「浄土宗」は「浄土信仰」から生まれた仏教の宗派のひとつで、その宗祖となるのが今回のテーマとなる「法然」です。

法然が浄土宗をつくろうとした時代とはいったいどんな様子だったのか、その背景までを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。得意分野の平安時代から派生して、平安時代前後に活躍した仏教の宗派について勉強し、まとめた。

1.末法の世に生まれた「法然」

Takanobu-no-miei.jpg
Fujiwara, Takanobu (1142-1205) - http://08461705.at.webry.info/200810/article_21.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

才能を見出された法然、出家する

1133年、「法然(ほうねん)」は美作国久米(岡山県久米郡)の豪族・漆間氏の息子として生まれました。父の漆間時国は押領使(おうりょうし)という警察のような役目を持つ地方官吏の武士です。しかし、法然が九歳のときに土地を巡る論争に関わったことで夜襲され、父親を亡くしてしまいます。

その後、法然は僧侶の叔父がいる寺に引き取られました。しかし、そこで法然の才能を見出した叔父により、十三歳で仏教の最高学府だった比叡山にのぼることとなったのです。

比叡山でも厚遇を受ける

image by PIXTA / 45381101

比叡山で法然は源光という僧に師事するのですが、源光もまた法然の才覚に気付いて舌を巻いてしまいます。それで源光は法然を肥後阿闍梨・皇円のもとで得度(出家の儀式)させ、天台座主・行玄を戒師として授戒を受けさせました。肩書の字面でなんとなく察してくださるかと思いますが、皇円も行玄も高位の僧侶です。そして、これだけの待遇を受ける人は滅多にいません。それだけ少年時代の法然の才能がすば抜けて素晴らしかったということですね。

出家から三年後の1150年、法然は皇円のもとを辞して比叡山の西塔黒谷の黒谷別所に移り、そこで「叡空(えいくう)」に師事します。叡空は「源信」の書いた『往生要集』の講義で名高い僧侶で、戒律や密教についても比叡山で一番の学僧でした。叡空もまた法然を絶賛して天台教学と浄土教学を授け、さらに師の源光と叡空から一字とった「法然房源空」の名を受けます。これが法然若干18歳のころのことです。

法然の生きた平安時代末期

ここで法然の生きた平安時代末期についてお話ししますと、当時は「末法の世」という非常に荒れた時代でした。

仏教の開祖「ガウタマ・シッダールダ(お釈迦様)」の入滅から2000年後から末法の世が始まるとされ、日本では平安時代後期、西暦でいうと1052年にあたります。この末法の世では仏教の力はすっかり衰えてしまい、仏教の教えは残れど「悟り」を開くことはできないとされていました。さらに、末法の世において人の心は悪に傾きやすく、また煩悩に囚われて苦しみ、世の中は戦争や災害、疫病などで荒れるのです。

実際、当時の朝廷では藤原氏が衰退して「院政」が始まる政権交代があり、寺院には武装した僧兵がいて、自分たちの権利を守るために強訴を起こしまくりました。さらに「保元の乱」や「平治の乱」に続いて「平清盛」による独裁政権の誕生します。そして、六年の長きにわたる「源平合戦(治承・寿永の乱)」が起こり、政治は平安京の天皇や貴族たちから武士たちへ渡って「鎌倉幕府」がはじまるのです。

悟りを開いて輪廻から解脱したいのに……

平安時代後期は前述したように激動の時代であり、非常に不安定な時期でした。生きているだけで苦しいとさえ思えるような時代です。

どうにかしてこの苦しみから逃れられないかと考えますよね。ところが、仏教の大きな枠組みに「輪廻」というものがありました。「輪廻」はこの世に生きるすべてのいのちが、「六道」という六つの世界のどこかに転生し続けるというシステムです。

