その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、桂昌院について5分でわかるようにまとめた。
1-1、桂昌院は京都の生まれ
桂昌院は(けいしょういん)は、寛永4年(1627年)に京都の大徳寺付近で誕生。父は北小路(本庄)太郎兵衛宗正。母は鍋田氏の娘ということで、通称はお玉、桂昌院というのは落飾後の院号。きょうだいは兄と姉、弟がひとり。
1-2、桂昌院の出自について
江戸幕府の公式文書である「徳川実紀」によれば、お玉の父は、関白二条光平の家司、北小路(本庄)太郎兵衛宗正となっているが、存命中から実際はもっと低い身分の出身と噂されていたそう。
桂昌院と同時代の人物の記録では、尾張藩士の朝日重章の日記「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)に、桂昌院が従一位の官位を賜ったとき、西陣織屋の娘であるという落首があったとか、戸田茂睡(もすい)の「御当代記」では畳屋の娘説、晩年を京都で過ごした医師で学者の黒川道祐の「遠碧軒記」には、二条家家司北小路宮内が「久しく使ふ高麗人の女」に産ませた娘説と、様々あり。
そして桂昌院の死後、やや年月が経ったのちに書かれた「元正間記」には大根売りの妹、さらに後に下った時代の「玉輿記」は、父は八百屋の仁左衛門、養父が北小路太郎兵衛宗正という説も。
桂昌院の伝説
桂昌院は、当時の女性としては最高の出世を遂げたとして、いかにもおとぎ話的にありがちな伝説が。
お玉が幼い頃、母と共に善峯寺に参拝したとき、すれ違った僧が、「この子には、高い位にのぼる相あり」と予言されたということ。
後年、桂昌院はお手付き中臈となって妊娠したときにこの予言を思い出して、予言した僧、亮賢を探し出して江戸に呼び寄せ安産の祈祷を頼んだところ、今度は、赤子は男子で、やがて将軍になることを予言、桂昌院は綱吉を出産したので、一層信頼され、また信心深くなったという話。
1-3、桂昌院の父が亡くなり、母が公家侍の家に奉公に
桂昌院がほんの子供のころに実父が亡くなり、美人で評判だった母は桂昌院とその姉を連れて、公卿二条家に仕えていた公家侍の北小路(本庄)太郎兵衛宗正の家に奉公に上がり、桂昌院の異父弟が生まれたということ。
尚、桂昌院の姉も同じく二条家に仕えていた侍の大宮宗賀と結婚。
2-1、お万の方の部屋子となり江戸へ下向
お万の方は、公卿の六条家の娘で、伊勢にある慶光院という格式の高い尼寺の院主となるために寛永16年(1639年)江戸へ下向して将軍家光に拝謁、しかし15歳の坊主頭で家光に見初められ、還俗して大奥入り、お万の方として家光の側室となったという珍しい経歴の女性。
桂昌院はこのときに一緒に大奥入りしたように言われますが、お万の方は予定では伊勢の尼寺に入るはずだったため、おそらくはお万の方の大奥入りが決まったのちに、京都の実家に大奥で側仕えする女性を募集し、公卿と公卿侍ネットワークで美人の桂昌院が選ばれ、江戸息を決心したのでは。
このときの桂昌院は13歳から16歳くらいで、部屋子としてお万の方に仕えていたが、春日局の目にとまって、「秋野」という名でお手付き中臈候補として指導を受けるように。
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将軍家光の家庭問題
徳川幕府の3代将軍家光は、若い頃は女性に興味を示さず男色の傾向があり、また23歳の時に結婚した2歳下の正室鷹司孝子とは、結婚当初から険悪で早々に別居し、江戸城中ノ丸に軟禁状態だったそう。
