南ドイツを代表していたハプスブルク家が約640年に渡り君臨し、皇居とは別に離宮として建造させていたシェーンブルン宮殿は元々庭園だけしかなかったようです。小さな宮殿は存在していたようですが、当初は現在のような大きな宮殿はなく1600年代に入ってから計画されていったようです。

今回はこのシェーンブルン宮殿を歴史マニアで歴史ライターだったwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

今やオーストリアの一大有名観光地となっているシェーンブルン宮殿の歴史を一から紹介していく。

離宮を利用ハプスブルク家

シェーンブルン宮殿を長年愛用していたハプスブルク家について紹介していきます。

ハプスブルク家が誕生

ハプスブルク家の名前が文献に現れ始めてきたのは、1200年頃にスイス地方で誕生していきました。勢力を拡大していくために政略結婚を繰り返していき影響力を強め政治的特権を得ていきます。

1273年になるとルドルフ四世がローマ王に選出されていきルドルフ一世と名を改めていきました。この決定に不満を持っていたオタカル二世はルドルフ一世と対立していくことになります。

ルドルフ一世は巧みに政略結婚をしていき、王達を味方に付けて優位に戦を仕掛けていき勝利していくとオタカル二世の領土だったオーストリア公国を手に入れていきました。オーストリアを手にしたことで奪われてしまっていたスイスから離れ主戦場をオーストリアへ移していきます。

ハプスブルク家が二分される

オーストリアで徐々に力を蓄えていくとルドルフ一世の嫡男だったアルブレヒト一世が殺害されてしまいました。しかしその後を継いだフリードリヒ美王がアルブレヒト一世の座に就いていきましたが、勢力を弱めていたもののルドルフ一世を筆頭にオーストリアでの地位を拡大させていきます。

そしてアルブレヒト一世の血筋だったフリードリヒ三世がローマ王を即位させていきましたが、権威や権力は無くお飾りの王となっていました。しかしフリードリヒ三世は子供達を各地の王位に就かせるよう働きかけていくと、ヨーロッパ地域を支配する一大帝国を築き上げていきます。

そして一大勢力を築いカール五世の弟だったフェルディナントに領土を分割していくと、ハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分かれていきました。

シェーンブルン宮殿の始まり

image by PIXTA / 17366477

シェーンブルン宮殿と呼ばれる以前は、水車小屋だけしか建っておらず修道院の荘園とされていました。

ハプスブルク家と対立していく国々

カール五世によって統治される前にスレイマン一世率いるオスマン帝国と激しく争っていました。この時はフランス国もオーストリアとイタリアの利権を欲していたためイタリア国全土を巻き込む紛争となり、当時ローマ皇帝だったマクシミリアン一世が亡くなり次期皇帝として名乗りを挙げていくフランソワ一世。

しかし皇帝となったのはカール五世で、皇帝の地位を獲得出来なかったフランソワ一世はハプスブルク家と敵対していた国々と同盟を交わしていき高い軍事力を保持していたオスマン帝国とも同盟していきました。

スレイマン一世は1526年のモハーチの戦いでハンガリー王国を壊滅させ空いてしまったハンガリー国王に座ろうとしていきますが、ここにカール五世も加わりオスマン帝国とカール五世率いるハプスブルク家は対峙することになっていきます。

\次のページで「ハプスブルク家の本拠地が囲まれる」を解説!/

ハプスブルク家の本拠地が囲まれる

オスマン帝国と対峙していくと、カール五世は約二万の軍勢を揃えたうえに大砲を七十門用意し待ち構えていきました。対するスレイマン一世はハンガリー王位を保護しハプスブルク家の本拠地となっていたウィーンを十二万の大軍で包囲していきます。

攻撃が開始されると両軍とも大砲を主軸に、攻め立ていき兵で勝るオスマン帝国が果敢にウィーン目掛けて突撃するも中々ウィーンを切り崩すことが出来きませんでした。カール五世が手堅く籠城戦を行い長期戦に持ち込むとオスマン帝国側は、食料が無くなり欠けてくる事態となってしまい撤退を余儀なくされていきます。

