今日は北条早雲(ほうじょうそううん)について勉強していきます。応仁の乱以降、下位の者が上位の者を倒す下剋上が相次ぎ、戦国時代と呼ばれたその時代では多くの武将が名を残した。

最も、その武将とは織田信長らを連想すると思うが、最初に下剋上を成し遂げたとされるのが北条早雲です。そこで、今回は北条早雲について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から北条早雲をわかりやすくまとめた。

北条早雲の活躍 ~姉の夫・今川義忠の死~

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北条早雲の身分は低くなかった

北条早雲は下剋上の成功者として挙げられることが多く、以前までは素浪人から戦国大名になったと解説されていました。しかし、近年では父は伊勢盛定で母は京都伊勢氏当主である政所執事・伊勢貞国の娘とされており、北条早雲は決して身分の低い者ではなかったことが分かっています。

そして、北条早雲の本名も伊勢宗瑞(いせそうずい)とされていますが、ここでは北条早雲に統一して解説していきますね。また、北条早雲は戦国大名の始まりとされていて、幕府の家臣から戦国大名になったという点で大きく出世した人物であることは間違いありません。

さて、ここから北条早雲の一生を振り返っていきます。早雲には姉(妹の可能性もあるとされている)がいたようで、彼女の名前は北川殿。駿河の守護・今川義忠の正室で1473年には今川氏との間に嫡男・龍王丸が誕生。早雲もまた1487年に幕府の武官とされる奉公衆に任命され、その一方で禅も学んでいました。

甥っ子・今川龍王丸への心配

さて、戦国時代では関東一帯を勢力とした戦国大名として後北条氏が有名ですが、実は後北条氏の祖たる存在が北条早雲。「後北条氏=関東」と言えるくらいのイメージですから、後北条氏の祖である早雲は人生の中で東国へと向かう機会が訪れるわけですね。

そしてその機会となったのが1476年のこと、姉・北川殿の夫である今川義忠が斯波義良の家臣に討たれた事件でした。当時は1467年に始まった応仁の乱がまだ続いており、その中で斯波義良は東軍についています。また討たれた今川義忠も東軍でしたから、今川義忠は味方に殺害されたことになりますね。

最も、下剋上という世の中を考えればそれは珍しくないことかもしれませんが、ただ早雲にとって気がかりだったのが北川殿と今川義忠の息子……つまり早雲の甥っ子となる今川龍王丸。何しろ龍王丸はまだ幼く、戦国時代において父・今川義忠を継いで駿河を守っていくのはとても不可能でした。

北条早雲の活躍 ~家督争いを解決~

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今川龍王丸の危機を救った北条早雲

今川氏の家臣の間では、案の定家督争いが起こっていました。本来なら今川義忠の息子・今川龍王丸を当主になるべきところでしょう。しかし龍王丸の年齢を考えるとそれは難しく、そこで今川氏の家臣らは今川義忠のいとこにあたる小鹿範満を当主に推しました。

つまり今川龍王丸と小鹿範満の家督争いが勃発したわけですが、ここに介入してきたのが堀越公方や扇谷上杉家。堀越公方の上杉政憲や扇谷上杉家の太田道灌は小鹿範満についていたため、龍王丸の当主引き継ぎは難しい状況になってしまい、しかしここで駿河にやってきたのが北条早雲でした。

早雲は挙兵してきた上杉政憲と太田道灌を説得、「龍王丸が成人するまで小鹿範満が当主代行をする」の提案で家督争いを収めます。しかし、龍王丸が15歳を過ぎても家督を戻そうとしない小鹿範満、これを受けて早雲は1487年に再度駿河を訪れると、龍王丸の補佐へと回りました。

家督争いの決着

早雲は石脇城へと入ると、兵を集めて軍を作ります。そして駿河館を攻めて小鹿範満を自害に追い込み、さらに小鹿範満の弟である小鹿孫五郎も同様に自害へと追い込みました。龍王丸の家督相続を妨害する者達をあっという間に排除した早雲、これで龍王丸は駿河館へと移ることができたのです。

龍王丸はめでたく2年後に元服、これをきっかけに今川氏親と名乗るようになり、晴れて今川家の当主へとなりました。ここで一つ余談をすると、あの織田信長が桶狭間の戦いにて破った今川義元は、今川龍王丸……つまり今川氏親の息子です。ですから、早雲の活躍がなければ今川義元は誕生せず、そうなると織田信長の未来も変わっていたかもしれませんね。

ともあれ、この家督争いを見事収めた功績を認められた早雲は、伊豆の近くに所領を与えられました。また、これと同じ頃に早雲は結婚しており、早雲と共に幕府の奉公衆を務めていた小笠原政清の娘である南陽院殿と結ばれています。さて、ここからまた早雲は新たな活躍を見せるのでした。

