今日は大坂の陣(おおさかのじん)について勉強していきます。戦国時代、主役の武将は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと移っていくが、最も成功したのは江戸幕府を開いた徳川家康でしょう。

ただ、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した後も豊臣家は存続しており、徳川家が豊臣家を滅亡させたのが大坂の陣です。そこで、今回は大坂の陣について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大坂の陣をわかりやすくまとめた。

豊臣秀吉の後継ぎ問題

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死期を悟った豊臣秀吉の政策

圧倒的な強さを持っていた豊臣秀吉も一人の人間、やはり病には勝てません。晩年、病気が理由で死を意識するようになった秀吉は、息子である豊臣秀頼に後を継がせようと考えていましたが、秀頼は秀吉が57歳で授かった子供であり、秀吉にとって秀頼の未来は気がかりでした。

何しろ秀吉はこれまで独裁政権で政治を進めており、そのため次の世代に後を継がせる体制など整っていなかったのです。そのため、まだ幼い秀頼がすんなりと秀吉の後を引き継ぐのは難しく、秀吉が死去したとなれば各地の有力な大名は秀頼を倒して天下統一を狙ってくるに違いありません。

秀頼が成長するまで秀吉が健在なら問題ないものの、死期を悟った秀吉にはそれが不可能だということも分かっていました。そこで秀吉が考えた策が五大老と五奉行の設置、秀吉の死後に敵となりかねない有力な大名を五大老・五奉行として今のうちに味方に取り込もうとしたのです。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康

五大老と五奉行を設置したことで秀吉の死後も豊臣政権は継続され、そうすれば今はまだ幼い秀頼が将来成人した頃に政権を引き継げるだろう……それが秀吉の狙いでした。1598年に秀吉は死去しますが秀吉の狙いは外れてしまい、五大老・五奉行はすぐ対立するようになっていきます。

特に、好き勝手に振る舞うようになったのが五大老の徳川家康、そしてそんな家康に対して警戒を見せて対立を深めたのが五奉行の石田三成。この対立はやがて五大老・五奉行だけでなく各地の大名を巻き込む大きな戦いに発展していき、それが天下分け目と呼ばれる1600年の関ヶ原の戦いです。

石田三成率いる西軍と徳川家康を大将とする東軍、その結果は東軍の勝利に終わり、家康は3年後の1603年に江戸幕府を開いて天下統一をほぼ手中に収めました。家康の天下統一を「完全」ではなく「ほぼ」と表現したのは、秀吉の死後も豊臣家は依然として力を持っていたからです。

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徳川家と豊臣家

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大幅に領地を減らされた豊臣家

関ヶ原の戦いに勝利した家康は既に豊臣家に対する忠誠心はなく、完全な天下統一を成し遂げることを目標としていたでしょう。しかしそう簡単にはいかず、そもそも本来なら関ヶ原の戦いの時点で秀頼も倒して豊臣家を滅亡させたかったのかもしれませんが、それができなかったことには2つの理由がありました。

1つ目に家康が秀頼の家臣であったこと……主である秀頼と戦おうとすれば家康は裏切り者となってしまい、豊臣家に仕える有力な大名を敵に回してしまいます。2つ目に秀頼が関白の座に就いていたこと……関白とは天皇の補佐に該当する役職ですから、秀頼との対立は朝廷との対立を意味してしまうのです。

そうなると家康は朝敵となってしまい、朝廷から徳川家に対する討伐命令が下るのは明白でしょう。そこで家康は豊臣家の領地を減らそうと画策、関ヶ原の戦いの報酬として活躍した大名らに豊臣家の領地を与え、その結果豊臣家の領地を大幅に減らすことに成功しました。

徳川家康のアピールと決意

家康の策はさらに続きました。豊臣家の領地を減らした家康は、1605年になると早々に征夷大将軍を退いて息子である徳川秀忠に引き継がせ、自らの官位である右大臣も秀忠へと継がせます。これは「今後、江戸幕府と征夷大将軍は徳川家が代々引き継いでいくぞ」と世間にアピールするためでした。

つまり、家康は徳川家が政権を握ることを周囲に知らしめており、そのため豊臣家に対しても徳川家に従うよう要求するようになりますが、一方の秀頼は頑なにこれを拒否。豊臣家に仕える大名もまだまだ多く存在していましたから、秀頼も家康に対して強気な態度を取っていたのでしょう。

もちろん家康もそれは理解しており、そのため豊臣家とは無理に対立せず共存する道を選んでいました。しかし1611年、家康は秀頼と二条城にて会見を行い、その際家康の想像以上に立派に成長した秀頼の姿を見て危機感を抱いたそうです。そして、この時に豊臣家を滅亡させることを決意したと言われています。