「六道」は、上から天人の住む「天道」、人間の「人間道」、争いの絶えない阿修羅たちの「修羅道」、動物の「畜生道」、常に空腹に苛まれ苦しむ「餓鬼道」、そして「地獄道」。下の「地獄道」に近づくほど苦しみの強い世界になっていて、どこに生まれ変わるかは生前に背負った業によって決まります。わかりやすく言うと、悪い事をするほど地獄に近づいていってしまう仕組みですね。

さて、この六道ですが、一番上で苦しみがないとされる天道の天人たちでさえ寿命があり、最終的には死の苦しみがあるわけです。どの世界に生まれ変わっても苦しみは絶えないのでした。

輪廻から抜け出す唯一の方法

image by PIXTA / 50761345

この苦しみに満ちた輪廻から抜け出す方法がたったひとつだけありました。それは「悟り」を開くこと。人が悟りを開き、心の迷いが解けて世界の真理を理解することで「解脱」、すなわち、輪廻から解放されるのです。

永遠の苦しみから抜け出せる方法があるとなれば、みんなやりますよね。ところが先述した通り、末法の世では仏教の力は弱まり悟りは開けないのです。唯一の方法だった悟りでさえ、末法の世では封じられていたのでした。

なら、「末法の世が終わるまでなんとか生き延びればいいじゃないか」とトンチの利いた考えが浮かぶものですが、末法の世はなんと一万年も続きます。その圧倒的絶望感たるや。当時の人々の絶望は計り知れなかったことでしょう。

2.「浄土宗」のはじまり

image by PIXTA / 14050087

\次のページで「法然に影響を与えた「善導」と「浄土思想」」を解説!/

法然に影響を与えた「善導」と「浄土思想」

当時の中国を支配していた「唐」に「善導(ぜんどう)」という浄土教の僧侶がいました。彼の書いた『観無量寿経疏(観経疏)』を読んだ法然は「人はただ念仏をとなえればいいのだ」と確信します。ひたすら念仏をとなえることを「専修念仏」といいました。

このとき法然が唱えたのが「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏。「阿弥陀仏に帰依(信仰)しています」という意味です。

「阿弥陀仏(あみだぶつ)」は仏の中で抜きんでた力を持った仏様で、阿弥陀仏が遥か昔に悟りを開くときに立てた48の本願のなかに「西方極楽浄土に行きたいと願い、たとえ十回でも念仏すれば、必ず往生できるようにします」というものがありました。

人は阿弥陀仏の本願を頼り、心から阿弥陀仏に帰依して「南無阿弥陀仏」とお念仏すれば、阿弥陀仏のお力によって浄土へ生まれ変わることができる。そして、浄土の阿弥陀仏のもとで修業して悟りを開いて解脱する。これが「浄土教」、あるいは「浄土思想」の教えでした。

法然以前の日本の浄土教

法然が専修念仏の考えに至る以前にももちろん浄土教と浄土思想は日本にありました。伝来したのは7世紀前半。奈良時代の初めあたりですね。「智光」「礼光」などの僧が信仰していましたが、奈良時代は「南都六宗」と呼ばれる奈良の六つの宗派が主流だったため、浄土思想は流行りませんでした。

そうしていよいよ「末法の世」が到来した平安時代後期のこと。比叡山の天台宗の修法のひとつ「常行三見昧」に基づいた念仏が広がり、各寺院の常行三見昧堂を中心に念仏衆が集まるようになりました。

庶民を救う私度僧の登場

そうしたなか国に属さず、個人的に仏教活動を行う「私度僧」があらわれます。当時の仏教は「鎮護国家」といって、仏教には国を守り安定させる力があるという思想が信じられていました。なので、僧侶は「官僧」といって国のために働く公務員だったのです。私度僧は国や寺に所属せず、庶民の救済を目的として登場したのでした。

私度僧のなかでも特に知徳の優れた僧侶を「聖(ひじり)」と呼びます。平安時代の中期ごろ、人々の信仰を集めた私度僧の「空也(くうや)」は民衆に阿弥陀信仰と念仏を広めたため「阿弥陀聖」、あるいは、「市聖」と呼ばれました。