北条早雲の活躍 ~堀越公方問題を解決~

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茶々丸の暴挙

伊豆近くに所領を与えられた北条早雲は、この付近で力を持っていた堀越公方の足利政知と関わるようになり、そしてここでもまた問題が勃発するのでした。足利政知には長男・茶々丸、次男・清晃、三男・潤童子の3人の息子がいましたが、1491年の4月に足利政知が死去、ここから事件が起こります。

同じ年の7月……つまり足利政知が死去した3ヶ月後、茶々丸が潤童子と母である円満院を殺害したのです。それから2年経った1493年、明応の政変が起こったことで第10代将軍・足利義稙は追い出され、代わって第11代将軍に就任したのが次男・清晃で、足利義澄の名で将軍に就きました。

そんな足利義澄が北条早雲に対して命じたのが茶々丸の討伐。足利義澄は茶々丸と兄弟とは言え、茶々丸は三男と母の仇でもありますから、足利義澄が茶々丸に対して討伐命令を出す気持ちは理解できます。こうして命令を受けた早雲、茶々丸討伐のために堀越御所を攻撃しました。

足利義澄の茶々丸討伐命令

茶々丸は余程評判が悪かったのか、本来なら茶々丸の味方につくはずの伊豆の豪族達ですら早雲の味方をしたそうです。しかし茶々丸は意外にしぶとく、堀越御所から脱出して近隣の武田氏らを味方につけて抵抗を続け、しかもその抵抗は数年間にも及びました。

とは言え、それでも早雲は徐々に茶々丸を追い詰めていき、1495年には甲斐へと攻め入ると甲斐の守護・武田信縄と戦闘を繰り広げます。また同時期に小田原城を奪い取っていますが、早雲が小田原城を攻めたのは城主が茶々丸側に就いたのが理由とされており、この小田原城は後に後北条氏の拠点となりました。

こうしてさらに茶々丸を追い詰める早雲、最終的には1498年にとうとう自害へと追い込むことに成功したのです。今川氏の家督争いに続いて堀越公方問題も解決させた早雲、成長した今川氏親と共に領地を広げて三河・遠江にも攻め入っていき、順調に勢力を拡大させていました。

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北条早雲の活躍 ~相模の覇者~

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政治活動の始まり

さて、北条早雲が今川氏親と共に勢力を広げていたその頃、関東北部にて長享の乱と呼ばれる戦いが起こっていました。長享の乱とは山内上杉氏と扇谷上杉氏の内紛で、どちらも「上杉氏」であることから分かるとおり同族で争っていたのです。ちなみに、扇谷上杉氏はかつて早雲が解決した家督争いでも介入してきていますね。

ここでは早雲は扇谷家の上杉定正を味方しますが、肝心の上杉定正は敵対していた山内家の上杉顕定との対陣中に死亡。さらに扇谷上杉氏にとって頼れる存在だった相模の三浦氏と大森氏も相次いで死亡、さすがの早雲もこれには分が悪く地元へと引き返しましたが、後に相模制圧のために進出してきました。

これに対して対抗してきたのが山内家の上杉顕定、しかしここでも早雲は今川氏親と協力して1504年の立河原の戦いにて上杉顕定に勝利しています。この頃になると早雲は武力だけでなく政治にも力を入れるようになり、例えば相模では初めての検地を行ったそうです。

混乱を利用して相模の覇者へ

戦国時代では下剋上が頻発しており、「下位の者が上位の者を倒す」や「内紛が起こる」は日常茶飯事でした。まさに混乱の世の中、ただこの混乱は北条早雲にとっていずれも都合の良い方へと傾きます。1507年、後継ぎを明確に決めなかった細川政元は養子である細川澄之に殺害されました。

さらに、細川政元とつながりのあった越後の守護・上杉房能が守護代に殺害されます。そして、この状況を利用して足利義稙は将軍へと返り咲き、このような出来事は早雲から見ていずれも好都合であり、なぜなら早雲にとって有利に働く者達が次々と中央政権に戻ってきたからです。

ここぞとばかりに相模の地を狙う早雲、狙うは三浦氏が拠点としていた三浦半島で、相模の城を次々と落としていきました。三浦氏も援軍を受けて対抗するものの早雲には敵わず、実に4年もかけて三浦氏を滅亡させた早雲は、とうとう相模の覇者にまでのぼりつめたのです。

北条早雲の活躍 ~高い政治力~

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\次のページで「農民の負担軽減」を解説!/

農民の負担軽減

北条早雲の政治力はなかなかのもので、当時ありがちだった農民への負担も軽いものになっていました。例えば早雲は虎の印判状を用いた上で、印判状のない徴収は無効とする決まりを定めましたが、これは代官が百姓や職人から無理に税を徴収するのを防ぐためでもあります。

