4-4、松の廊下事件のきっかけの儀式
桂昌院は親孝行な綱吉の尽力で、貞享元年(1684年)に朝廷から従三位を、元禄15年(1702年)には女性として最高位の従一位の官位を贈られ、藤原光子(または宗子)という名前も賜ることに。
しかしこの桂昌院の贈位のための勅使を接待する役目を担ったのが、あの浅野内匠頭と吉良上野介だったのですね。なので松の廊下の刃傷沙汰で、大事な母の儀式が台無しにされたとばかりに、将軍綱吉が怒りを抑えられずに浅野内匠頭を即日切腹させた、また赤穂事件の遠因は桂昌院といえなくもないということ。
4-5、細かい気配りができた
当時の位の高い女性は、自分の着物を召使がお下がりとして着用する習慣があったのですが、桂昌院はそのことを見越して、着物の襟や袖に当て布をして汚れないよう気を付けて着ていたそう。
成り上がりで贅沢になれた人は物を粗末に扱うことが多いですが、桂昌院は自分がされて嫌なことは他人にもしないように気を配る人だったのかも。
大奥のシンデレラストーリー、玉の輿の伝説を作った
桂昌院は、はっきりと判明しないほどの庶民の出身、俗説の京都の八百屋の娘から公卿侍とはいえ侍の家へ、そしてコネを頼って大奥へ出仕し、春日局の目に留まって行儀作法を仕込まれて、将軍家光のお手付き中臈となり男子を出産。ライバルとのバトルもあったが、必死で育てた息子は将軍になり将軍御生母様として大奥に君臨するという、当時の女性としてはまさに夢のような出世物語の主人公に。
そしてこの幸運は神仏のおかげとますます信仰篤く、寺社再建のためにじゃんじゃん寄進、現在の京都の多くの有名神社仏閣の建物はほとんど桂昌院と綱吉のおかげで建てられたものに。この寺社再建の莫大な費用が幕府の財政難となったとか、生類憐みの令がやりすぎと評判が悪かったのですが、最近は再評価されているそう。
桂昌院のせいではないけれど、松の廊下事件の勅使接待が桂昌院の贈位の儀式のためだった、というのも興味深い事実ですよね。




