今日は神風連の乱(しんぷうれんのらん)について勉強していきます。江戸時代の幕末、幕府に失望した武士達は新政府による政治を望み、倒幕を掲げて戊辰戦争で戦った。

しかし、新たに誕生した明治政府は武士が望んだものとは違い、多くの反乱を引き起こす。今回は、そんな反乱の一つである神風連の乱について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から神風連の乱をわかりやすくまとめた。

明治政府への失望

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不平士族の誕生

明治政府による国作りの方針は近代化、イギリスやアメリカと対等に渡り合える日本にするため、様々な政治政策を打ち出していきます。そんな近代化の流れに取り残される運命となったのが武士、明治政府は武士……すなわち士族の特権を次々と剥奪していきました。

武家社会においてエリート層だった士族も明治時代においては必要とされず、新たな時代の到来を夢見た士族達にとって明治政府の方針は失望以外の何物でもなかったでしょう。そして、明治政府に対して不満を持つ士族達のことを不平士族と呼び、不平士族は各地で次々と反乱を起こしていきました。

1876年に熊本市で起こった神風連の乱も不平士族によって起こされた反乱の一つ。敬神党の乱とも呼ばれるこの反乱は大田黒伴雄をはじめとした170人もの不平士族によって起こされたものです。では、まずはこの神風連の乱が起こるまでのいきさつを解説していきましょう。

明治六年の政変

明治時代が始まって6年経った1873年のこと、明治六年の政変によって600人もの参議や官僚や軍人が辞職しました。このような異常事態を引き起こしたきっかけは征韓論で、征韓論とは武力行使によって朝鮮を開国させようとする主張であり、この主張に対して政府内で賛成派と反対派が対立したのです。

征韓論に対して賛成派だったのは西郷隆盛や板垣退助ら。一方で、反対派だったのが岩倉具視や大久保利通や木戸孝允らでした。実は征韓論の主張が出された当時、反対派の岩倉具視らは岩倉使節団として外国を回っている真っ最中で、その影響で日本が優先すべきなのは近代化であって朝鮮問題ではないと帰国後に反論したのです。

この論争では最終的に天皇の決断により反対派が勝利したため、征韓論の主張は退けられました。西郷隆盛や板垣退助らはこれに失望して明治政府との決別を決意、西郷隆盛と板垣退助をはじめとした600人もの参議や官僚や軍人が政府を辞職して、やがて彼らが中心となって不平士族による反乱を引き起こすことになります。

神風連の乱が起こった要因

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佐賀の乱

1874年に佐賀県で佐賀の乱が発生、この反乱を主導した江藤新平は明治六年の政変によって政府を辞職した一人でした。肥後藩出身(佐賀県)の江藤新平は明治政府において司法省のトップである司法卿に任命され、日本近代化に向けて裁判所の設置や民法を制定するなど司法制度の導入に励んでいました。

しかし大久保利通との不仲は有名で、征韓論の論争においても大久保利通と対立して征韓論を主張、論争に敗れたことで明治政府に失望して故郷へと戻ります。また、同じ肥後藩出身の島義勇もやはり明治政府を辞職して故郷へと戻っており、佐賀の不平士族は江藤新平と島義勇の帰郷を知りました。

不平士族は政府に不満を持つ江藤新平と島義勇を大将に仕立てて反乱を起こし、これが1874年の佐賀の乱の始まりです。この反乱はたちまち鎮圧されますが、佐賀の乱は全国に存在する不平士族を立ち上がらせるきっかけとなり、以降日本の各地で不平士族による反乱が相次ぎます。

廃刀令への反発

1876年3月、士族にとって到底受け入れがたい法令が明治政府より発令されました。その法令とは廃刀令、江戸時代においては士族の特権だった刀の帯刀が禁じられ、士族にとっては命ほど大切な刀を持つことができなくなってしまったのです。

