3-2、息子綱吉に跡継ぎなく、信心が爆発
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不明 – The Japanese book “Exhibition of the Treasures and Papers of the Tokugawa Shogunal Household”, パブリック・ドメイン, リンクによる
桂昌院の息子綱吉は、舘林藩主の18歳の時、京都の公卿鷹司家の信子と結婚したが、子供はなし。また桂昌院の部屋子だったお伝の方が綱吉の側室となって鶴姫と鶴松が誕生。鶴姫は成人して紀州藩主と結婚し、鶴松は夭折。
ほかに子宝に恵まれなかったために、もともと信心深かった桂昌院は、自分が将軍の母となったのは神仏のおかげだったしと、僧隆光の勧めもあって護国寺を建立、京都で実家に縁の深い善峯寺、今宮神社、勝持寺、金蔵寺、乙訓寺、それに智積院の金堂、南禅寺、清涼寺、西明寺、真如堂などの再建、再興に尽力。
綱吉も、皇室や公家の知行を増やしたり、天皇御陵を修復、奈良の大仏殿の再建、また上野忍が岡の林家の私的家塾と孔子廟を移転させて湯島聖堂を建立と、総計106もの寺社の再建を行ったため、膨大な費用をつかい幕府財政窮乏の原因となったということ。
しかし現在では、応仁の乱以来荒れていた寺の再興者として、また京都出身者として出世後に地元に貢献したことで高評価に。
3-3、生類憐みの令
そして桂昌院が高い地位になると予言した僧亮賢の紹介で、アドバイザーとして信頼を得た僧隆光が、「殺生を禁じて生き物を大切にすれば子が授かる」、特に戌年生まれの綱吉のために犬を大事にするように助言したことで、綱吉は、生類憐みの令を発令。綱吉は「犬公方」と言われ、前半の善政の評判が後半の治世に一挙に低下。
これについては、生類憐みの令の発令は、隆光が桂昌院と綱吉の信頼を得る以前という説が有力となり、また生類憐みの令も悪法と言われていたが、生き物全般を大事にする良法として見直されているそう。
3-4、後継者問題の決着
綱吉の嫡男の徳松は、天和3年(1683年)に5歳で夭折したため、娘の鶴姫の夫で紀州徳川藩主の徳川綱教が後継者候補となったが、水戸徳川家の光圀が反対、そして鶴姫は宝永元年(1704年)、27歳で死去し夫の綱教も翌年に死去、二人に子供はなかったため、同年、将軍後継者は綱吉の兄綱重の子で甲府徳川家の綱豊(家宣)に決定。
桂昌院は宝永2年(1705年)6月に79歳で亡くなり、息子綱吉も後を追うように4年後に亡くなったということ。
4-2、玉の輿の語源と言われる
昔は結婚することをお輿入れと言いましたが、貴人のお嫁入りはお姫様が本当に輿に乗ったまま御殿の奥の部屋に入るということ。そしてその輿が宝石でできているほど高級なものという意味で、身分の高い家にお輿入れを玉の輿というのだそう。
ということで、桂昌院の本名八百屋出身ともいわれるお玉が、将軍家光の側室となり将軍生母となったことで、玉の輿と言われるという俗説ができたということで、大徳寺塔頭の総見院は、織田信長の菩提寺として有名ですが、「玉の輿」の玉は桂昌院のことという語り伝えがあるそう。
また、桂昌院の生誕地の近所にあり、桂昌院が寄進した京都の今宮神社の名物あぶり餅は、玉のような餅を食べて、桂昌院ことお玉のようなご利益にあやかろうとしたという言い伝えが。
4-3、桂昌院の兄弟は大名に
桂昌院の母が二条家の侍の本庄氏と再婚(奉公なので妾の可能性も)後に生まれた、桂昌院の異父弟は、本庄宗資(むねすけ)として、明暦2年(1656年)12月、甥にあたる綱吉の家来に。
寛文8年(1668年)に初めて将軍家綱に御目見し、延宝8年(1680年)、綱吉が将軍となると、綱吉の嫡男徳松に従って江戸城へ移り、最終的には笠間藩主5万石の大名となり、徳川家の親戚筋に与えられる松平姓も許されたということ。
尚、桂昌院の異母兄も大名となり、小藩ながらも明治まで続き、武功なしで桂昌院の実家、女性のおかげで大名となった蛍大名と呼ばれることに。
この本庄家の家紋が「違い大根」というのは、八百屋出身を開き直ったとしか言いようがないのでは。
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