幕末日本史歴史江戸時代

14代将軍家茂と政略結婚した「和宮」孝明天皇の妹を歴女がわかりやすく解説

今回は和宮を取り上げるぞ。幕末に将軍家茂に嫁いだ人だったが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末は勤皇佐幕に関係なく興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、和宮について5分でわかるようにまとめた。

1-1、和宮は京都の生まれ

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和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)は弘化3年(1846年) 閏5月10日、京都御所の東にあった公家の橋本邸で誕生。

父は120代仁孝天皇、母は羽林家(摂家、清華家、大臣家の下で大納言にまで昇進できる家柄)の橋本実久(さねひさ)の娘経子(つねこ)(橋本観行院)で、官名は新典侍。父仁孝天皇は和宮誕生の半年前に崩御したため、異母兄の孝明天皇が和宮と命名。「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱。

きょうだいは17歳年上の異母姉桂宮淑子内親王(すみこ)と15歳年上の異母兄孝明天皇。

1-2、和宮の子供時代

和宮の母経子は、仁孝天皇の寵愛を受けて胤宮(夭折)と和宮の1男1女を生んだが、仁孝天皇崩御により落飾して橋本観行院となり、後宮を離れて実家の橋本家で和宮を出産、養育。

天皇家に女の子が生まれると、幕府から扶持米として米50石、銀 20枚が支給されることになっていたが、生活は苦しくて子供のころの和宮の衣装は仕立て直したおさがりだったよう。

和宮は常に母と一緒で、安政元年(1854年)4月、御所の火事で青蓮院に一時転居、また安政4年(1857年)1月、外祖父である実久の死で宝鏡寺へ移ったが5月に橋本邸へ戻り、安政7年(1860年)2月には京都御所内にある桂宮御所に住んだということ。

1-3、和宮、有栖川宮熾仁親王と婚約

嘉永4年(1851年)7月、和宮は6歳のとき、孝明天皇の勅許で11歳年上の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)との婚約が成立。

当時の皇族女性は、身分的に釣り合いが取れるのがほぼ皇族男性だけなので、ふさわしい結婚相手が少なく、宝鏡寺や霊鑑寺、林丘寺などの尼門跡寺院に入って尼になることが多かったよう。

たとえば和宮の異母姉の桂宮淑子内親王は、天保11年(1840年)1月に閑院宮愛仁親王と婚約し、2年後、結婚を前に内親王宣下を受けたが、2日後に愛仁親王が薨去、その後は桂宮家として一生独身を通すことに。というわけで、はやくから有栖川宮と婚約が決まった和宮は幸運だったはず。

2-1、幕末の公武合体政策で、和宮と14代将軍家茂の結婚が浮上

安政6年(1859年)、老中酒井忠義は関白九条尚忠に和宮降嫁を打診、関白は和宮が有栖川宮とすでに婚約しており破棄できないと断ったが、翌万延元年(1860年)4月、幕命を受けて酒井忠義が和宮の将軍家降嫁を奏請。

孝明天皇からは、 和宮には既に熾仁親王との婚約が成立していること、先帝の娘で異母妹であるため天皇が破棄しろとは言えないこと、そして13歳の和宮が異人のいる関東へ行くのを嫌がっているなどの理由で却下。しかし酒井の方も和宮と熾仁親王はまだ結納を済ませていないので、破談にしても天皇の信用を損なわないとか、皇族の江戸への降嫁は先例もあり和宮は大事に扱うなどとしたうえに、孝明天皇が国内の安定を願っている点を押さえて、公武合体に沿った決断を要求したということ。また和宮の生母橋本観行院とその兄で伯父の橋本実麗、さらに和宮の大叔母で大奥で上臈を務めた勝光院を通じ、まわりの親族から説得工作を。

和宮は江戸へ行くなど絶対に嫌と言い張ったが、孝明天皇も幕府に攘夷を約させた上で降嫁が成立しなければ朝廷の信義が疑われると苦慮、6月に、幕府が攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、という旨の勅書を出したところ、幕府は7月に10年以内に鎖国体制へ復帰と回答したため、孝明天皇は和宮降嫁を決断。

和宮があくまで辞退なら前年に生まれたばかりの皇女寿万宮を代わりに降嫁させ、幕府が承知しなければ、自分は責任をとって譲位して、和宮は林丘寺で尼門跡にと、いわば最後通牒にでたため、和宮は「まことに嫌々のことながら」降嫁を承諾

2-2、降嫁にあたって和宮が出した条件とは

強気の和宮は、江戸へ下向するために様々な条件を出したということ。まず、父仁孝天皇の17回忌のあとに関東に下向し、以後も回忌ごとの上洛。江戸城大奥でも万事、御所流を通す。側仕えには御所の女官を、そして御用があるときには伯父の橋本実麗を江戸へ下向させ、上臈か御年寄を上洛させるという5か条を条件に。

孝明天皇からも、和宮の提示した条件を遵守せよ、老中が交代しても攘夷の誓約は変わらないこと、和宮の降嫁は公武の熟慮の上決定されたと天下に周知させよ、外国貿易で庶民の生活が窮乏しないよう対策せよ、降嫁前に和宮に内親王宣下を行うなどを幕府に提示。幕府側は年内の降嫁を要請したが、和宮は拒否、しかし孝明天皇の説得で明春の下向が決定。

2-3、和宮、中山道を江戸へ下向

文久元年(1861年)4月19日、和宮は内親王宣下を受けて諱を親子(ちかこ)と賜った後、10月20日に桂宮御所を出立し、東海道筋では河留めによる日程の遅延、そして過激派の妨害の恐れがあるために、中山道を江戸へ。

花嫁行列は、警護や人足を含めて総勢3万人となり50kmも続いたということ。和宮の乗った御輿の警護に12の藩の兵が、沿道警備に29の藩の兵が動員、和宮が通る沿道は、住民の外出や商売が禁じられ、行列を高いところから見下ろすとか、寺院の鐘等の鳴り物も禁止、犬猫は遠くに繋いで鳴き声を立てないように、そして火の用心が徹底、途中にあった縁切り榎の大木は縁起が悪いと幕を張って見えないようにされるなど、厳重な警備のなかを進んだということ。

\次のページで「3-1、和宮、大奥入り」を解説!/

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