また食料だけでなく寒気の厳しさに慣れていない、オスマン帝国の兵士が多数いたため包囲がしっかりと機能していませんでした。

ウィーンを包囲されたことで宮殿が荒廃

一回目のウィーン包囲によりオスマン帝国の大砲などの攻撃で、シェーンブルン宮殿は荒廃してしまいウィーン市長だったヘルマンバイヤーがこの地を賃借しカッターブルクと呼ばれた城を築き上げていきました。そして1569年にハプスブルク家のマクシミリアン二世がこの地を購入していき狩猟場所として狩りをしていきます。

マクシミリアン二世は狩猟場所だけでなくカッターブルクを改築し、畑を作りブドウや動物の飼育場所として敷地を拡張していきました。この地を豊かにするために色々と行っていったことはルドルフ二世に引き継がれていきます。

しかしルドルフ二世が統治していた1609年にオスマン帝国に属していたハンガリー国に攻撃を仕掛けられ、再び荒廃してしまいました。

シェーナーブルンネン

破壊されてしまったシェーンブルン宮殿を再建し、1609年にこの場所を譲り受けたルドルフ二世の弟だったマティアスがカッターブルクを使用して狩猟だけでは勿体無いと思い狩猟館を建築していきました。それから3年たった1612年に狩猟に出掛けたマティアスが泉を発見しシェーナーブルンネンともシェーブルンと呼ばれていき、現在もこの名称で親しまれていきます。

果樹園やスペイン馬の飼育をされるなど、発展していったシェーンブルン宮殿でしたがハプスブルク家領内でハンガリー人が反乱が発生したことでオスマン帝国が介入し十五万の大軍で再びウィーンを包囲していきました。激しい戦いが行われたことでシェーンブルン宮殿は破壊されてしまいます。

本格的に宮殿を計画し建造

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争いによって疲弊していたローマ国を以前のような威厳ある国にする象徴として大規模な宮殿を建造していく計画を練られていきました。

ヴェルサイユ宮殿を超える存在

元々ローマ国は神聖な国であると共に各国よりも立場も権威も高く無ければなりませんでしたが、戦などによって国内情勢が悪くなっていました。そこでハプスブルク家とローマ国に居た貴族達はフランス国のヴェルサイユ宮殿を超える宮殿を作りたいといい建築家のヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハに依頼していきます。

しかし財政状況が苦しくヴェルサイユ宮殿を超える宮殿を断念せざる終えなくなり、計画が見直されていきました。マリア・テレジアが国を統治していた時に完成し、資金に余裕があれば壁全体に金を塗る予定でしたがこの時でも財政状況が悪いままで金色から黄色に色を変えていきます。

\次のページで「宮殿の構造」を解説!/

宮殿の構造

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ヴェルサイユ宮殿ほどとはいきませんでしたが、総面積で1.7平方キロメートルと広大な敷地の中に宮殿が建っていきました。宮殿は幅175メートルで奥行55メートルあり様式はヴェネツィアで発祥したバロック様式の外観で内装はヨーロッパで主流とされていたロココ様式で建造されています。

兵士や使用人が千人ほど住んでいたため、部屋の数は千四百室もあり宿泊出来る部屋も存在しておりましたが現在見学すること出来るのは四十室のみ公開。一般公開されている部分には賃貸住宅として貸出されている住居があり、住宅不足が大問題となった時の解決案として使用されていたようです。

観光用のホテルにもなっている

賃貸物件として利用されていきましたが、建物自体が古いこともあり不便だったことで徐々に居住する人が減少していきました。リフォーム工事もある程度認められていたようですが、諸条件があったため中々申請が通らなかったようです。

オーストリアの観光名所だったことで、歴史的建造物の中にホテル事業を手掛けていたオーストリア・トレンド・パークが一部分を買い取りスィートルームを作り観光客を多く取り込んでいきました。

