法然に影響を与えた「善導」と「浄土思想」
当時の中国を支配していた「唐」に「善導(ぜんどう)」という浄土教の僧侶がいました。彼の書いた『観無量寿経疏(観経疏)』を読んだ法然は「人はただ念仏をとなえればいいのだ」と確信します。ひたすら念仏をとなえることを「専修念仏」といいました。
このとき法然が唱えたのが「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏。「阿弥陀仏に帰依(信仰)しています」という意味です。
「阿弥陀仏(あみだぶつ)」は仏の中で抜きんでた力を持った仏様で、阿弥陀仏が遥か昔に悟りを開くときに立てた48の本願のなかに「西方極楽浄土に行きたいと願い、たとえ十回でも念仏すれば、必ず往生できるようにします」というものがありました。
人は阿弥陀仏の本願を頼り、心から阿弥陀仏に帰依して「南無阿弥陀仏」とお念仏すれば、阿弥陀仏のお力によって浄土へ生まれ変わることができる。そして、浄土の阿弥陀仏のもとで修業して悟りを開いて解脱する。これが「浄土教」、あるいは「浄土思想」の教えでした。
法然以前の日本の浄土教
法然が専修念仏の考えに至る以前にももちろん浄土教と浄土思想は日本にありました。伝来したのは7世紀前半。奈良時代の初めあたりですね。「智光」「礼光」などの僧が信仰していましたが、奈良時代は「南都六宗」と呼ばれる奈良の六つの宗派が主流だったため、浄土思想は流行りませんでした。
そうしていよいよ「末法の世」が到来した平安時代後期のこと。比叡山の天台宗の修法のひとつ「常行三見昧」に基づいた念仏が広がり、各寺院の常行三見昧堂を中心に念仏衆が集まるようになりました。
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庶民を救う私度僧の登場
そうしたなか国に属さず、個人的に仏教活動を行う「私度僧」があらわれます。当時の仏教は「鎮護国家」といって、仏教には国を守り安定させる力があるという思想が信じられていました。なので、僧侶は「官僧」といって国のために働く公務員だったのです。私度僧は国や寺に所属せず、庶民の救済を目的として登場したのでした。
私度僧のなかでも特に知徳の優れた僧侶を「聖(ひじり)」と呼びます。平安時代の中期ごろ、人々の信仰を集めた私度僧の「空也(くうや)」は民衆に阿弥陀信仰と念仏を広めたため「阿弥陀聖」、あるいは、「市聖」と呼ばれました。
そして、985年に天台宗の僧侶「源信(げんしん)」が、極楽浄土や地獄の様子を書いた『往生要集』を完成させます。『往生要集』は日本人の浄土観や地獄観に大きな影響を与えた書物ですが、もう一方で、「極楽浄土へ行くためには、念仏を一心にとなえる以外ない」と説きました。これが浄土思想の基礎となって、法然に多大な影響を与えたのです。
ちなみにですが、当時の僧侶は「課役」という労働で納める税が免除されていました。そのため、国の許可なく活動する私度僧は違法とされ、捕まれば杖で百叩きに処されたのです。
43歳まで悩み続けた法然
専修念仏の確信を得たのは法然が43歳のときのこと。法然は自分のことを「十悪の法然房」や「愚痴の法然房」と称して自らを罪につかった人間だと自覚しました。「十悪」とは殺生や盗み、嘘つきなど、人間の犯す悪いこと。さらに、「愚痴」の「愚」と「痴」はともに「おろか」という意味で、自身のおろかさのために煩悩に囚われてしまうことを43歳になるまで法然は悩んでいたのです。
しかし、「阿弥陀仏の本願はそういった人々こそを救ってくださる。だから、人はただ一心に念仏をとなえればよい」と気付いたことで、法然は比叡山を出て、新たに専修念仏をかかげる「浄土宗」を開こうと決心しました。
比叡山を降りて「浄土宗」を開く
そうして最初におり立ったのが、現在の京都市左京区の岡崎です。そこで法然が念仏をとなえて眠ると、夢のなかで仏のようになった「善導」と対面します。それでよりいっそう法然は気持ちを強くして、岡崎に白河禅房という草庵を結びました。この白河禅房は、現在「くろ谷さん」の通称で親しまれる「金戒光明寺」で、知恩院(京都市東山区)と並ぶ格式を持つ浄土宗の七大本山のひとつです。
その後まもなく、法然は京都府長岡京市に西山浄土宗の総本山となる草庵(後の光明寺)を設け、さらに現在の京都市東山区に「吉水草庵」を結んで移り住みました。
法然が吉水草庵に移り、念仏の教えを広めた1175年は、浄土宗はじまりの年とされています。
鎌倉時代の語呂合わせが「1185年(イイハコ)つくろう 鎌倉幕府」。なので、浄土宗は鎌倉時代のはじまる10年前、平清盛の全盛期あたりに誕生したことになります。
吉水草庵の法然のもとには比叡山の官僧だった証空や「親鸞」のはじめ、のちに関白となる大貴族「九条兼実」に庶民たちと、身分の上下に問わずたくさんの人々が入門しました。それほどまで法然の専修念仏は当時の人々に受け入れられたのです。
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既存宗派の秩序を乱す
それまで日本で主流だった宗派は奈良の「南都六宗」や、平安時代に開かれた「天台主」や「真言宗」でした。これらの宗派はいずれも官僧を抱え、寺院や仏像を大切にしています。
しかし、浄土教の教えでは念仏をとなえればいいのですから、わざわざ寺院や仏像の前に行かなくてもかまいません。「空也」も道に立って人々に念仏の教えを説いたから「市聖」と呼ばれたのです。
そして、法然の教えもまた「ただ一心に念仏をすること」でありましたから、浄土宗は旧来の宗派からは秩序を乱す存在とみなされてしまいます。
法然が72歳のとき、奈良の興福寺と比叡山延暦寺からの弾圧によって法然は弟子たちの言動を正す「七箇条制誡」をつくり、比叡山に送りました。
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