室町時代戦国時代日本史歴史

下剋上の成功者として名を残した「北条早雲」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

農民の負担軽減

北条早雲の政治力はなかなかのもので、当時ありがちだった農民への負担も軽いものになっていました。例えば早雲は虎の印判状を用いた上で、印判状のない徴収は無効とする決まりを定めましたが、これは代官が百姓や職人から無理に税を徴収するのを防ぐためでもあります。

ちなみに、後北条氏も自分の領地における年貢の税率を四公六民にしており、これは「納める年貢は4割、残りの6割は農民のもの」と意味するものです。「年貢=税金」と考えると4割の税金は一見高額に思えますが、当時の税率としてこれは大変低く設定されたものになっています。

後北条氏の定めた年貢の税率……すなわち、四公六民も実は早雲が定めた税率をそのまま引き継いだとされていて、これらの点から早雲の政治力の優秀さがうかがえますね。当然政治は安定しますから、その安定がそのまま後北条氏の安定した基盤につながったのではないでしょうか。

分国法の始まりとされる早雲寺殿廿一箇条

また、北条早雲は早雲寺殿廿一箇条を定めていて、これは「そううんじどのにじゅういっかじょう」と読みます。戦国時代では戦国大名が分国法と呼ばれる法律を作っていましたが、早雲寺殿廿一箇条はその始まりとされていて、さすが最初の戦国大名といったところですね。

最も、「法」の文字からは法律を想像するでしょうし、確かに分国法は戦国大名が作った法律。しかし、早雲寺殿廿一箇条の場合は法律よりも家訓に近いものになっており、御成敗式目や禅宗の影響を受けているようです。早雲は幕府の奉公衆を務めていた頃に禅を学んでいたため、その影響もあったのでしょう。

このようにして幕府の家臣から戦国大名へとなり、伊豆・相模を制圧した北条早雲。後に登場する戦国大名の多くが早雲の影響を受けていたようで、早雲の成功にならって日本の各地ではさらなる激しい下剋上が起こるようになりました。

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戦国大名という点から、北条早雲は武力の高さが注目されがちだ。確かに、北条早雲は実際に武力も高かっただろうが、一方で政治力の高さも忘れてはいけない。例えば、分国法の始まりとなる制度を作ったのも北条早雲だ。

家督争いと堀越公方問題の解決、伊豆・相模の制圧を中心に覚えよう!

北条早雲を覚えるポイントは、彼が下剋上の代表とされている理由です。北条早雲の名前が登場するのは下剋上においてであり、その中で彼は成功者として紹介されるパターンがほとんどですね。
 
ですから、成功につながる出来事と実績、すなわち今川氏の家督争いの解決や堀越公方問題の解決。さらには伊豆・相模の制圧を中心に北条早雲についての知識を身につけていきましょう。
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shintomoyui0311