方広寺鐘名事件

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梵鐘に刻まれた銘文

家康が豊臣家との対立を決定的にしたのは、1614年の方広寺鐘名事件です。大坂の陣が起こった最大の要因がこの事件であり、激怒した家康は豊臣家と戦うことにしました。事の始まりは秀吉時代の日本一高い大仏を造るための方広寺大仏造立で、この計画は途中地震によって大仏が倒壊したため頓挫してしまいます。

そして関ヶ原の戦い後、家康は豊臣家と協調する姿勢を見せるため、亡き秀吉の遺志を引き継いで方広寺の大仏を再建しようと秀頼に提案しました。秀頼はそんな家康の提案に賛成、こうして大仏再建は進められていきますが、大仏だけでなく一緒に梵鐘(釣鐘)も造ることになったのです。

完成した梵鐘には銘文が刻まれ、そこに刻まれたのは「国家安康(こっかあんこう)」「君臣豊楽(くんしほうらく)」の文字でした。これを見た家康は、「国家安康」は家康の名が引き裂かれたもので、一方の「君臣豊楽」は豊臣の名が綺麗につながっていると激高したのです。

大坂の陣の始まり

家康は朱子学者である林羅山に自身の主張を訴えて刻まれた銘文の解読を依頼、林羅山も家康の主張を認めて銘文に対して徳川家を呪うものであると断定しました。一方の豊臣家は完全な言いがかりだと反論、そのため家康と豊臣家は交渉を行うことになります。

しかし、交渉の場で家康は豊臣家に対して秀吉の側室である淀殿(よどどの)を人質として江戸に向かわせるなどを要求。これに激怒したのが淀殿、秀吉の残した財産で大勢の浪人を雇って徳川家の対決を準備、真田幸村・毛利勝永・後藤又兵衛・長宗我部盛親らを引き入れました。

豊臣家が雇ったとされる浪人の数はおよそ10万人、一方の家康も各地の大名に対して豊臣家征伐のための出兵を命令、とうとう徳川家と豊臣家の戦いの時がやってきたのです。それは1614年の冬のこと、この戦いが大坂の陣の始まりであり、最初に起こった戦いを大坂冬の陣と呼びます。

大坂冬の陣

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難攻不落の大坂城

大坂の陣の最初の戦いである1614年の大坂冬の陣、豊臣家征伐を命じた徳川家は全国の大名を大坂へと向かわせます。一方の豊臣家も有力な武将を味方につけていましたが、豊臣家についていたのは歴戦の浪人や元大名であり、現状豊臣家に仕えている大名はいませんでした。

そのためいくら強くても所詮はバラバラ、統率が取れず目的ですら各々で異なる豊臣軍は統率の取れた徳川軍に比べて明らかに不利でしたが、それでも豊臣軍には絶対的な自信がありました。なぜなら豊臣軍には豊臣家の最大の遺産となる大坂城の存在があったからです。

大坂城の造りはまさに自然の要塞で、城の北と東西は川に囲まれているため攻め込めず、唯一攻め込める南も沼地となっていました。そのため、籠城戦にさえ持ちこめば徳川軍の軍勢程度では落とせないだろうと考えていたのです。実際、籠城戦は攻める側が不利になる戦法な上、家康も年齢的に高齢、豊臣家には充分な勝算がありました。

真田丸の戦い

大坂に到着した徳川軍は豊臣軍の持つ砦を次々と落としていき、20万人もの兵で大坂城の包囲に成功します。しかし、ここで活躍を見せたのが豊臣軍の真田幸村、大坂城の南に真田丸という巨大な砦を構えていた真田幸村の反撃により、徳川軍は退却を余儀なくされました。

真田幸村が活躍したこの戦いは真田丸の戦いと呼ばれるもので、大坂冬の陣のメインの戦いとも言われています。しかしさすがは関ヶ原の戦いの勝者である家康、すぐに戦法を切り替えて夜中に大砲や鉄砲を打ちまくる作戦を展開すると、大坂城の天守閣に大砲を命中させました。

最も、当時の大砲の精度を考えればそれは偶然の命中でしょうが、ともあれ砲撃を受けた大坂城では淀殿がパニックを起こします。そのため豊臣軍は態度を軟化、秀頼の身の安全の保証や大坂城の土地の堀の埋立てなどを条件に徳川軍と講和、こうして大坂冬の陣は終息したのでした。

\次のページで「大坂夏の陣」を解説!/

大坂夏の陣

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講和破棄による再びの戦い

講和で決着のついた大坂冬の陣、しかし家康は豊臣家を滅亡させることを諦めておらず、そのため再び戦うためのきっかけを欲しがっていました。何しろ講和によって豊臣家は大坂城の堀を埋め立てており、再び戦えば大坂冬の陣のような苦戦を強いられない自信があったからです。

