今回はマントノン夫人を取り上げるぞ。ルイ14世の晩年の妻だって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの王族の歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの王室の歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、マントノン夫人について5分でわかるようにまとめた。

1-1、マントノン夫人はフランス西部の生まれ

マントノン夫人は1635年11月、フランス西部ヌーヴェル=アキテーヌ地域のニオールで誕生。フランソワーズ・ドービニェと命名。きょうだいは兄が2人。

マントノン夫人の祖父は、カルヴァン派の勇将でアンリ4世の友人でもあった詩人のアグリッパ・ドービニェ。

しかしその息子でマントノン夫人の父コンスタンは、前妻を刺殺、さらに当時の宰相リシュリュー枢機卿に対するイングランドが関係する陰謀に加担したとして20年の獄中生活中で、なんと看守の娘だった母ジャンヌ・ド・カルディヤックと獄中結婚、マントノン夫人は父の入獄中に監獄で生まれたということ(異説もあり)。

母ジャンヌはカトリック信者だったので、マントノン夫人はカトリックの洗礼を受け、代父母は、ヌイヤン伯爵夫人とロシュフコー公爵(のちに「箴言集(しんげんしゅう)」を著したフランソワ・ド・ラ・ロシュフコーの父)。

1-2、マントノン夫人、マルティニーク島へ

Saint-Pierre (Martinique) avec Montage Pelée.JPG
lb:user:Zinneke - own work,, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

1639年、3歳の時に父コンスタンが60歳で恩赦によって釈放されたために、マントノン夫人は家族と一緒にマルティニーク島へ。父は以前にもマルティニーク島へ行ったことがあり、家族で島北西部のサン=ピエールで暮らすことに。

マントノン夫人は12歳までマルティニーク島で過ごし、のちに「美しきインディアン」という愛称を得ることに。尚、父コンスタンは、公式には近くの小島マリー・ガラント島の知事と称したものの認知されず、給料が出なかったそう。なのでマントノン夫人一家は貧困状態に。その後に父は知事の認定を求めて単身フランスへ帰国。

2年後に母は3人の子どもと共にフランスに帰国したが、父と母、兄の一人が相次いで亡くなり、マントノン夫人は乞食をした話も。

1-3、マントノン夫人、孤児となり伯母のもとへ

 そしてマントノン夫人は伯母のヴィレット夫人の元へ預けられ、ユグノー派として教育を受けたが、カトリックの代父母がクレームをつけて聖ウルスラ会女子修道院でカトリックの教育を受けることに。

マントノン夫人は修道院での生活を嫌ったが、修道女セレストには愛され、修道院で教えられることはすべて教わったそう。

2-1、マントノン夫人、パリのサロンでスカロンと出会い結婚

Paul Scarron 2.jpg
匿名 - スキャナで取り込み, パブリック・ドメイン, リンクによる

そしてマントノン夫人は、代母ヌイヤン伯爵夫人によってパリのサロンで人々に紹介。マントノン夫人は15歳で美人、かなり気の利いたことが言える賢さがあったため、知識階級の人たちに注目され、特に劇作家ポール・スカロンの目に留まったそう。

スカロンは当時40歳でリウマチ性関節炎のために身体障害となり車椅子生活、しかし17世紀を代表する劇作家として活躍中。若く美しいが資産がないマントノン夫人は、もし結婚しなければ一生修道院生活を覚悟しなければいけない身の上で、どうしても修道院生活が嫌だということで、スカロンとの結婚を承諾、1651年に16歳で中年のスカロンと結婚。

「フランス女性の歴史1」アラン・ドゥコー著によれば、スカロンはマントノン夫人との結婚に大満足で、「持参金はないがそのかわりに素晴らしく快活なぱっちりした目と、美しい体、美しい手、渙発な才智を持ってきた」と告白したそう。
スカロンの文学サロンには、当時の知識人、著名人が集まっていたので、マントノン夫人は教養や自信を身に着けただけでなく、洗練されて成長したということ。

しかし1660年、スカロンが亡くなってマントノン夫人が25歳で未亡人となったとき、王太后アンヌ・ドートリッシュはマントノン夫人に年2000リーヴルの年金を増額して与えたが、1666年にアンヌ王太后の没後、ルイ14世が年金を停止、マントノン夫人は困窮。

2-2、マントノン夫人、モンテスパン夫人の子供たちの養育係に

image by PIXTA / 15536679

マントノン夫人は、知り合いのサロンに出入りして、なんでも女中のような仕事をしたが、ポルトガル王妃として輿入れするヌムール公爵令嬢マリー=フランソワーズの女官としてリスボンへ向かう直前、ルイ14世の寵姫モンテスパン侯爵夫人と出会ったことで運が開けたよう。