廃刀令が発令された理由はいくつかありますが、その一つとして挙げられるのが1873年に発令された徴兵令でしょう。江戸時代では戦う役目を一任されていた士族でしたが、徴兵令によってその役目は全ての国民の義務となり、そのため敢えて士族が刀を持つ必要はなくなったのです。

そして、熊本市ではこの廃刀令に対して反発する者がいました。それは肥後藩の士族である士族太田黒伴雄、そして加屋霽堅と斎藤求三郎、彼らは約170人で結成された敬神党を決起させて廃刀令への反対運動を行うことを決意、そして起こった反乱というのが神風連の乱なのです。

\次のページで「神風連の始まりと結末」を解説!/

神風連の始まりと結末

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神風連とは何者か

肥後藩では教育方針を巡って対立が起こっており、3つの派閥に分かれていました。1つは藩校で朱子学の教育を中心とした考えを持つ学校党、1つは教育と政治の結びつきを重んじた考えを持つ実学党、1つは国学と神道を基本とした教育の重視を考える勤皇党です。

そして、勤皇党の中でも明治政府に対して強い不満を抱く構成員が集まって結成されたのが敬神党でした。 敬神党は神道への信仰心が深く、実際に構成員の多くが神職に就いており、そんな彼らのことを周囲はいつしか神風連と呼ぶようになったのです。

1876年の廃刀令に対して反発した敬神党……すなわち神風連。同年10月の深夜に起こったのが神風連の乱でした。太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎をリーダーとして明治政府に対して反乱を起こす神風連、彼らは熊本の陸軍司令官・種田政明と熊本県令・安岡良亮の自宅を襲撃したのです。

神風連 対 明治政府軍

神風連のメンバーが分かれて、それぞれ種田政明と安岡良亮の自宅を襲撃したのが1876年10月の深夜のこと。これが神風連の乱の始まりです。この襲撃によって種田政明と安岡良亮は死亡、さらに県庁の役人も2人死亡して、神風連は4人を殺害して反乱を開始します。

そして、メンバーが合流すると今度は明治政府軍の本拠地とされる熊本城内(熊本鎮台)を襲撃、城内にいた兵士達を次々と殺害しながら突き進み、砲兵営の制圧に成功しました。突然の襲撃は明治政府軍にとってまさに奇襲、しかし翌朝には早くも態勢を整えて反撃を開始します。

駆けつけた人物は明治政府の将校・児玉源太郎らで、見事な指揮をとって神風連に対して本格的な反撃を開始。神風連を率いていた加屋霽堅と斎藤求三郎を銃撃によって死亡させると、首謀者の太田黒伴雄にも重症を負わせて自害へと追い込み、神風連の士気を一気に低下させて反乱を鎮めました。

神風連の乱の影響

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秋月の乱

神風連の乱はたちまち鎮圧させられてしまい、メンバー約170人のうち124人が死亡。さらに残る約50人も捕縛され、その中には斬首に処された者もいたそうです。明治政府側にも多くの死傷者が出ましたが、反乱を起こした神風連にとってこれは無念な結末と言えるでしょう。

しかし、そんな彼らも日本の不平士族を呼応させ、そして起こったのが1876年10月の秋月の乱でした。場所は現在の福岡県秋月市、今村百八郎が隊長となって結成した秋月党のメンバー約400人による反乱です。ただ、この反乱もまた短期間で鎮圧される結果となりました。

最大の誤算は豊津藩の対応で、豊津藩の杉生十郎らとの同時決起を約束した秋月党でしたが土壇場になってそれが叶わず、杉生十郎はこの時監禁されてしまっていたのです。そのため秋月党は解散、最後まで戦いを続けた今村百八郎もやがて逮捕されました。

\次のページで「萩の乱」を解説!/

萩の乱

秋月の乱が起こったのが1876年の10月27日、さらにその翌日の10月28日には山口県の萩にて萩の乱が起こります。これもまた不平士族が起こした反乱で、首謀者は明治政府の重要人物とされていた前原一誠でした。彼は明治維新で活躍した維新の十傑に数えられるほどの人物です。

