今回は和宮を取り上げるぞ。幕末に将軍家茂に嫁いだ人だったが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末は勤皇佐幕に関係なく興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、和宮について5分でわかるようにまとめた。

1-1、和宮は京都の生まれ

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和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)は弘化3年(1846年) 閏5月10日、京都御所の東にあった公家の橋本邸で誕生。

父は120代仁孝天皇、母は羽林家(摂家、清華家、大臣家の下で大納言にまで昇進できる家柄)の橋本実久(さねひさ)の娘経子(つねこ)(橋本観行院)で、官名は新典侍。父仁孝天皇は和宮誕生の半年前に崩御したため、異母兄の孝明天皇が和宮と命名。「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱。

きょうだいは17歳年上の異母姉桂宮淑子内親王(すみこ)と15歳年上の異母兄孝明天皇。

1-2、和宮の子供時代

和宮の母経子は、仁孝天皇の寵愛を受けて胤宮(夭折)と和宮の1男1女を生んだが、仁孝天皇崩御により落飾して橋本観行院となり、後宮を離れて実家の橋本家で和宮を出産、養育。

天皇家に女の子が生まれると、幕府から扶持米として米50石、銀 20枚が支給されることになっていたが、生活は苦しくて子供のころの和宮の衣装は仕立て直したおさがりだったよう。

和宮は常に母と一緒で、安政元年(1854年)4月、御所の火事で青蓮院に一時転居、また安政4年(1857年)1月、外祖父である実久の死で宝鏡寺へ移ったが5月に橋本邸へ戻り、安政7年(1860年)2月には京都御所内にある桂宮御所に住んだということ。

1-3、和宮、有栖川宮熾仁親王と婚約

嘉永4年(1851年)7月、和宮は6歳のとき、孝明天皇の勅許で11歳年上の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)との婚約が成立。

当時の皇族女性は、身分的に釣り合いが取れるのがほぼ皇族男性だけなので、ふさわしい結婚相手が少なく、宝鏡寺や霊鑑寺、林丘寺などの尼門跡寺院に入って尼になることが多かったよう。

たとえば和宮の異母姉の桂宮淑子内親王は、天保11年(1840年)1月に閑院宮愛仁親王と婚約し、2年後、結婚を前に内親王宣下を受けたが、2日後に愛仁親王が薨去、その後は桂宮家として一生独身を通すことに。というわけで、はやくから有栖川宮と婚約が決まった和宮は幸運だったはず。

2-1、幕末の公武合体政策で、和宮と14代将軍家茂の結婚が浮上

安政6年(1859年)、老中酒井忠義は関白九条尚忠に和宮降嫁を打診、関白は和宮が有栖川宮とすでに婚約しており破棄できないと断ったが、翌万延元年(1860年)4月、幕命を受けて酒井忠義が和宮の将軍家降嫁を奏請。

孝明天皇からは、 和宮には既に熾仁親王との婚約が成立していること、先帝の娘で異母妹であるため天皇が破棄しろとは言えないこと、そして13歳の和宮が異人のいる関東へ行くのを嫌がっているなどの理由で却下。しかし酒井の方も和宮と熾仁親王はまだ結納を済ませていないので、破談にしても天皇の信用を損なわないとか、皇族の江戸への降嫁は先例もあり和宮は大事に扱うなどとしたうえに、孝明天皇が国内の安定を願っている点を押さえて、公武合体に沿った決断を要求したということ。また和宮の生母橋本観行院とその兄で伯父の橋本実麗、さらに和宮の大叔母で大奥で上臈を務めた勝光院を通じ、まわりの親族から説得工作を。

和宮は江戸へ行くなど絶対に嫌と言い張ったが、孝明天皇も幕府に攘夷を約させた上で降嫁が成立しなければ朝廷の信義が疑われると苦慮、6月に、幕府が攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、という旨の勅書を出したところ、幕府は7月に10年以内に鎖国体制へ復帰と回答したため、孝明天皇は和宮降嫁を決断。

和宮があくまで辞退なら前年に生まれたばかりの皇女寿万宮を代わりに降嫁させ、幕府が承知しなければ、自分は責任をとって譲位して、和宮は林丘寺で尼門跡にと、いわば最後通牒にでたため、和宮は「まことに嫌々のことながら」降嫁を承諾