モンテスパン侯爵夫人はルイ14世にマントノン夫人の年金を復活するよう頼み、マントノン夫人にルイ14世とモンテスパン侯爵夫人の庶子たちの養育係に任命。マントノン夫人は子供たちを愛情をもって養育し、慎み深く仕えたということ。

\次のページで「2-3、マントノン城とマントノン侯爵の称号も手に入れる」を解説!/

2-3、マントノン城とマントノン侯爵の称号も手に入れる

Pierre Mignard - Françoise d'Aubigné, marquise de Maintenon (1694).jpg
ピエール・ミニャール - 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

 マントノン夫人の庶子たちに対する献身的な養育ぶりに対し、ルイ14世は多額の報酬で報いたということで、1674年には、マントノン夫人の称号の元となったマントノンの所領と城を購入。モンテスパン侯爵夫人とルイ14世の庶子たちも、マントノン城で暮らすようになり、1678年にはルイ14世から所領にちなみ、それまでのスカロン未亡人からマントノン侯爵夫人の称号に。

ルイ14世は、「彼女に愛されることは大きな喜びとなるだろう」と言い、マントノン夫人に寵姫となってほしいと打診したということ。ということで、出会ったとき45歳だったマントノン夫人と3歳年下のルイ14世は、1670年代の後半から余暇を一緒に過ごして、政治、信仰、経済などについて論じたりしたそう

2-4、マントノン夫人、王太子妃の女官長に

1680年、ルイ14世はマントノン夫人をルイ王太子の王太子妃マリー・アンヌ・ド・バヴィエールの第二女官長に。

マントノン夫人は、ルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュに対してかなり尊重した態度で接し、大変な気遣いをしたということで、王妃は何年にもわたり、気の強いモンテスパン侯爵夫人からさげすんだ扱いだったために、こんなに良く扱われたことはなかったと表明したということ。

尚、この頃世間をにぎわしたブーランヴィリエ侯爵夫人の毒殺事件に端を発した黒魔術事件に関わったため、モンテスパン侯爵夫人は失寵、最後のお気に入りフォンタンジュ嬢が出産で亡くなり、1683年7月に王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュが急逝、1684年にマントノン夫人は王太子妃の第一女官長に。この女官長という地位は、宮廷での国王の寵姫の得る地位でもあるということ。

3-1、マントノン夫人、ルイ14世と秘密結婚

Louis XIV of France - Musée Antoine-Lécuyer.jpg
Unidentified painter - EuroPicture.de, パブリック・ドメイン, リンクによる

1685年から1686年にかけての冬に、ルイ14世とマントノン夫人は、ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂で、パリ大司教が私的に司って結婚式を挙式したということ。が、身分制社会においては不釣合いとされ、王との結婚を公にして王妃と公的に扱われることはなく貴賎結婚扱いに。結婚証明書は存在しないが、歴史家は結婚を容認したそう。以後、マントノン夫人は30年にわたって晩年の太陽王ルイ14世を支えることに

3-2、マントノン夫人、政治にアドバイスを

そしてマントノン夫人は政治についても影響力を持っていて、ルイ14世に報告する前に大臣たちはその件についてマントノン夫人と話し合ったとか、ルイ14世と大臣が話をしている間、マントノン夫人は部屋の隅で椅子に座って縫物などをしているが、ルイ14世が相談を持ち掛けると、今までの話を一言も聞き漏らしていなかった返事が返ってきて、また内容にも立ち入り根本的に変えさせることもあったなど、ルイ14世のアドバイザー的役割を果たしたということ。

ルイ14世の治世で、マントノン夫人登場前と後といわれるほどの影響力を与えたということで、マントノン夫人は間違いも犯した、1685年のナントの勅令の破棄などの責任はマントノン夫人にあると非難する歴史家も。

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ナントの勅令破棄とは
ナントの勅令(王令)は、1598年、ブルボン朝最初の国王でルイ14世の2代前のアンリ4世が、プロテスタントの信仰を認めたることを布告した王の命令。

この勅令で16世紀に続いたキリスト教の新旧両派のユグノー戦争が終結、フランスの国家的統一を守り、フランスのプロテスタント、主にカルヴァン派は信仰の自由を獲得。しかし、その後の国王ルイ13世はプロテスタント弾圧を再開するなどカトリック寄りに。