離宮として扱われる

テレジア以降の夏にハプスブルク家はシェーンブルン宮殿で、休暇を取り長期間滞在していて優雅なひと時を送っていたようです。中でも良く利用していたのはテレジアとフランツ二世で、二人ともシェーンブルン宮殿で心休まる空間で良き休暇を過ごしていたことでしょう。

中でも癒しの場所だった舞踏会の会場として扱われていた鏡の間では、モーツァルトがたった六歳でヴァイオリンを演奏しマリーアントワネットに求婚した逸話も残されています。戦争が少なくなっていき他国と争うことが無くなっていきオーストリアの皇帝達は夏だけではなく春や秋にもシェーンブルン宮殿で過ごしていました。

百メートルを超える回廊

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宮殿付きの建築士だったヨハン・フェルディナント・ヘッツェンドルフ・フォン・ホーエンベルクが建造したグロリエッテはシェーンブルン宮殿でもひと際目立ち知名度もある建物。小高い丘に建てられ長さがなんと百メートルもあり、内部は宴用のホールが多数作られています。

グロリエッテの屋上からウィーン市街地を一望することが出来、皇帝達も景色に感動し国の行く末を案じていたことでしょう。また前景にはネプチューン泉と名付けられた建造物がありギリシア神話に登場したテティスが彫刻されています。

現在ではリラックスが出来る空間としてカフェが併設されているため、ウィーン観光の合間に一息つけるでしょう。

一区画に日本庭園が存在

1913年に日本の影響を強く受けていた皇帝のフランツ公が、庭師に建造させ日本庭園の景観を楽しんでいましたが翌年に人民主義者に暗殺されてしまいました。フランツ公が亡くなると日本庭園が廃れていったと同時に第一次世界大戦で手掛けた庭師が多数亡くなり再建不能となり荒廃していきます。

しかし近代に入ってから日本から来た山田貴恵が発見し、日本の庭師が協力して再建されていきました。その後も日本庭園を守るために保守・保全活動が行われ日本文化の発信もシェーンブルン宮殿で行われています。

馬車博物館や最古の動物園

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車が無かった時代には、移動手段として馬が重宝されていて国によっては馬の鞍に豪華な装飾を施していました。ハプスブルク家も馬を大事にしていたとされ他国に劣らないよう芸術家達に力を入れさせていたようで、現在にもその時に作られた鞍が現存しているものがワーゲンブルグという博物館に飾られています。

鞍だけではなく、フランツ公やエリザベートなどの皇室だった人達が式典の様子や馬と余暇を過ごしていたことが想像出来る場所でもあり宮廷生活の一面を覗くことが出来るでしょう。また宮殿が計画された時代に動物園も造営しており、これより以前にも動物園は存在していましたが一般公開されていない施設だったようです。

今ではジャイアントパンダを飼育している貴重な動物園で、保護活動を行いつつ子供向けに特別支援プログラムが組まれ動物研究も盛んに行われている人気のある動物園となりました。

\次のページで「見学出来る時間」を解説!/

見学出来る時間

開園時間は時期によって多少変動がありますが、どの時期も8時30分から始まり終わりは17時~18時30分と変動制となっています。現地の広大な敷地のため、歩いて周るにも時間を要してしまうので事前に準備してからいくといいでしょう。

入館料は四種類のチケットで金額が分かれていて、チケットによって見学出来る場所が変わり、一番安いチケットですとインペリアルツアーの二千円前後と四千円前後のシシィチケットがあります。待ち時間を気にする方であれば事前にホーフブルク宮殿でも購入可能ですので効率良く見学出来るように計画するといいでしょう。

またツアー申込であれば、チケットを購入することなく入館することもできます。チケット購入が出来れば日本語ガイドも付いていてガイドブックも日本語版があるため、気兼ねなく景観や歴史を学ぶこと出来るでしょう。

歴史建造物でありながら様々な設備もある宮殿

宮殿はもちろん素晴らしい歴史建造物で、当時の歴史も感じられる知名度の高い観光場所になっています。何故水車小屋しかなかった土地にここまでの宮殿を建造させようと思ったのかは、計画したレオポルト一世に聞いて見ないと分かりません。