2-2、降嫁にあたって和宮が出した条件とは

強気の和宮は、江戸へ下向するために様々な条件を出したということ。まず、父仁孝天皇の17回忌のあとに関東に下向し、以後も回忌ごとの上洛。江戸城大奥でも万事、御所流を通す。側仕えには御所の女官を、そして御用があるときには伯父の橋本実麗を江戸へ下向させ、上臈か御年寄を上洛させるという5か条を条件に。

孝明天皇からも、和宮の提示した条件を遵守せよ、老中が交代しても攘夷の誓約は変わらないこと、和宮の降嫁は公武の熟慮の上決定されたと天下に周知させよ、外国貿易で庶民の生活が窮乏しないよう対策せよ、降嫁前に和宮に内親王宣下を行うなどを幕府に提示。幕府側は年内の降嫁を要請したが、和宮は拒否、しかし孝明天皇の説得で明春の下向が決定。

2-3、和宮、中山道を江戸へ下向

文久元年(1861年)4月19日、和宮は内親王宣下を受けて諱を親子(ちかこ)と賜った後、10月20日に桂宮御所を出立し、東海道筋では河留めによる日程の遅延、そして過激派の妨害の恐れがあるために、中山道を江戸へ。

花嫁行列は、警護や人足を含めて総勢3万人となり50kmも続いたということ。和宮の乗った御輿の警護に12の藩の兵が、沿道警備に29の藩の兵が動員、和宮が通る沿道は、住民の外出や商売が禁じられ、行列を高いところから見下ろすとか、寺院の鐘等の鳴り物も禁止、犬猫は遠くに繋いで鳴き声を立てないように、そして火の用心が徹底、途中にあった縁切り榎の大木は縁起が悪いと幕を張って見えないようにされるなど、厳重な警備のなかを進んだということ。

\次のページで「3-1、和宮、大奥入り」を解説!/

3-1、和宮、大奥入り

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文久元年(1861年)11月15日、和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入ったが、本丸大奥に入ったのはその1カ月後、御所風に暮らしたいという和宮の意向と大奥側の調整が難航したのが理由。

また、和宮に随行した岩倉具視、千種有文が老中の久世広周、安藤信正に、幕府は和宮を人質にして、孝明天皇に譲位を迫るという風説について詰問、幕府に二心が無いことを示すために、将軍家茂自らが書いた誓紙を要求。

そして和宮のお付きの庭田嗣子の書状で、御所風の暮らしの要望がほとんど守られず、明春の仁孝天皇の年回忌のための上洛の延期を要請されたとか、姑に当たる天璋院が和宮様に様々な無礼な行為があったこと、また和宮と自分達の部屋は暗くて狭いとか、和宮に仕える女性たちと大奥の女中たちとの折り合いが悪くて和宮が涙したなどということが、孝明天皇にも伝わったため、孝明天皇から、釈明のため老中か若年寄を京に呼び出すようにとの意向を受けて、九条尚忠、岩倉具視らが幕府と交渉、天璋院に事の次第を糾すなどしたということ。

3-2、和宮、将軍家茂と結婚

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不明(狩野派の絵師) - The Japanese book "Gems from the Shimadzu Family Documents and the Age of Atsuhime (島津の国宝と篤姫の時代)", Kyushu National Museum (九州国立博物館), 2008, パブリック・ドメイン, リンクによる

文久2年(1862年)2月11日、和宮と家茂の婚礼が行われたが、和宮は降嫁前に内親王宣下を受けていたため、夫家茂の征夷大将軍よりも高い身分となり、後々まで、江戸城内でややこしい問題になったそう。

しかし家茂は大奥女中が騒いだというイケメンで、和宮も小柄で物おじしない性格だったということ、ふたりは同じ弘化3年(1846年)の生まれで16歳、しかも家茂は閏5月24日、和宮は閏5月10日と誕生日も近い、そしてふたりとも生まれる前に父が亡くなっているという共通点もあり、家茂は少しでも時間ができれば和宮とおしゃべりしたり、かんざしや金魚などをプレゼント、和宮も家茂が大好きな甘いお菓子を差し入れたりと、和宮の側近が日記に記したほどの微笑ましいラブラブ関係に。

いろいろと条件を付けて死ぬほど嫌がって嫁入りしたはずの和宮は、思いがけず家茂と幸せな夫婦となったということ。

3-3、和宮対天璋院の嫁姑バトル

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不明 - 尚古集成館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

