室町時代戦国時代日本史歴史

下剋上の成功者として名を残した「北条早雲」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

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伊豆に領土を手にいれたことで関わることになった堀越公方問題。足利政知の死後に起こった茶々丸の暴挙に対して北条早雲は討伐命令を受ける。これに成功した北条早雲は、成長した甥っ子の今川氏親と共にさらに領土を広げていった。

北条早雲の活躍 ~相模の覇者~

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政治活動の始まり

さて、北条早雲が今川氏親と共に勢力を広げていたその頃、関東北部にて長享の乱と呼ばれる戦いが起こっていました。長享の乱とは山内上杉氏と扇谷上杉氏の内紛で、どちらも「上杉氏」であることから分かるとおり同族で争っていたのです。ちなみに、扇谷上杉氏はかつて早雲が解決した家督争いでも介入してきていますね。

ここでは早雲は扇谷家の上杉定正を味方しますが、肝心の上杉定正は敵対していた山内家の上杉顕定との対陣中に死亡。さらに扇谷上杉氏にとって頼れる存在だった相模の三浦氏と大森氏も相次いで死亡、さすがの早雲もこれには分が悪く地元へと引き返しましたが、後に相模制圧のために進出してきました。

これに対して対抗してきたのが山内家の上杉顕定、しかしここでも早雲は今川氏親と協力して1504年の立河原の戦いにて上杉顕定に勝利しています。この頃になると早雲は武力だけでなく政治にも力を入れるようになり、例えば相模では初めての検地を行ったそうです。

混乱を利用して相模の覇者へ

戦国時代では下剋上が頻発しており、「下位の者が上位の者を倒す」や「内紛が起こる」は日常茶飯事でした。まさに混乱の世の中、ただこの混乱は北条早雲にとっていずれも都合の良い方へと傾きます。1507年、後継ぎを明確に決めなかった細川政元は養子である細川澄之に殺害されました。

さらに、細川政元とつながりのあった越後の守護・上杉房能が守護代に殺害されます。そして、この状況を利用して足利義稙は将軍へと返り咲き、このような出来事は早雲から見ていずれも好都合であり、なぜなら早雲にとって有利に働く者達が次々と中央政権に戻ってきたからです。

ここぞとばかりに相模の地を狙う早雲、狙うは三浦氏が拠点としていた三浦半島で、相模の城を次々と落としていきました。三浦氏も援軍を受けて対抗するものの早雲には敵わず、実に4年もかけて三浦氏を滅亡させた早雲は、とうとう相模の覇者にまでのぼりつめたのです。

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頻発して起こっていた下剋上、そして戦国時代の世の中、これらはいずれも北条早雲を味方した。混乱する情景の中、北条早雲はチャンスを逃さず相模へと進出、実に4年間の戦いの末に三浦氏を滅ぼし、とうとう相模の覇者となったのだ。

北条早雲の活躍 ~高い政治力~

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shintomoyui0311