ルイ14世は、1661年の親政後に対外侵略戦争のために国力を充実させようとナントの勅令を破棄してプロテスタントの信仰の自由を否定。

このため、数十万のプロテスタントは密かにフランスを逃れ、スイス、イギリス、オランダ、プロイセンなどに亡命、プロテスタントには手工業者や商人が多くいたために、ナントの勅令廃止がフランス商工業の発達が遅れた原因とされるそう。

3-3、マントノン夫人、恵まれない貴族の子女の学校を設立

マントノン夫人は、恵まれない良家の子女のために聖ルイ王立学校を設立。最初はリュエイユで開校、その後ノワジーへ移り、ルイ14世からサンシール(現在のイヴリーヌ県サンシールレコール)を与えられたそう。

マントノン夫人は学校の規則を制定し、あらゆる詳細な内容に立ち会ったということで、若いころの苦労を生かしてか、お世話好きの性格なのか、生まれながらの教師のように生徒たちに親しみやすく、母のように接して影響を与え、また生徒たちの縁談の世話もしたということ。そしてマントノン夫人は、1715年のルイ14世の死を前にして、サンシールで暮らすように。

3-4、ロシアのピョートル大帝、マントノン夫人を訪問

ある朝、マントノン夫人がサンシールで目覚めると、ベッドの足側にある椅子に長身の男性が座っていたのですが、これがフランス訪問中のロシアのピョートル大帝。ピョートルは夫人は何の病気かと尋ねたが、マントノン夫人は「私は年寄りですから」と答えたそう。

ピョートルは、「私は、フランスの持っている注目に値する、あらゆるものに会いにきた」語りったそうで、ピョートルは後に、国王ルイ14世とフランス国家へ多大な奉仕をしたマントノン夫人が助言をしてくれたと語ったそう。

3-5、埋葬後のマントノン夫人

1719年4月、81歳でマントノン夫人は亡くなり、サンシール王立学校の教会内に埋葬されたが、1794年、フランス革命後にこの王立学校は軍事病院に転用、工事中に職人が「王のお気に入り、マントノン侯爵夫人」と刻まれた墓石を発見し、平板は砕かれ棺は壊され、遺体は首に縄をかけて引きずり回されたということ(1806年に学校は廃止に)。

そしてこの場所にはナポレオンが創立したサンシール陸軍士官学校が建てられたが、第二次世界大戦中、用地はドイツ軍に接収、1944年に爆撃で破壊されたということで、戦後、士官学校の屋根裏で復旧作業中に、「マントノン夫人の遺骨」と書かれた箱が発見。

遺骨はヴェルサイユ宮殿の礼拝堂に、その後1969年に再建されたサンシール陸軍士官学校の礼拝堂祭壇前に再び埋葬されたということ。

\次のページで「晩年の太陽王を陰で支えた賢夫人」を解説!/

晩年の太陽王を陰で支えた賢夫人

マントノン夫人は貴族の出身ながら、収監中の父と看守の娘の母の間に監獄内で生まれたという特殊な生い立ちで、その後は中米のマルティニーク島で育ち、両親亡き後は伯母や修道院で教育を受け、貴族の代母に連れられて行ったパリのサロンで25歳も年長のスカロン氏と出会って結婚。

マントノン夫人は、有名劇作家だった夫のサロンでの知的な交友にも対応できる賢さを持ち、またそういう場で教養や社交術を身に着けたということ。そして夫の死後、窮乏して侍女奉公でポルトガルへ行く寸前に、ルイ14世の寵姫のモンテスパン侯爵夫人と出会い、彼女とルイ14世の子供たちの養育を任され、献身的に子供たちを育てるマントノン夫人は晩年のルイ14世の心の支えとなり、ついには秘密の妻としてベルサイユ宮殿で政治にアドバイス、また学校なども設立し恵まれない子女の教育にも尽力するまでに。

しかしあの女たらしのルイ14世が晩年は美貌や若さではなく、教養や知性のある苦労人の年上女性に落ち着きを見出したのは、特筆すべきことではないでしょうか。

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知られざるルイ14世の晩年の賢妻「マントノン夫人」を歴女がわかりやすく解説

今回はマントノン夫人を取り上げるぞ。ルイ14世の晩年の妻だって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの王族の歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの王室の歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、マントノン夫人について5分でわかるようにまとめた。