しかし降嫁前に和宮が挙げた条件は、なぜか大奥には伝わっておらず、挨拶のときに、「早く大奥になじむように」と言われてカチンときたとか、天璋院は内親王である和宮の方が身分が上なのにも関わらず、上座に座り、会釈も礼もなしで、和宮には敷物もなかったとか、天璋院から和宮への進物に、「和宮へ」と敬称がなかったことから始まって、御所風は勅許がないと足袋をはかず素足で過ごすことや、雛人形が壇の上ではなく畳の上(雛人形は三位の位があるが、和宮の方が位が高いため)、座るときに掌を畳につけず上にする(手を汚さないため)などなど、江戸風対御所風の習慣の違いが大勢の女性がかかわる大奥では重大事に。

尚、京では和宮降嫁後も幕府が一向に攘夷を実行しない幕府への批判が高まると同時に、和宮降嫁に尽力した公卿や女官たち「四奸二嬪」への反発が強まったために、久我建通、岩倉具視、千種有文、富小路敬直が蟄居、落飾、また前月に関白を辞した九条尚忠も重慎みと落飾、岩倉具視の妹の堀河紀子、今城重子も辞官、隠居、落飾。

3-4、将軍家茂、上洛して孝明天皇の加茂行幸に随行

11月23日、幕府は天皇の叡慮に従って、御台様ではなく和宮様と呼ぶことを発表。そして文久3年(1863年)2月13日には、将軍家茂は江戸を出立し、上洛の途に。

和宮は家茂の無事を祈って、24日から増上寺の黒本尊の御札を勧請、御百度参りを行ったそう。家茂は2月19日に二条城に入ったのち3月7日に御所へ参内、11日に孝明天皇の加茂行幸に供奉。しかし4月11日の石清水八幡宮への行幸は、将軍後見職一橋慶喜の差し金で、風邪のための高熱を理由に欠席して、孝明天皇から「攘夷の節刀」を受ける儀式を回避したが、5月10日に攘夷を実行の奉答書は出さざるを得なかったそう。そして6月16日に家茂は、海路で江戸に帰還。

3-5、和宮、家茂将軍の無事帰還を願ってお百度参り

8月18日の政変後、孝明天皇から再び家茂上洛の要請があったため、和宮は将軍出立前の9月4日から春日神社にお百度参りを行い、11月10日には、朝廷に対して「御用の済み次第、将軍の速やかな江戸帰還」を願ったそう。12月27日、家茂は海路を京へ向けて出立し、翌年5月8日に江戸へ帰府。

そして元治元年(1864年)7月19日、禁門の変が勃発し、8月2日、家茂は第一次長州征伐の命を下したが、長州藩は責任者を処分、藩主毛利敬親と世子が謝罪文を提出し恭順の意を表して収束。しかし長州藩では政変が起こって尊攘派が政権を握ったことで、家茂は自ら指揮を執って第二次長州征伐に。

慶応元年(1865年)5月16日、家茂は大奥対面所で和宮の見送りを受け、品川から海路大阪へ向かったのが最後の対面に。

\次のページで「3-6、和宮、母を亡くして夫にも先立たれる」を解説!/

3-6、和宮、母を亡くして夫にも先立たれる

慶応元年(1865年)8月10日、和宮とともに江戸に下向して大奥に住居していた和宮の母橋本観行院が死去。第二次長州征伐は、9月21日に勅許を得たが、薩摩藩の出兵拒否などで開戦は延引。

そして長州軍の巻き返しで幕府軍が苦戦していたなか、慶応2年(1866年)4月、大坂城の家茂は体調を崩して6月には食事もままならぬ状態に。和宮は家茂の病状を聞き、湯島の霊雲寺に病気平癒の祈祷を命じ、医師を蘭方医から漢方医に変えるよう手配して医師3名を大坂に向かわせたが、孝明天皇も典薬寮の医師を大坂に派遣したそう。その甲斐もなく、7月20日に家茂は大坂城で21歳で死去。

3-7、和宮、徳川将軍の後継者決定にかかわる

7月25日に家茂の訃報が江戸に届いた後、老中から和宮に、家茂の遺言どおりに15代将軍は当時4歳だった田安亀之助(のちの16代家達)でいいかと聞かれたため、和宮は、「時勢を鑑みて、幼い亀之助ではいかがなものか」という意見を述べたそうで、老中板倉勝静らも一橋慶喜を15代将軍にと判断、和宮は「亀之助が成長後に、慶喜の跡を継げば」と了承。