1876年10月24日に発生した神風連の乱、同年10月27日に発生した秋月の乱、これらのニュースを聞いた前原一誠は自らも反乱を起こすことを決意。明倫館と呼ばれる萩の旧藩校を拠点としたその計画に、200人ほどのメンバーが集結しました。

前原一誠はこの反乱によって薩摩の不平士族も決起するだろうと期待しましたがそれは叶わず、しかも当初計画していた県庁襲撃が明治政府に発覚してしまいます。そのため反乱も計画どおりに進まず、不平士族の意見を天皇に直訴しようとした前原一誠も島根県で捕まってしまいました。

西南戦争

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西郷隆盛の私学校

1874年の佐賀の乱を皮切りに、1876年には神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と不平士族による反乱が相次いで起こりました。明治政府を悩ませるこの事態、ただ明治政府にとって幸運だったのはいずれの反乱も短期間で鎮圧させられたことで、日本の平和を揺るがすほどの脅威には至りませんでした。

しかし翌1877年、士族反乱の中でも最大規模かつ日本国内最後の内戦と呼ばれる西南戦争が起こります。そして、この西南戦争にて反乱軍のリーダーとなったのが明治六年の政変によって明治政府を辞職した西郷隆盛、彼は薩摩の不平士族を率いて明治政府に戦いを挑んだのでした。

明治政府に失望して故郷の鹿児島へと戻った西郷隆盛、そこで彼が目にしたのは不平士族によって頻発する暴動の数々。治安の悪化に危機感を持った西郷隆盛は、士族の教育を目的に鹿児島に私学校を設立、士族を生徒に置いて軍事・思想の教育を行っていきました。

西南戦争の始まり

不平士族が溢れる日本、西郷隆盛は士族を教育しなければ治安は悪化する一方だと考えたのでしょう。つまり、西郷隆盛が私学校を設立したのは荒れる士族を教育し直すためだったのですが、そうは思わずむしろ西郷隆盛に対して警戒を示したのが明治政府でした

明治政府は西郷隆盛が不平士族を集めて反乱を起こすことを危惧、そのため鹿児島に保管されていた薩摩藩の武器弾薬を大坂へと移動させようとします。しかしそれを士族に見つかってしまい、反発した士族は報復として明治政府の武器庫を攻撃、さすがの西郷隆盛も士族の反発を抑えられなくなりました。

もう士族を止める術がない西郷隆盛、そこで彼は自ら反乱軍のリーダーとなって明治政府と戦うことを決意。このようにして起こったのが西南戦争で、西郷隆盛率いる反乱軍は明治政府軍に敗北、西郷隆盛もこの戦争で命を落とすことになったのでした。

佐賀の乱・秋月の乱・萩の乱も一緒に覚えよう!

神風連の乱のポイントは、これを不平士族による反乱の一つと解釈して他の反乱も覚えておくことです。神風連の乱は廃刀令の反対運動によって起こったものですが、これに呼応して秋月の乱が起きています。

また、神風連の乱と秋月の乱の影響で萩の乱が起こっていますし、神風連の乱の前には佐賀の乱が起こっていますね。そのため、神風連の乱だけでは不平士族の反乱として説明しきれず、他の反乱も覚えておく必要があるのです。

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日本史明治歴史

不平士族による明治政府への反乱「神風連の乱」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は神風連の乱(しんぷうれんのらん)について勉強していきます。江戸時代の幕末、幕府に失望した武士達は新政府による政治を望み、倒幕を掲げて戊辰戦争で戦った。

しかし、新たに誕生した明治政府は武士が望んだものとは違い、多くの反乱を引き起こす。今回は、そんな反乱の一つである神風連の乱について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から神風連の乱をわかりやすくまとめた。