家康は未だ浪人を雇う豊臣家に対して抗議、浪人の解雇を求めました。さらに家康は豊臣家に対して伊勢か大和への転封を要求、転封とは言わば国替えのようなもので、領地を他の地へ移すことを意味します。当然豊臣家はこれを拒否、徳川家はそんな豊臣家の反発を理由に講和を破棄して再び戦いを仕掛けたのでした。

それは1615年のことで大坂夏の陣と呼ばれる戦いで、1614年の大坂冬の陣・1615年の大坂夏の陣をあわせて大坂の陣と呼びます。大坂夏の陣での兵力は徳川軍が15万人、豊臣軍が5万人とされており、堀の埋め立てによって籠城戦もできないことから開戦時から豊臣軍の敗北は明らかでした。

豊臣家の滅亡

15万人の徳川軍対5万人の豊臣軍、まさに多勢に無勢である状況に豊臣軍は苦戦。大坂冬の陣で活躍した真田幸村をはじめとする強力な浪人も次々と戦死、難攻不落とされた大坂城もついに崩壊の危機に陥り、さらに裏切りもあったことから大坂城は燃えて落城しました。

もはやこれまでと敗北を悟った秀頼は、淀殿と共にまるで焼け落ちる大坂城の後を追うように自害したそうです。こうして大坂夏の陣にて敗北した豊臣家、秀頼の息子である豊臣国松は生き残りましたが、六条河原で斬首刑が執行され、これで豊臣家は滅亡してしまいました。

1614年の大坂冬の陣と1615年の大坂夏の陣……すなわち大坂の陣にて勝利した家康は、豊臣家を滅ぼして完全な天下統一を成し遂げたのです。また徳川家に反発する力を持つ大名もいなくなったことから、これまで100年以上続いてきた戦国時代もとうとう終わりを迎えたのでした。

「大坂冬の陣→大坂夏の陣」の順に起こっている

大坂の陣は、1614年の大坂冬の陣と1615年の大坂夏の陣をあわせた呼び方だと知っておきましょう。また、春夏秋冬の流れから戦いの順序を間違えやすく、先に大坂夏の陣が起こったと思ってしまいがちです。

しかし実際には大坂冬の陣が先に起こっており、戦いが起こった年も異なるため間違いないように注意してください。もちろん、戦いの要因となった方広寺鐘名事件もしっかり覚えておきましょう。

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日本史歴史江戸時代

徳川家と豊臣家の決着をつける戦い「大坂の陣」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は大坂の陣(おおさかのじん)について勉強していきます。戦国時代、主役の武将は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと移っていくが、最も成功したのは江戸幕府を開いた徳川家康でしょう。

ただ、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した後も豊臣家は存続しており、徳川家が豊臣家を滅亡させたのが大坂の陣です。そこで、今回は大坂の陣について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大坂の陣をわかりやすくまとめた。

豊臣秀吉の後継ぎ問題

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死期を悟った豊臣秀吉の政策

圧倒的な強さを持っていた豊臣秀吉も一人の人間、やはり病には勝てません。晩年、病気が理由で死を意識するようになった秀吉は、息子である豊臣秀頼に後を継がせようと考えていましたが、秀頼は秀吉が57歳で授かった子供であり、秀吉にとって秀頼の未来は気がかりでした。

何しろ秀吉はこれまで独裁政権で政治を進めており、そのため次の世代に後を継がせる体制など整っていなかったのです。そのため、まだ幼い秀頼がすんなりと秀吉の後を引き継ぐのは難しく、秀吉が死去したとなれば各地の有力な大名は秀頼を倒して天下統一を狙ってくるに違いありません。

秀頼が成長するまで秀吉が健在なら問題ないものの、死期を悟った秀吉にはそれが不可能だということも分かっていました。そこで秀吉が考えた策が五大老と五奉行の設置、秀吉の死後に敵となりかねない有力な大名を五大老・五奉行として今のうちに味方に取り込もうとしたのです。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康

五大老と五奉行を設置したことで秀吉の死後も豊臣政権は継続され、そうすれば今はまだ幼い秀頼が将来成人した頃に政権を引き継げるだろう……それが秀吉の狙いでした。1598年に秀吉は死去しますが秀吉の狙いは外れてしまい、五大老・五奉行はすぐ対立するようになっていきます。

特に、好き勝手に振る舞うようになったのが五大老の徳川家康、そしてそんな家康に対して警戒を見せて対立を深めたのが五奉行の石田三成。この対立はやがて五大老・五奉行だけでなく各地の大名を巻き込む大きな戦いに発展していき、それが天下分け目と呼ばれる1600年の関ヶ原の戦いです。

石田三成率いる西軍と徳川家康を大将とする東軍、その結果は東軍の勝利に終わり、家康は3年後の1603年に江戸幕府を開いて天下統一をほぼ手中に収めました。家康の天下統一を「完全」ではなく「ほぼ」と表現したのは、秀吉の死後も豊臣家は依然として力を持っていたからです。

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