7月28日、幕府は朝廷に慶喜の徳川宗家相続と第二次長州征伐出陣の許可を求め、翌日勅許が出たが、戦況は幕府の敗色濃厚となり、9月2日、休戦協定が結ばれて終結に。また和宮は慶喜に攘夷の実行を願い何度も書状を出したが、慶喜は黙殺したそう。

そして12月9日に、和宮は落飾して静寛院宮と号することに。12月25日、今度は孝明天皇が崩御、和宮は1年余りで母、夫、兄が次々と亡くなる悲劇に。

3-8、和宮、徳川家存続へ尽力

孝明天皇の崩御後、慶応3年(1867年)1月9日、和宮の甥にあたる孝明天皇の第2皇子、明治天皇が践祚。橋本実麗、実梁父子らをはじめ、孝明天皇の勅勘を蒙っていた公卿たちが復帰。5月8日に、明治天皇は摂政二条斉敬に和宮の帰京の方策を講ずるように内旨、6月に朝廷と幕府の間で内交渉が始まったが、交渉は進まず、10月になると和宮からも、攘夷のために下向したが、その甲斐も無くなったので、外国人が徘徊する江戸にいては朝廷の威信を汚すのではと要請、来年1月中旬までに上洛することで決着。

しかし10月14日、15代将軍慶喜は大政奉還を行い、12月9日には王政復古の大号令を発し、同日、和宮を京都に迎える公卿を江戸に派遣する旨が布告。が、慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が勃発。決戦前に慶喜はひそかに老中や京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬ら重要メンバーを連れて12日に軍艦「開陽丸」で江戸へ戻ったのち、1月15日、慶喜は天璋院の仲介で和宮に面会して、隠居と継嗣の選定、謝罪の伝奏を願ったが、和宮は謝罪の件のみを引受けて、天璋院と相談し、征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王には土御門藤子を、東海道鎮撫総督橋本実梁に、上臈玉島を歎願の使者として差し向けたということ。

3月18日、和宮は亀之助の父で松平春嶽の弟でもある田安慶頼と協力し、徳川家の家臣たちに徳川家存続の朝廷の内意を知らせて、今は恭順謹慎を貫くことが徳川家への忠節で、家名を守ることだという書付を出して説得に当たったそう。そして3月20日には朝廷は慶喜の助命と徳川家存続の処分を決定。4月7日には和宮は家茂生母の実成院と清水邸へ、天璋院は一橋邸へ立ち退くことに。また和宮は朝廷に対して徳川家への寛大な処分に対する御礼文を書いたということ。

3-9、維新後の和宮

徳川家の処分終了後、新政府は和宮に政局の混乱や戊辰戦争で延期となっていた上洛を願い出るよう促したが、和宮は、徳川家の経済状況や江戸の市民感情を考えるとこちらからは願い出せないため、朝廷から名目を立てて上洛を命じてくれるようにと希望。5月に上洛が勧告されると、徳川家の人々の安堵を確認してからと来春の上洛を企図したが、伯父の橋本実麗から明治天皇の東京行幸の後にと言われて延期。

ようやく明治2年(1869年)2月、和宮は京都に帰着、聖護院に入り、参内して明治天皇とも対面、聖護院の屋敷が栄御殿と改称され、念願の仁孝天皇陵への参拝を果たし、その後も4年ほど京都に在住。

しかし明治天皇は東京に事実上の遷都となり、京都は寂れる一方となったため、明治7年(1874年)7月には知り合いや親族も多い東京へ戻ることに。麻布市兵衛町(現港区六本木1丁目)の元八戸藩主南部信順の屋敷に居住して、皇族、天璋院や徳川家達らの徳川家の人々と交流したということ。

3-10、和宮、脚気にかかる

しかしこの頃から和宮は夫の家茂と同様、甘い物が好物だったためか脚気の症状が悪化、明治10年(1877年)8月、元奥医師の遠田澄庵の勧めで、箱根塔ノ沢温泉での転地療養に。地元民との交流もあったが、明治10年9月2日、脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で32歳で薨去。当初、政府は葬儀を神式で行う予定が、和宮の夫家茂の側に葬ってほしいという遺言を尊重して仏式に。

4-1、和宮の逸話

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

大奥入りした当初は、大勢の女中たちの影響もあったためかバトルとなった天璋院とは、徳川家存続のために一致団結、明治後は勝海舟の仲立ちで仲良しになったなど、いろいろな逸話があります。