ちなみに、後北条氏も自分の領地における年貢の税率を四公六民にしており、これは「納める年貢は4割、残りの6割は農民のもの」と意味するものです。「年貢=税金」と考えると4割の税金は一見高額に思えますが、当時の税率としてこれは大変低く設定されたものになっています。

後北条氏の定めた年貢の税率……すなわち、四公六民も実は早雲が定めた税率をそのまま引き継いだとされていて、これらの点から早雲の政治力の優秀さがうかがえますね。当然政治は安定しますから、その安定がそのまま後北条氏の安定した基盤につながったのではないでしょうか。

分国法の始まりとされる早雲寺殿廿一箇条

また、北条早雲は早雲寺殿廿一箇条を定めていて、これは「そううんじどのにじゅういっかじょう」と読みます。戦国時代では戦国大名が分国法と呼ばれる法律を作っていましたが、早雲寺殿廿一箇条はその始まりとされていて、さすが最初の戦国大名といったところですね。

最も、「法」の文字からは法律を想像するでしょうし、確かに分国法は戦国大名が作った法律。しかし、早雲寺殿廿一箇条の場合は法律よりも家訓に近いものになっており、御成敗式目や禅宗の影響を受けているようです。早雲は幕府の奉公衆を務めていた頃に禅を学んでいたため、その影響もあったのでしょう。

このようにして幕府の家臣から戦国大名へとなり、伊豆・相模を制圧した北条早雲。後に登場する戦国大名の多くが早雲の影響を受けていたようで、早雲の成功にならって日本の各地ではさらなる激しい下剋上が起こるようになりました。

家督争いと堀越公方問題の解決、伊豆・相模の制圧を中心に覚えよう!

北条早雲を覚えるポイントは、彼が下剋上の代表とされている理由です。北条早雲の名前が登場するのは下剋上においてであり、その中で彼は成功者として紹介されるパターンがほとんどですね。
 
ですから、成功につながる出来事と実績、すなわち今川氏の家督争いの解決や堀越公方問題の解決。さらには伊豆・相模の制圧を中心に北条早雲についての知識を身につけていきましょう。
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室町時代戦国時代日本史歴史

下剋上の成功者として名を残した「北条早雲」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は北条早雲(ほうじょうそううん)について勉強していきます。応仁の乱以降、下位の者が上位の者を倒す下剋上が相次ぎ、戦国時代と呼ばれたその時代では多くの武将が名を残した。

最も、その武将とは織田信長らを連想すると思うが、最初に下剋上を成し遂げたとされるのが北条早雲です。そこで、今回は北条早雲について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から北条早雲をわかりやすくまとめた。

北条早雲の活躍 ~姉の夫・今川義忠の死~

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北条早雲の身分は低くなかった

北条早雲は下剋上の成功者として挙げられることが多く、以前までは素浪人から戦国大名になったと解説されていました。しかし、近年では父は伊勢盛定で母は京都伊勢氏当主である政所執事・伊勢貞国の娘とされており、北条早雲は決して身分の低い者ではなかったことが分かっています。

そして、北条早雲の本名も伊勢宗瑞(いせそうずい)とされていますが、ここでは北条早雲に統一して解説していきますね。また、北条早雲は戦国大名の始まりとされていて、幕府の家臣から戦国大名になったという点で大きく出世した人物であることは間違いありません。

さて、ここから北条早雲の一生を振り返っていきます。早雲には姉(妹の可能性もあるとされている)がいたようで、彼女の名前は北川殿。駿河の守護・今川義忠の正室で1473年には今川氏との間に嫡男・龍王丸が誕生。早雲もまた1487年に幕府の武官とされる奉公衆に任命され、その一方で禅も学んでいました。

甥っ子・今川龍王丸への心配

さて、戦国時代では関東一帯を勢力とした戦国大名として後北条氏が有名ですが、実は後北条氏の祖たる存在が北条早雲。「後北条氏=関東」と言えるくらいのイメージですから、後北条氏の祖である早雲は人生の中で東国へと向かう機会が訪れるわけですね。

そしてその機会となったのが1476年のこと、姉・北川殿の夫である今川義忠が斯波義良の家臣に討たれた事件でした。当時は1467年に始まった応仁の乱がまだ続いており、その中で斯波義良は東軍についています。また討たれた今川義忠も東軍でしたから、今川義忠は味方に殺害されたことになりますね。

最も、下剋上という世の中を考えればそれは珍しくないことかもしれませんが、ただ早雲にとって気がかりだったのが北川殿と今川義忠の息子……つまり早雲の甥っ子となる今川龍王丸。何しろ龍王丸はまだ幼く、戦国時代において父・今川義忠を継いで駿河を守っていくのはとても不可能でした。

北条早雲の活躍 ~家督争いを解決~

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