1-1、マントノン夫人はフランス西部の生まれ

マントノン夫人は1635年11月、フランス西部ヌーヴェル=アキテーヌ地域のニオールで誕生。フランソワーズ・ドービニェと命名。きょうだいは兄が2人。

マントノン夫人の祖父は、カルヴァン派の勇将でアンリ4世の友人でもあった詩人のアグリッパ・ドービニェ。

しかしその息子でマントノン夫人の父コンスタンは、前妻を刺殺、さらに当時の宰相リシュリュー枢機卿に対するイングランドが関係する陰謀に加担したとして20年の獄中生活中で、なんと看守の娘だった母ジャンヌ・ド・カルディヤックと獄中結婚、マントノン夫人は父の入獄中に監獄で生まれたということ(異説もあり)。

母ジャンヌはカトリック信者だったので、マントノン夫人はカトリックの洗礼を受け、代父母は、ヌイヤン伯爵夫人とロシュフコー公爵(のちに「箴言集(しんげんしゅう)」を著したフランソワ・ド・ラ・ロシュフコーの父)。

1-2、マントノン夫人、マルティニーク島へ

1639年、3歳の時に父コンスタンが60歳で恩赦によって釈放されたために、マントノン夫人は家族と一緒にマルティニーク島へ。父は以前にもマルティニーク島へ行ったことがあり、家族で島北西部のサン=ピエールで暮らすことに。

マントノン夫人は12歳までマルティニーク島で過ごし、のちに「美しきインディアン」という愛称を得ることに。尚、父コンスタンは、公式には近くの小島マリー・ガラント島の知事と称したものの認知されず、給料が出なかったそう。なのでマントノン夫人一家は貧困状態に。その後に父は知事の認定を求めて単身フランスへ帰国。

2年後に母は3人の子どもと共にフランスに帰国したが、父と母、兄の一人が相次いで亡くなり、マントノン夫人は乞食をした話も。

1-3、マントノン夫人、孤児となり伯母のもとへ

 そしてマントノン夫人は伯母のヴィレット夫人の元へ預けられ、ユグノー派として教育を受けたが、カトリックの代父母がクレームをつけて聖ウルスラ会女子修道院でカトリックの教育を受けることに。

マントノン夫人は修道院での生活を嫌ったが、修道女セレストには愛され、修道院で教えられることはすべて教わったそう。

2-1、マントノン夫人、パリのサロンでスカロンと出会い結婚

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匿名 – スキャナで取り込み, パブリック・ドメイン, リンクによる

そしてマントノン夫人は、代母ヌイヤン伯爵夫人によってパリのサロンで人々に紹介。マントノン夫人は15歳で美人、かなり気の利いたことが言える賢さがあったため、知識階級の人たちに注目され、特に劇作家ポール・スカロンの目に留まったそう。

スカロンは当時40歳でリウマチ性関節炎のために身体障害となり車椅子生活、しかし17世紀を代表する劇作家として活躍中。若く美しいが資産がないマントノン夫人は、もし結婚しなければ一生修道院生活を覚悟しなければいけない身の上で、どうしても修道院生活が嫌だということで、スカロンとの結婚を承諾、1651年に16歳で中年のスカロンと結婚。

「フランス女性の歴史1」アラン・ドゥコー著によれば、スカロンはマントノン夫人との結婚に大満足で、「持参金はないがそのかわりに素晴らしく快活なぱっちりした目と、美しい体、美しい手、渙発な才智を持ってきた」と告白したそう。
スカロンの文学サロンには、当時の知識人、著名人が集まっていたので、マントノン夫人は教養や自信を身に着けただけでなく、洗練されて成長したということ。

しかし1660年、スカロンが亡くなってマントノン夫人が25歳で未亡人となったとき、王太后アンヌ・ドートリッシュはマントノン夫人に年2000リーヴルの年金を増額して与えたが、1666年にアンヌ王太后の没後、ルイ14世が年金を停止、マントノン夫人は困窮。

2-2、マントノン夫人、モンテスパン夫人の子供たちの養育係に

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マントノン夫人は、知り合いのサロンに出入りして、なんでも女中のような仕事をしたが、ポルトガル王妃として輿入れするヌムール公爵令嬢マリー=フランソワーズの女官としてリスボンへ向かう直前、ルイ14世の寵姫モンテスパン侯爵夫人と出会ったことで運が開けたよう。

モンテスパン侯爵夫人はルイ14世にマントノン夫人の年金を復活するよう頼み、マントノン夫人にルイ14世とモンテスパン侯爵夫人の庶子たちの養育係に任命。マントノン夫人は子供たちを愛情をもって養育し、慎み深く仕えたということ。

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