\次のページで「4-2、替え玉説」を解説!/

4-2、替え玉説

和宮はまことに嫌々のことながらとはっきり文書にしたほど江戸行きを嫌がっていたせいか替え玉説が存在し、「和宮様御留」と小説にもなったほど。

和宮は、家茂と庭に出る際、家茂の履物が揃ってなくて落ちていたのを急いで庭に飛び降りてそろえたという逸話があるが、足が少し悪かったということなのにおかしい、内親王らしくないのではとか、1950年代に増上寺の発掘調査が行われたとき、和宮の遺体の足に問題がなく左手首がなかったことも替え玉説の根拠になったよう。

4-3、胸に抱いた写真は

和宮の遺体の胸には銀板写真が抱かれていたが、調査の際の扱いが悪く消えてしまったという話。写真の主は若い男性で烏帽子、直垂だったということで、夫の家茂だろうとされているが、有栖川宮熾仁親王説もあり。

4-4、空蝉の袈裟

第二次長州征伐のため上洛するとき、家茂は和宮に凱旋の土産は何がよいかと聞き、和宮は西陣織を所望。この西陣織は家茂の遺体とともに形見として和宮の元に届けられ、和宮は「空蝉の唐織り衣なにかせん綾も錦も君ありてこそ」の和歌を添えて西陣織を増上寺に奉納したということで、追善供養の際に袈裟として仕立てられ、空蝉の袈裟として現在まで伝わっているそう。

公武合体のための政略結婚だが、イケメン夫と短い間でも幸せな結婚生活

和宮は激動の幕末に父天皇亡き後に生まれ、江戸時代の皇族女性としては異例であるが、母の実家で成長。そして名前を付けるなどほぼ父親代わりの年の離れた兄孝明天皇の気遣いもあって、6歳で有栖川宮と婚約なったものの、公武合体政策のために嫌々ながらも徳川将軍と政略結婚。

朝廷の存在感が増してきた時節柄もあり、嫁入り先になじむよりも御所風を通すなどの条件をつけ、内親王宣下で夫の将軍よりも身分が上というマウンティングっぽいお嫁入りに。大奥では連絡不足や間に入る人間の多さ、また習慣の違いなどで姑天璋院らとのバトルもあったが、夫家茂とは同い年、境遇も似たもの同士でラブラブの仲に。

短い結婚生活ののち家茂は早死するも、和宮は御所風を誇示していたはずが戊辰戦争では徳川家存続、江戸攻め回避のために朝廷と交渉したりと徳川家のために活躍。明治後は天璋院とも仲良しとなったという微笑ましい話もあり、和宮は時代の波に翻弄されたようでも、しっかりと役目を果たした女性だったのでは。

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幕末日本史歴史江戸時代

14代将軍家茂と政略結婚した「和宮」孝明天皇の妹を歴女がわかりやすく解説

今回は和宮を取り上げるぞ。幕末に将軍家茂に嫁いだ人だったが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末は勤皇佐幕に関係なく興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、和宮について5分でわかるようにまとめた。

1-1、和宮は京都の生まれ

image by PIXTA / 46534333

和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)は弘化3年(1846年) 閏5月10日、京都御所の東にあった公家の橋本邸で誕生。

父は120代仁孝天皇、母は羽林家(摂家、清華家、大臣家の下で大納言にまで昇進できる家柄)の橋本実久(さねひさ)の娘経子(つねこ)(橋本観行院)で、官名は新典侍。父仁孝天皇は和宮誕生の半年前に崩御したため、異母兄の孝明天皇が和宮と命名。「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱。

きょうだいは17歳年上の異母姉桂宮淑子内親王(すみこ)と15歳年上の異母兄孝明天皇。

1-2、和宮の子供時代

和宮の母経子は、仁孝天皇の寵愛を受けて胤宮(夭折)と和宮の1男1女を生んだが、仁孝天皇崩御により落飾して橋本観行院となり、後宮を離れて実家の橋本家で和宮を出産、養育。

天皇家に女の子が生まれると、幕府から扶持米として米50石、銀 20枚が支給されることになっていたが、生活は苦しくて子供のころの和宮の衣装は仕立て直したおさがりだったよう。

和宮は常に母と一緒で、安政元年(1854年)4月、御所の火事で青蓮院に一時転居、また安政4年(1857年)1月、外祖父である実久の死で宝鏡寺へ移ったが5月に橋本邸へ戻り、安政7年(1860年)2月には京都御所内にある桂宮御所に住んだということ。