家光はほかの女性にもなかなか興味を示さなかったので、家光の乳母春日局が跡継ぎが生まれないことを心配し、誰でもいいと言わんばかりに出自、家柄にこだわらず必死で家光の好みのタイプの若い女性を集めまくったのが、大奥の始まりということ。
たとえば、長女千代姫(尾張家に嫁入り)を産んだお振の方は、春日局の祖心尼の姪でなんと石田三成の曾孫、そして長男家綱の母は、実父が死罪になった罪人の娘、そして尼になるはずの公卿娘を還俗させれば、八百屋の娘であろうがなんであろうが、家光の好みの女性で跡継ぎを産めば問題なしという感じで、大奥は美貌と行儀作法に運、コネさえあれば、若い女性が誰でもシンデレラになれたのかも。
2-2、桂昌院、家光の側室に
桂昌院は、19歳の時に家光の側室となり、正保2年(1645年)に家光の次男亀松を産んだが夭折(母はおまさの方説も)、翌年の正保3年(1646年)に家光の4男徳松(のちの5代将軍綱吉)が誕生。
大奥では将軍のお手付きとなり男の子を産むと御部屋様、女の子を産むと御腹様となり、名前に方が付いて格が上がるのですが、桂昌院は御部屋様のお中臈お玉の方に。
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2-3、大奥でのライバル、お夏の方
将軍家光の大奥では、もちろん桂昌院だけがお手付き中臈ではなくほかに何人ものお中臈が。そのなかでも3男綱重を生んだお夏の方は、桂昌院とライバルでしかも険悪な関係だったそう。
お夏の方は正室中之丸殿の御末と呼ばれる最下級の下働きの女中だったのですが、将軍のお湯殿係を務めていてお手付き中臈となった人。京都生まれで父は京都の町人弥市郎ということなので、正室の実家鷹司家ルートで大奥へ入ったはず。
息子たちは2歳違い、おまけにお夏の方は桂昌院の5歳年上で同じような京都庶民の出身なので、京都の実家から色々な噂とかも入りやすい環境というわけで、競争意識むき出しだったことは容易に想像できること、桂昌院はお夏の方に折檻を受けたという話があるため、相当なバトルがあったよう。
尚、お夏の方の生んだ次男の綱重は長男家綱に先立って亡くなり、綱吉が5代将軍となったが、綱重の息子綱豊(のちの家宣)をなかなか跡取りにしなかったのは、このお夏の方と桂昌院の対立が尾を引いたせいかも。
2-4、家光没後、息子綱吉は大名に
慶安4年(1661年)、桂昌院は34歳、息子徳松は6歳の時に将軍家光が逝去。お手付き中臈は慣例により尼となるため、お玉の方も桂昌院の院号を与えられ、筑波山知足院入り。
そして長兄の家綱が将軍に就任、承応2年(1653年)に家綱が右大臣昇進したときに、2人の弟は同時に元服して徳松は綱吉となり、将軍ご連枝として最初は15万石、次いで寛文元年(1661年)には上州館林藩25万石となり、館林宰相と呼ばれるように。
父家光は、息子綱吉が兄たちを敬い、家来として仕えることを望み、勉学に励め、特に儒教を勉強するようにと言い残したため、桂昌院は息子に一生懸命勉学に励むようにさせたそう。
3-1、息子綱吉が5代将軍に
延宝8年(1680年)5月、4代将軍で綱吉の長兄家綱が危篤となったとき、家綱には跡継ぎがなく、次兄綱重も先に亡くなっていたため、大老酒井忠清が鎌倉幕府の前例にならい京都から宮将軍を迎えようとしたが、老中堀田正俊らが反対し、桂昌院の息子綱吉が34歳で5代将軍に就任。
綱吉は家綱の養嗣子として江戸城二之丸に入り、同月に家綱が40歳で死去後、内大臣および右近衛大将となり、さらに将軍宣下。桂昌院は、将軍となった息子綱吉の江戸城入りに伴い、江戸城中三之丸に住むことになり、三之丸様と呼ばれて、大奥で絶大な権力を発揮するように。
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