明治政府への失望

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不平士族の誕生

明治政府による国作りの方針は近代化、イギリスやアメリカと対等に渡り合える日本にするため、様々な政治政策を打ち出していきます。そんな近代化の流れに取り残される運命となったのが武士、明治政府は武士……すなわち士族の特権を次々と剥奪していきました。

武家社会においてエリート層だった士族も明治時代においては必要とされず、新たな時代の到来を夢見た士族達にとって明治政府の方針は失望以外の何物でもなかったでしょう。そして、明治政府に対して不満を持つ士族達のことを不平士族と呼び、不平士族は各地で次々と反乱を起こしていきました。

1876年に熊本市で起こった神風連の乱も不平士族によって起こされた反乱の一つ。敬神党の乱とも呼ばれるこの反乱は大田黒伴雄をはじめとした170人もの不平士族によって起こされたものです。では、まずはこの神風連の乱が起こるまでのいきさつを解説していきましょう。

明治六年の政変

明治時代が始まって6年経った1873年のこと、明治六年の政変によって600人もの参議や官僚や軍人が辞職しました。このような異常事態を引き起こしたきっかけは征韓論で、征韓論とは武力行使によって朝鮮を開国させようとする主張であり、この主張に対して政府内で賛成派と反対派が対立したのです。

征韓論に対して賛成派だったのは西郷隆盛や板垣退助ら。一方で、反対派だったのが岩倉具視や大久保利通や木戸孝允らでした。実は征韓論の主張が出された当時、反対派の岩倉具視らは岩倉使節団として外国を回っている真っ最中で、その影響で日本が優先すべきなのは近代化であって朝鮮問題ではないと帰国後に反論したのです。

この論争では最終的に天皇の決断により反対派が勝利したため、征韓論の主張は退けられました。西郷隆盛や板垣退助らはこれに失望して明治政府との決別を決意、西郷隆盛と板垣退助をはじめとした600人もの参議や官僚や軍人が政府を辞職して、やがて彼らが中心となって不平士族による反乱を引き起こすことになります。

神風連の乱が起こった要因

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佐賀の乱

1874年に佐賀県で佐賀の乱が発生、この反乱を主導した江藤新平は明治六年の政変によって政府を辞職した一人でした。肥後藩出身(佐賀県)の江藤新平は明治政府において司法省のトップである司法卿に任命され、日本近代化に向けて裁判所の設置や民法を制定するなど司法制度の導入に励んでいました。

しかし大久保利通との不仲は有名で、征韓論の論争においても大久保利通と対立して征韓論を主張、論争に敗れたことで明治政府に失望して故郷へと戻ります。また、同じ肥後藩出身の島義勇もやはり明治政府を辞職して故郷へと戻っており、佐賀の不平士族は江藤新平と島義勇の帰郷を知りました。

不平士族は政府に不満を持つ江藤新平と島義勇を大将に仕立てて反乱を起こし、これが1874年の佐賀の乱の始まりです。この反乱はたちまち鎮圧されますが、佐賀の乱は全国に存在する不平士族を立ち上がらせるきっかけとなり、以降日本の各地で不平士族による反乱が相次ぎます。

廃刀令への反発

1876年3月、士族にとって到底受け入れがたい法令が明治政府より発令されました。その法令とは廃刀令、江戸時代においては士族の特権だった刀の帯刀が禁じられ、士族にとっては命ほど大切な刀を持つことができなくなってしまったのです。

廃刀令が発令された理由はいくつかありますが、その一つとして挙げられるのが1873年に発令された徴兵令でしょう。江戸時代では戦う役目を一任されていた士族でしたが、徴兵令によってその役目は全ての国民の義務となり、そのため敢えて士族が刀を持つ必要はなくなったのです。

そして、熊本市ではこの廃刀令に対して反発する者がいました。それは肥後藩の士族である士族太田黒伴雄、そして加屋霽堅と斎藤求三郎、彼らは約170人で結成された敬神党を決起させて廃刀令への反対運動を行うことを決意、そして起こった反乱というのが神風連の乱なのです。

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