1-3、和宮、有栖川宮熾仁親王と婚約

嘉永4年(1851年)7月、和宮は6歳のとき、孝明天皇の勅許で11歳年上の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)との婚約が成立。

当時の皇族女性は、身分的に釣り合いが取れるのがほぼ皇族男性だけなので、ふさわしい結婚相手が少なく、宝鏡寺や霊鑑寺、林丘寺などの尼門跡寺院に入って尼になることが多かったよう。

たとえば和宮の異母姉の桂宮淑子内親王は、天保11年(1840年)1月に閑院宮愛仁親王と婚約し、2年後、結婚を前に内親王宣下を受けたが、2日後に愛仁親王が薨去、その後は桂宮家として一生独身を通すことに。というわけで、はやくから有栖川宮と婚約が決まった和宮は幸運だったはず。

2-1、幕末の公武合体政策で、和宮と14代将軍家茂の結婚が浮上

安政6年(1859年)、老中酒井忠義は関白九条尚忠に和宮降嫁を打診、関白は和宮が有栖川宮とすでに婚約しており破棄できないと断ったが、翌万延元年(1860年)4月、幕命を受けて酒井忠義が和宮の将軍家降嫁を奏請。

孝明天皇からは、 和宮には既に熾仁親王との婚約が成立していること、先帝の娘で異母妹であるため天皇が破棄しろとは言えないこと、そして13歳の和宮が異人のいる関東へ行くのを嫌がっているなどの理由で却下。しかし酒井の方も和宮と熾仁親王はまだ結納を済ませていないので、破談にしても天皇の信用を損なわないとか、皇族の江戸への降嫁は先例もあり和宮は大事に扱うなどとしたうえに、孝明天皇が国内の安定を願っている点を押さえて、公武合体に沿った決断を要求したということ。また和宮の生母橋本観行院とその兄で伯父の橋本実麗、さらに和宮の大叔母で大奥で上臈を務めた勝光院を通じ、まわりの親族から説得工作を。

和宮は江戸へ行くなど絶対に嫌と言い張ったが、孝明天皇も幕府に攘夷を約させた上で降嫁が成立しなければ朝廷の信義が疑われると苦慮、6月に、幕府が攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、という旨の勅書を出したところ、幕府は7月に10年以内に鎖国体制へ復帰と回答したため、孝明天皇は和宮降嫁を決断。

和宮があくまで辞退なら前年に生まれたばかりの皇女寿万宮を代わりに降嫁させ、幕府が承知しなければ、自分は責任をとって譲位して、和宮は林丘寺で尼門跡にと、いわば最後通牒にでたため、和宮は「まことに嫌々のことながら」降嫁を承諾

2-2、降嫁にあたって和宮が出した条件とは

強気の和宮は、江戸へ下向するために様々な条件を出したということ。まず、父仁孝天皇の17回忌のあとに関東に下向し、以後も回忌ごとの上洛。江戸城大奥でも万事、御所流を通す。側仕えには御所の女官を、そして御用があるときには伯父の橋本実麗を江戸へ下向させ、上臈か御年寄を上洛させるという5か条を条件に。

孝明天皇からも、和宮の提示した条件を遵守せよ、老中が交代しても攘夷の誓約は変わらないこと、和宮の降嫁は公武の熟慮の上決定されたと天下に周知させよ、外国貿易で庶民の生活が窮乏しないよう対策せよ、降嫁前に和宮に内親王宣下を行うなどを幕府に提示。幕府側は年内の降嫁を要請したが、和宮は拒否、しかし孝明天皇の説得で明春の下向が決定。

2-3、和宮、中山道を江戸へ下向

文久元年(1861年)4月19日、和宮は内親王宣下を受けて諱を親子(ちかこ)と賜った後、10月20日に桂宮御所を出立し、東海道筋では河留めによる日程の遅延、そして過激派の妨害の恐れがあるために、中山道を江戸へ。

花嫁行列は、警護や人足を含めて総勢3万人となり50kmも続いたということ。和宮の乗った御輿の警護に12の藩の兵が、沿道警備に29の藩の兵が動員、和宮が通る沿道は、住民の外出や商売が禁じられ、行列を高いところから見下ろすとか、寺院の鐘等の鳴り物も禁止、犬猫は遠くに繋いで鳴き声を立てないように、そして火の用心が徹底、途中にあった縁切り榎の大木は縁起が悪いと幕を張って見えないようにされるなど、厳重な警備のなかを進んだということ。

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