そして、985年に天台宗の僧侶「源信(げんしん)」が、極楽浄土や地獄の様子を書いた『往生要集』を完成させます。『往生要集』は日本人の浄土観や地獄観に大きな影響を与えた書物ですが、もう一方で、「極楽浄土へ行くためには、念仏を一心にとなえる以外ない」と説きました。これが浄土思想の基礎となって、法然に多大な影響を与えたのです。

ちなみにですが、当時の僧侶は「課役」という労働で納める税が免除されていました。そのため、国の許可なく活動する私度僧は違法とされ、捕まれば杖で百叩きに処されたのです。

43歳まで悩み続けた法然

image by PIXTA / 34671690

専修念仏の確信を得たのは法然が43歳のときのこと。法然は自分のことを「十悪の法然房」や「愚痴の法然房」と称して自らを罪につかった人間だと自覚しました。「十悪」とは殺生や盗み、嘘つきなど、人間の犯す悪いこと。さらに、「愚痴」の「愚」と「痴」はともに「おろか」という意味で、自身のおろかさのために煩悩に囚われてしまうことを43歳になるまで法然は悩んでいたのです。

しかし、「阿弥陀仏の本願はそういった人々こそを救ってくださる。だから、人はただ一心に念仏をとなえればよい」と気付いたことで、法然は比叡山を出て、新たに専修念仏をかかげる「浄土宗」を開こうと決心しました。

比叡山を降りて「浄土宗」を開く

そうして最初におり立ったのが、現在の京都市左京区の岡崎です。そこで法然が念仏をとなえて眠ると、夢のなかで仏のようになった「善導」と対面します。それでよりいっそう法然は気持ちを強くして、岡崎に白河禅房という草庵を結びました。この白河禅房は、現在「くろ谷さん」の通称で親しまれる「金戒光明寺」で、知恩院(京都市東山区)と並ぶ格式を持つ浄土宗の七大本山のひとつです。

その後まもなく、法然は京都府長岡京市に西山浄土宗の総本山となる草庵(後の光明寺)を設け、さらに現在の京都市東山区に「吉水草庵」を結んで移り住みました。

法然が吉水草庵に移り、念仏の教えを広めた1175年は、浄土宗はじまりの年とされています。

鎌倉時代の語呂合わせが「1185年(イイハコ)つくろう 鎌倉幕府」。なので、浄土宗は鎌倉時代のはじまる10年前、平清盛の全盛期あたりに誕生したことになります。

吉水草庵の法然のもとには比叡山の官僧だった証空や「親鸞」のはじめ、のちに関白となる大貴族「九条兼実」に庶民たちと、身分の上下に問わずたくさんの人々が入門しました。それほどまで法然の専修念仏は当時の人々に受け入れられたのです。

既存宗派の秩序を乱す

それまで日本で主流だった宗派は奈良の「南都六宗」や、平安時代に開かれた「天台主」や「真言宗」でした。これらの宗派はいずれも官僧を抱え、寺院や仏像を大切にしています。

しかし、浄土教の教えでは念仏をとなえればいいのですから、わざわざ寺院や仏像の前に行かなくてもかまいません。「空也」も道に立って人々に念仏の教えを説いたから「市聖」と呼ばれたのです。

そして、法然の教えもまた「ただ一心に念仏をすること」でありましたから、浄土宗は旧来の宗派からは秩序を乱す存在とみなされてしまいます。

法然が72歳のとき、奈良の興福寺と比叡山延暦寺からの弾圧によって法然は弟子たちの言動を正す「七箇条制誡」をつくり、比叡山に送りました。

\次のページで「「承元の法難」で流罪」を解説!/

「承元の法難」で流罪

興福寺や比叡山の訴えに、しかし、朝廷の協議はうやむやのうちに終わってしまいました。このまま事態が収束するかと思われた1206年の年の暮れ、浄土宗を揺るがす大事件が起こったのです。

