室町時代戦国時代日本史歴史

下剋上の成功者として名を残した「北条早雲」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

今川龍王丸の危機を救った北条早雲

今川氏の家臣の間では、案の定家督争いが起こっていました。本来なら今川義忠の息子・今川龍王丸を当主になるべきところでしょう。しかし龍王丸の年齢を考えるとそれは難しく、そこで今川氏の家臣らは今川義忠のいとこにあたる小鹿範満を当主に推しました。

つまり今川龍王丸と小鹿範満の家督争いが勃発したわけですが、ここに介入してきたのが堀越公方や扇谷上杉家。堀越公方の上杉政憲や扇谷上杉家の太田道灌は小鹿範満についていたため、龍王丸の当主引き継ぎは難しい状況になってしまい、しかしここで駿河にやってきたのが北条早雲でした。

早雲は挙兵してきた上杉政憲と太田道灌を説得、「龍王丸が成人するまで小鹿範満が当主代行をする」の提案で家督争いを収めます。しかし、龍王丸が15歳を過ぎても家督を戻そうとしない小鹿範満、これを受けて早雲は1487年に再度駿河を訪れると、龍王丸の補佐へと回りました。

家督争いの決着

早雲は石脇城へと入ると、兵を集めて軍を作ります。そして駿河館を攻めて小鹿範満を自害に追い込み、さらに小鹿範満の弟である小鹿孫五郎も同様に自害へと追い込みました。龍王丸の家督相続を妨害する者達をあっという間に排除した早雲、これで龍王丸は駿河館へと移ることができたのです。

龍王丸はめでたく2年後に元服、これをきっかけに今川氏親と名乗るようになり、晴れて今川家の当主へとなりました。ここで一つ余談をすると、あの織田信長が桶狭間の戦いにて破った今川義元は、今川龍王丸……つまり今川氏親の息子です。ですから、早雲の活躍がなければ今川義元は誕生せず、そうなると織田信長の未来も変わっていたかもしれませんね。

ともあれ、この家督争いを見事収めた功績を認められた早雲は、伊豆の近くに所領を与えられました。また、これと同じ頃に早雲は結婚しており、早雲と共に幕府の奉公衆を務めていた小笠原政清の娘である南陽院殿と結ばれています。さて、ここからまた早雲は新たな活躍を見せるのでした。

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今川龍王丸と小鹿範満の家督争いでは北条早雲が大活躍した。挙兵した小鹿範満派の者達を説得し、また家督を戻さない小鹿範満を排除したのだ。この功績によって伊豆近くに所領を与えられた北条早雲、しかし彼はさらなる問題に遭遇する。

北条早雲の活躍 ~堀越公方問題を解決~

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茶々丸の暴挙

伊豆近くに所領を与えられた北条早雲は、この付近で力を持っていた堀越公方の足利政知と関わるようになり、そしてここでもまた問題が勃発するのでした。足利政知には長男・茶々丸、次男・清晃、三男・潤童子の3人の息子がいましたが、1491年の4月に足利政知が死去、ここから事件が起こります。

同じ年の7月……つまり足利政知が死去した3ヶ月後、茶々丸が潤童子と母である円満院を殺害したのです。それから2年経った1493年、明応の政変が起こったことで第10代将軍・足利義稙は追い出され、代わって第11代将軍に就任したのが次男・清晃で、足利義澄の名で将軍に就きました。

そんな足利義澄が北条早雲に対して命じたのが茶々丸の討伐。足利義澄は茶々丸と兄弟とは言え、茶々丸は三男と母の仇でもありますから、足利義澄が茶々丸に対して討伐命令を出す気持ちは理解できます。こうして命令を受けた早雲、茶々丸討伐のために堀越御所を攻撃しました。

足利義澄の茶々丸討伐命令

茶々丸は余程評判が悪かったのか、本来なら茶々丸の味方につくはずの伊豆の豪族達ですら早雲の味方をしたそうです。しかし茶々丸は意外にしぶとく、堀越御所から脱出して近隣の武田氏らを味方につけて抵抗を続け、しかもその抵抗は数年間にも及びました。

とは言え、それでも早雲は徐々に茶々丸を追い詰めていき、1495年には甲斐へと攻め入ると甲斐の守護・武田信縄と戦闘を繰り広げます。また同時期に小田原城を奪い取っていますが、早雲が小田原城を攻めたのは城主が茶々丸側に就いたのが理由とされており、この小田原城は後に後北条氏の拠点となりました。

こうしてさらに茶々丸を追い詰める早雲、最終的には1498年にとうとう自害へと追い込むことに成功したのです。今川氏の家督争いに続いて堀越公方問題も解決させた早雲、成長した今川氏親と共に領地を広げて三河・遠江にも攻め入っていき、順調に勢力を拡大させていました。

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shintomoyui0311