オスマン帝国の脅威が去り、争いが少ない時代となってきたところで広大な土地で戦場から離れたかった環境が欲しかったことで建造していったような気がしています。景観だけでなく様々なことが体験可能な場所となっているので、子供も大人も楽しめる名所でもありこのような場所を作ってくれたレオポルトに感謝しましょう。

体が不自由な方でも回れるようにトラムが運行しているので、活用してまったりして観光してもいいと思います。

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ヨーロッパの歴史世界史歴史

ハプスブルク家が利用していた「シェーンブルン宮殿」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説

南ドイツを代表していたハプスブルク家が約640年に渡り君臨し、皇居とは別に離宮として建造させていたシェーンブルン宮殿は元々庭園だけしかなかったようです。小さな宮殿は存在していたようですが、当初は現在のような大きな宮殿はなく1600年代に入ってから計画されていったようです。

今回はこのシェーンブルン宮殿を歴史マニアで歴史ライターだったwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

今やオーストリアの一大有名観光地となっているシェーンブルン宮殿の歴史を一から紹介していく。

離宮を利用ハプスブルク家

シェーンブルン宮殿を長年愛用していたハプスブルク家について紹介していきます。

ハプスブルク家が誕生

ハプスブルク家の名前が文献に現れ始めてきたのは、1200年頃にスイス地方で誕生していきました。勢力を拡大していくために政略結婚を繰り返していき影響力を強め政治的特権を得ていきます。

1273年になるとルドルフ四世がローマ王に選出されていきルドルフ一世と名を改めていきました。この決定に不満を持っていたオタカル二世はルドルフ一世と対立していくことになります。

ルドルフ一世は巧みに政略結婚をしていき、王達を味方に付けて優位に戦を仕掛けていき勝利していくとオタカル二世の領土だったオーストリア公国を手に入れていきました。オーストリアを手にしたことで奪われてしまっていたスイスから離れ主戦場をオーストリアへ移していきます。

ハプスブルク家が二分される

オーストリアで徐々に力を蓄えていくとルドルフ一世の嫡男だったアルブレヒト一世が殺害されてしまいました。しかしその後を継いだフリードリヒ美王がアルブレヒト一世の座に就いていきましたが、勢力を弱めていたもののルドルフ一世を筆頭にオーストリアでの地位を拡大させていきます。

そしてアルブレヒト一世の血筋だったフリードリヒ三世がローマ王を即位させていきましたが、権威や権力は無くお飾りの王となっていました。しかしフリードリヒ三世は子供達を各地の王位に就かせるよう働きかけていくと、ヨーロッパ地域を支配する一大帝国を築き上げていきます。

そして一大勢力を築いカール五世の弟だったフェルディナントに領土を分割していくと、ハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分かれていきました。

シェーンブルン宮殿の始まり

image by PIXTA / 17366477

シェーンブルン宮殿と呼ばれる以前は、水車小屋だけしか建っておらず修道院の荘園とされていました。

ハプスブルク家と対立していく国々

カール五世によって統治される前にスレイマン一世率いるオスマン帝国と激しく争っていました。この時はフランス国もオーストリアとイタリアの利権を欲していたためイタリア国全土を巻き込む紛争となり、当時ローマ皇帝だったマクシミリアン一世が亡くなり次期皇帝として名乗りを挙げていくフランソワ一世。

しかし皇帝となったのはカール五世で、皇帝の地位を獲得出来なかったフランソワ一世はハプスブルク家と敵対していた国々と同盟を交わしていき高い軍事力を保持していたオスマン帝国とも同盟していきました。

スレイマン一世は1526年のモハーチの戦いでハンガリー王国を壊滅させ空いてしまったハンガリー国王に座ろうとしていきますが、ここにカール五世も加わりオスマン帝国とカール五世率いるハプスブルク家は対峙することになっていきます。

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