ことの発端は、後鳥羽上皇が熊野詣に出かけている間に、後鳥羽上皇の女房たちが法会に参加したことでした。女房たちは後鳥羽上皇不在の御所に法然の弟子ふたりを招き入れてしまいます。

そのとき、後鳥羽上皇の寵愛していた女房ふたりが出家したこと、さらに不在のうちに男性を御所に泊めたことに後鳥羽上皇は激怒しました。そうして、後鳥羽上皇は法然の弟子四人を死罪に処し、法然は四国に流罪となったのです。

仏教に対する弾圧事件を「法難」といい、この事件を「承元の法難」といいます。

法然は讃岐国(香川県)に流罪となり、さらに僧をやめさせられました(還俗)が、そんなことではめげません。現地でも布教活動を行い、信徒を増やしていったのです。

法然の遺言書『一枚起請文』

法然の流罪はわずか10ヶ月が許され、その後は摂津国(大阪府北中部)の勝尾寺に滞在していました。吉水草庵に戻ったのは1211年のこと。しかし、その翌年の1212年の正月から法然は病床につき、八十歳で亡くなります。

亡くなる直前、法然は弟子の願いに応じて一枚の紙に念仏の心得を書きました。これは法然の遺言書で『一枚起請文』といいます。

人々を救いたい心と専修念仏への確信

不安定な時代に生まれ、周りは悪いことばかりが続きます。しかし、そんななかでも法然は救いを探して悩み抜き、そうして専修念仏へと辿り着きました。その教えはたくさんの人々に届き、受け入れられて、現代まで残る大きな宗派となったのです。

" /> 浄土宗の開祖「法然」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説 – ページ 2 – Study-Z
平安時代日本史歴史

浄土宗の開祖「法然」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

法然に影響を与えた「善導」と「浄土思想」

当時の中国を支配していた「唐」に「善導(ぜんどう)」という浄土教の僧侶がいました。彼の書いた『観無量寿経疏(観経疏)』を読んだ法然は「人はただ念仏をとなえればいいのだ」と確信します。ひたすら念仏をとなえることを「専修念仏」といいました。

このとき法然が唱えたのが「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏。「阿弥陀仏に帰依(信仰)しています」という意味です。

「阿弥陀仏(あみだぶつ)」は仏の中で抜きんでた力を持った仏様で、阿弥陀仏が遥か昔に悟りを開くときに立てた48の本願のなかに「西方極楽浄土に行きたいと願い、たとえ十回でも念仏すれば、必ず往生できるようにします」というものがありました。

人は阿弥陀仏の本願を頼り、心から阿弥陀仏に帰依して「南無阿弥陀仏」とお念仏すれば、阿弥陀仏のお力によって浄土へ生まれ変わることができる。そして、浄土の阿弥陀仏のもとで修業して悟りを開いて解脱する。これが「浄土教」、あるいは「浄土思想」の教えでした。

法然以前の日本の浄土教

法然が専修念仏の考えに至る以前にももちろん浄土教と浄土思想は日本にありました。伝来したのは7世紀前半。奈良時代の初めあたりですね。「智光」「礼光」などの僧が信仰していましたが、奈良時代は「南都六宗」と呼ばれる奈良の六つの宗派が主流だったため、浄土思想は流行りませんでした。

そうしていよいよ「末法の世」が到来した平安時代後期のこと。比叡山の天台宗の修法のひとつ「常行三見昧」に基づいた念仏が広がり、各寺院の常行三見昧堂を中心に念仏衆が集まるようになりました。

庶民を救う私度僧の登場

そうしたなか国に属さず、個人的に仏教活動を行う「私度僧」があらわれます。当時の仏教は「鎮護国家」といって、仏教には国を守り安定させる力があるという思想が信じられていました。なので、僧侶は「官僧」といって国のために働く公務員だったのです。私度僧は国や寺に所属せず、庶民の救済を目的として登場したのでした。

