁みたいなもので、朝廷から派遣された国司や役人たちが勤めているところでした。なので、「国府を襲撃する=朝廷に対する謀反」であり、こうなってしまうともう平将門はどんな言い訳をしても国家への謀反人として裁かれるしかありません。
しかし、平将門は常陸国を打ち負かしてしまうどころか、常陸国国府の制圧だけに止まらず、下野国(栃木県)や上野国(群馬県)の国府を襲撃して制圧してしまうのです。
周辺諸国を次々と配下においた平将門は関東を我がものとし、とうとう彼は自身を「新皇」として王座についたのでした。
平将門追討の命令
平将門の謀反に独立国樹立の報はすぐさま朝廷へともたらされました。そうしてただちに平将門追討の命令が下り、平将門のいとこ平貞盛と、のちに三上山の大ムカデ退治伝説で名をはせる藤原秀郷(俵籐太)が東国へ駆けつけます。
ここからまた凄惨な合戦になると思いきや、しかし、平将門の軍勢は奮わずにあっけなく打ち取られてしまうのでした。独立国樹立から、わずか二ヶ月目のことです。
3.平安時代末の大政治家
平安時代末期、武士としても、政治家としても大出世を果たした「平清盛」。「平氏」は「平」の名字を持つ人々すべてにあてはまりますが、平清盛の一族を特に「平家」といいました。
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