私度僧のなかでも特に知徳の優れた僧侶を「聖(ひじり)」と呼びます。平安時代の中期ごろ、人々の信仰を集めた私度僧の「空也(くうや)」は民衆に阿弥陀信仰と念仏を広めたため「阿弥陀聖」、あるいは、「市聖」と呼ばれました。

そして、985年に天台宗の僧侶「源信(げんしん)」が、極楽浄土や地獄の様子を書いた『往生要集』を完成させます。『往生要集』は日本人の浄土観や地獄観に大きな影響を与えた書物ですが、もう一方で、「極楽浄土へ行くためには、念仏を一心にとなえる以外ない」と説きました。これが浄土思想の基礎となって、法然に多大な影響を与えたのです。

ちなみにですが、当時の僧侶は「課役」という労働で納める税が免除されていました。そのため、国の許可なく活動する私度僧は違法とされ、捕まれば杖で百叩きに処されたのです。

43歳まで悩み続けた法然

image by PIXTA / 34671690

専修念仏の確信を得たのは法然が43歳のときのこと。法然は自分のことを「十悪の法然房」や「愚痴の法然房」と称して自らを罪につかった人間だと自覚しました。「十悪」とは殺生や盗み、嘘つきなど、人間の犯す悪いこと。さらに、「愚痴」の「愚」と「痴」はともに「おろか」という意味で、自身のおろかさのために煩悩に囚われてしまうことを43歳になるまで法然は悩んでいたのです。

しかし、「阿弥陀仏の本願はそういった人々こそを救ってくださる。だから、人はただ一心に念仏をとなえればよい」と気付いたことで、法然は比叡山を出て、新たに専修念仏をかかげる「浄土宗」を開こうと決心しました。

比叡山を降りて「浄土宗」を開く

そうして最初におり立ったのが、現在の京都市左京区の岡崎です。そこで法然が念仏をとなえて眠ると、夢のなかで仏のようになった「善導」と対面します。それでよりいっそう法然は気持ちを強くして、岡崎に白河禅房という草庵を結びました。この白河禅房は、現在「くろ谷さん」の通称で親しまれる「金戒光明寺」で、知恩院(京都市東山区)と並ぶ格式を持つ浄土宗の七大本山のひとつです。

その後まもなく、法然は京都府長岡京市に西山浄土宗の総本山となる草庵(後の光明寺)を設け、さらに現在の京都市東山区に「吉水草庵」を結んで移り住みました。

法然が吉水草庵に移り、念仏の教えを広めた1175年は、浄土宗はじまりの年とされています。

鎌倉時代の語呂合わせが「1185年(イイハコ)つくろう 鎌倉幕府」。なので、浄土宗は鎌倉時代のはじまる10年前、平清盛の全盛期あたりに誕生したことになります。

吉水草庵の法然のもとには比叡山の官僧だった証空や「親鸞」のはじめ、のちに関白となる大貴族「九条兼実」に庶民たちと、身分の上下に問わずたくさんの人々が入門しました。それほどまで法然の専修念仏は当時の人々に受け入れられたのです。

既存宗派の秩序を乱す

それまで日本で主流だった宗派は奈良の「南都六宗」や、平安時代に開かれた「天台主」や「真言宗」でした。これらの宗派はいずれも官僧を抱え、寺院や仏像を大切にしています。

しかし、浄土教の教えでは念仏をとなえればいいのですから、わざわざ寺院や仏像の前に行かなくてもかまいません。「空也」も道に立って人々に念仏の教えを説いたから「市聖」と呼ばれたのです。

そして、法然の教えもまた「ただ一心に念仏をすること」でありましたから、浄土宗は旧来の宗派からは秩序を乱す存在とみなされてしまいます。

法然が72歳のとき、奈良の興福寺と比叡山延暦寺からの弾圧によって法然は弟子たちの言動を正す「七箇条制誡」をつくり、比叡山に送りました。

\次のページで「「承元の法難」で流罪」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: