世界史

イギリスに繁栄をもたらした君主「ヴィクトリア女王」を歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回はヴィクトリア女王を取り上げるぞ。80歳まで現役の女王だったんだっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの王族には目がないあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの王室の歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ヴィクトリア女王について5分でわかるようにまとめた。

1-1、ヴィクトリア女王はジョージ3世の孫娘

ヴィクトリアは、1819年5月24日、ロンドンのケンジントン宮殿で誕生。
父はジョージ3世の4男ケント公爵エドワードで、母はドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ家の公女ヴィクトリア。

洗礼名はアレクサンドリナ・ヴィクトリア、子供の頃はドリーナと呼ばれたが、成人後に自分でヴィクトリアを選んだということ。

1-2、ヴィクトリア誕生前のロイヤル事情

image by PIXTA / 1817955

ヴィクトリア女王の祖父ジョージ3世には7人の息子たちがいて、長男のジョージ皇太子(後のジョージ4世)、その一人娘のシャーロット王女が後継ぎだったが、シャーロット王女は結婚後、出産時に急死し直系は断絶、皇太子の弟たちの出番が回ってきたのですね。

その弟たちはすでに40歳越え、しかも父のジョージ3世が軍隊に放り込んで放ったらかし状態で成人、全員が愛人と自堕落な暮らしを続けていて、庶子が大勢いる人もいたが、バタバタと愛人と別れてヨーロッパの王女と結婚。

ヴィクトリア女王の父ケント公もご同様、借金まみれでベルギーやドイツ諸国を転々とした暮らしだったが、2人の連れ子のいるドイツのライニンゲン公の未亡人ヴィクトリアと結婚、妊娠がわかると必死でイギリスへ帰国してヴィクトリアが誕生、しかし父ケント公はヴィクトリア出生後8か月であっけなく肺炎で死去。

ということで、ヴィクトリアが生まれたときのイギリス王位継承順位は、摂政王太子ジョージ、そして伯父たちヨーク公フレデリック、クラレンス公ウィリアム(後の英国王ウィリアム4世)と父ケント公に次ぐ5位、伯父たちに子供が生まれるとヴィクトリアの王位継承は遠ざかるというけっこう不安定な立場。

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へええ、現在のロイヤルファミリーとイメージ違うが、いろいろ事情があったんだな

1-3、ヴィクトリア、母の弟の援助を受けて育つ

ヴィクトリアの母ケント公妃はドイツ人で英語がわからず、また夫ケント公が残した莫大な借金を背負わされたので、ヴィクトリアを連れて故国へ帰ろうとしたが、ケント公妃の実弟で亡きシャーロット王女の夫、1831年にベルギー王に即位するまで英国に滞在していたレオポルドが、姉とヴィクトリアを物心共に援助したため、ケント公妃はケンジントン宮殿で、ケント公の友人だった家令コンロイと家庭教師とともに必死でヴィクトリアを守って育てたそう。

レオポルド公はサックス・コーバーグ・ゴータ家の出身で、ヴィクトリアは姪、後の夫君アルバート公も甥になるため、アルバート公をヴィクトリアに紹介、その後も手紙のやり取りなどでふたりに親身にアドバイスしたり、腹心をヴィクトリアの側近にするなど親代わりになった人。

そして伯父のクラレンス公には子供が生まれてもすぐ亡くなったため、ヴィクトリアが王位継承1位の暫定王位継承者に決定。

ヴィクトリアが次の女王になると知ったのは11歳のときで、ひとりになると大泣きしたということ。高齢の伯父たち、皇太子ジョージ4世、ウィリアム4世の短い在位のあと、ヴィクトリアが女王になることに。

2-1、ヴィクトリア、18歳で女王に即位

Coronation portrait of Queen Victoria - Hayter 1838.jpg
ジョージ・ハイターRoyal Collection RCIN 401213; image; previous upload was here, パブリック・ドメイン, リンクによる

1837年6月、伯父ウィリアム4世の崩御で、18歳のヴィクトリアが18歳で女王に即位。ヴィクトリアは、即位の日に母の同席なしで引見。そしてバッキンガム宮殿に移り住むと、それまでは母と同じ部屋だったが、干渉を避けるために母の部屋を自分の部屋から遠ざけたそう。家令サー・ジョン・コンロイには今後の目通りは一切なしと通達。母とコンロイはヴィクトリアの摂政として宮廷を牛耳ろうとしていたが、ヴィクトリアは家庭教師のレーツェン、そしてベルギー王のレオポルド叔父が助言役として送り込んだシュトックマー男爵を相談役に。

そしてヴィクトリアは即位後は、首相のメルバーン卿を相談役として、毎日6時間は一緒に過ごすなど父親のごとく頼り切る関係に。

2-2、ヴィクトリア女王、従弟と結婚

お年頃のヴィクトリアは、女王としての公務を覚える一方で、オランダの王子たちとか、イギリスの父方の従兄らと次々お見合いしましたが、母の弟のレオポルド叔父が紹介した従弟のザクセン・コ―ブルク・ゴータ家のハンサムなアルバート王子に一目惚れ、アルバート王子もこの縁談を逃せば軍隊に入る道しかない事情もあり控えめながら必死だったよう。そして身分が上のヴィクトリアの方から、「貴方が私の(結婚の)望みを叶えてくれたらどんなに幸せでしょう」とプロポーズして、21歳どうしのカップルが誕生。

尚、ヴィクトリアのウェディングドレスが白だったことで、その後ウエディングドレスの定番に。

2-3、愛のある非常に恵まれた結婚

アルバート公の父は浮気症で、アルバートと兄エルンストが子供の頃に母と離婚という崩壊家庭の出身、ヴィクトリアもまた8か月で父を亡くし、母や家庭教師や執事らに囲まれた育ちのため、自分たちは秘密のない家庭にと約束しあったということ。またヴィクトリアの伯父たちやそれ以前のハノーファー王朝の人々は、愛人も多くかなりふしだらな人ばかりで、家族愛重視は中流家庭の価値観だったが、ヴィクトリアとアルバート夫妻は肖像画も家族一緒のものを描かせ、その頃発明された写真でも家族写真を撮らせて国民の模範となる王室一家をアピール。

また、この時代はイギリスが繁栄していたこともあって、一般家庭にも10数人の子供がいて当たり前の時代に。

2-4、有能なアルバート公

アルバート公は最初こそ重要書類を見せてもらえなかったが、ヴィクトリアが数年おきに次々と妊娠、出産したため、政務の書類や首相の説明などをかわりに聞く、また首相たちの方でもアルバート公の有能さに気が付き、ヴィクトリアより頼りにするように。それにヴィクトリアは音楽や芸術などもアルバート公の影響で高尚な趣味に。

そして1851年に開催された第1回ロンドン万国博覧会はアルバート公が仕切り、会場のハイド・パークにはデヴォンシャー公爵所有のチャッツワース・ハウスにあった温室をモデルにした30万枚のガラスで覆われた巨大な水晶宮が大評判となり、世界30カ国以上が参加してだ成功をおさめたということ。

アルバート公はまたバッキンガム宮殿、ウィンザー城などの意味不明の無駄な経費を見直して莫大な黒字を出し、ワイト島のオズボーン・ハウスやバルモラル城などを購入。

3、ヴィクトリア朝時代の出来事

19世紀後半はヴィクトリア朝と言われ、イギリスの「世界の工場」といわれる工業力が他国を圧し、強大な海軍力を背景に、パックス=ブリタニカと言われる安定した時代。そして1877年、インドを併合してイギリスのインド植民地支配を確立、広大な植民地支配を行って大英帝国が繁栄することに。

また政治の分野では、保守党と自由党によって2大政党政治が確立し、1867年には都市労働者に選挙権を拡大するための第2回選挙法改正が議会を通過、そして1884年の第3回選挙法改正によって、農業労働者や鉱山労働者にも選挙権が拡大、事実上の男性普通選挙制が実現。

4-1、ヴィクトリア女王の子供たち、孫たち

4男5女がすべて成人し、それぞれヨーロッパの王族と結婚してヴィクトリア女王はヨーロッパの祖母と言われるように。

4-2、長女ヴィクトリア

1840年11月21日生まれ。愛称ヴィッキー。最初の子供で最も頭がよく、男の子だったら素晴らしい君主になったと言われるほどで父アルバート公のお気に入り。9歳年上のプロイセンのフリードリヒ王子(フリードリヒ3世)と16歳で結婚して4男4女が生まれ、長男がヴィルヘルム皇帝。母ヴィクトリアとの頻繁な手紙のやり取りが貴重な史料に。

4-3、長男エドワード・アルバート

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John Chancellor (active 1860s-died 1916) – 投稿者自身による作品 Peter symonds, 14 April 2008, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

1841年11月9日生まれ、後のエドワード7世。愛称バーティは小さい頃から姉のヴィクトリアに較べて出来が悪いと両親が嘆いた子。1860年11月通っていたケンブリッジ大学で問題を起こし、体調の悪かった父アルバートがケンブリッジへ行って説諭した後に病気が悪化して12月に42歳で亡くなったため、ヴィクトリアはバーティのせいだと、公務から遠ざけるように。

デンマーク王女で美貌の誉れ高かったアレクサンドラと結婚、3男3女(一人夭折)を儲けたが、愛人関係も派手だったということ。

4-4、次女アリス

1843年4月25日生まれ。1860年7月にヘッセン大公国のルートヴィヒ大公子と結婚したが、父アルバート公の喪中だったため、真っ黒な喪服でお祝いムードもなかった結婚式として有名に。

1878年、ナイチンゲールの弟子でもあったアリスは、ジフテリアにかかった子供たちの看病中に感染して、末娘とともに35歳で死去。残された子供たちは祖母のヴィクトリア女王が育てたが、4女アリックスが後にロシア皇太子(ニコライ2世)と結婚。また、長女ヴィクトリアの娘が現エリザベス女王の夫君フィリップ殿下の母アリス

4-5、次男アルフレッド

1844年8月6日生まれ。海軍に入隊し、1867年から翌年にかけて世界一周航海の途中に明治維新直後の日本に立ち寄ったときはエジンバラ公だったということ。

ロシア皇帝アレクサンドル2世の娘マリアと結婚。マリアは皇帝の娘で大公女の称号を持つために、義理の姉アレクサンドラ皇太子妃がデンマーク王女に過ぎないので、公式行事では自分が上席だと主張したことで争いに。そしてアルフレッドは、伯父エルンストの後継としてサックス・コーバーグ・ゴータ公を継承。

4-6、3女ヘレナ

1846年5月25日生まれ。デンマーク王族のアウグステンブルク公の3男クリスティアンと結婚。ヴィクトリア女王は娘を側に置きたいため、所領を持たない公子を歓迎して殿下の称号を与えてウィンザー城近郊に住まわせることに。

4-7、4女ルイ―ズ

1848年3月18日生まれ。外国の王族との縁談もあったが、ヴィクトリア女王は国内の貴族にするといい、スコットランドのアーガイル公爵の後継者、ローン侯爵ジョンが選ばれて結婚。ローン侯爵はカナダ総督となり、ルイ―ズ王女はカナダで人気があったそう。

4-8、3男アーサー

1850年5月1日生まれ。士官学校に入り陸軍砲兵隊に入隊し、その後カナダ総督に就任。コノート・ストラサーン公爵とサセックス伯爵に。姉のヴィクトリアの結婚式でドイツ訪問したときに、プロイセン王族のルイーゼ・マルガレーテ王女と恋に落ちて結婚。

また明治天皇へのガーター勲章授与の他、明治、大正時代に4度の来日経験あり

4-9、4男レオポルド

1853年4月7日生まれ。オルバニー公爵、クラレンス伯爵、アークロー男爵。ヴィクトリアはレオポルド出産時にクロロフォルム麻酔で無痛分娩を行ったことで有名。またレオポルドはヴィクトリア女王に起因する最初の血友病患者で、ドイツのヴァルデック・ピルモント侯ゲオルク・ヴィクトルの娘でオランダ王妃エンマの妹ヘレーネと結婚したが、30歳で死去。

大変優秀な人だったが、ヴィクトリアは血友病持ちで見ているのがつらいからと、イタリアへ療養へ行かせたそう。死後に生まれた息子チャールズ・エドワードの息子の長女が現スウェーデン国王カール16世グスタフの母

4-10、5女ベアトリス

1857年4月14日生まれ。父アルバート公が亡くなったときは3歳で、ベイビーと呼ばれていたそう。子供の頃はイギリスに亡命していたナポレオン3世の息子と縁談があったが、ズールー戦争で戦死したため実現せず。姉アリスの娘の結婚式で、新郎の弟バッテンベルク公子ハインリヒ・モーリッツと出会って結婚、3男1女が誕生。娘エナは、スペイン王アルフォンソ13世に見初められて王妃となったが、スペイン王家に血友病が遺伝して夫婦仲も破綻

ベアトリスは母ヴィクトリアの秘書のような役目だったが、ヴィクトリアの遺言で、すべて燃やすように言われた膨大な日記の必要なところだけ書き写して処分したということ。

5-1、ヴィクトリア女王の逸話

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ハインリヒ・フォン・アンゲリThe Royal Collection, パブリック・ドメイン, リンクによる

ヴィクトリアは小柄で身長145cm程度だが、体重は結婚前に56kgもあり、出産を重ねる度にどんどん体重が増え続けて、縦と横が同じと言われたそう。また非常に短気で怒りっぽく、自分の意見が通らないと済まないタイプだったよう。色々な逸話をご紹介しますね。

5-2、生涯にわたって日記を書いた

ヴィクトリアは筆まめな人で、1832年に13歳でイギリス国内の旅行へ行く前に母ケント公妃からプレゼントされて書き始め、亡くなる直前まで書いた日記が全部で141巻あったが、焼き捨てるようにという遺言で末娘のベアトリス王女が一部書き写して残して処分したということ。

また長女ヴィッキー、異父姉のフェオドラ、叔父レオポルドらへの手紙が多く残されていて貴重な史料に。

5-3、アルバートの思い出に浸る

アルバート公没後のヴィクトリアの悲しみは深く、その後ずっと喪服で過ごし10年以上、ワイト島のオズボーン・ハウスやスコットランドのバルモラル城などで引きこもって隠遁生活を。

ほとんどロンドンの公の場に出なくなり、まわりにも喪服の着用を命じ、アルバートの銅像を建て、ロイヤルアルバートホール、ヴィクトリア&アルバート美術館など、アルバートに捧げた記念館をあちこちに作り、霊廟の建設、弔慰アルバム作成などに情熱を注ぐことに。

5-4、ジョン・ブラウンとの再婚の噂

最愛のアルバート公の没後、ヴィクトリアはスコットランド人の馬丁と昵懇となって再婚したという噂も。

引きこもってばかりいると身体に悪いという侍医の薦めでヴィクトリアは乗馬や馬車で出かけるようになり、バルモラル城でアルバートの馬係だったスコットランド人ジョン・ブラウンと関わる機会が増えて頼りにするように。ブラウンは事実上ヴィクトリアの側近となり、王族や首相もブラウンを通さないとヴィクトリアに会えなかったそう。この女王とブラウンとの関係をマスコミが面白半分に取り上げて女王陛下は「ミセス・ブラウン」と呼ばれたことも。

ヴィクトリアはアルバート公の銅像をあちこちに建てたように、ジョン・ブラウンが亡くなった後バルモラル城に銅像も作らせたそう。ジョン・ブラウンは素朴な男性だったということだが、霊媒としてアルバート公の霊を呼び出していたという説もあり、また現エリザベス女王の母のクィーンマザーが、ウィンザー城でヴィクトリア女王とジョン・ブラウンの結婚証明書を発見したが燃やしてしまったと話した話もあるそう。

尚、ヴィクトリア女王の死後、家族はジョン・ブラウン関係のものは破棄してしまったということ。またヴィクトリアは晩年、インド人侍従のムンシーを側近くに置いて可愛がったが、ヴィクトリアの死後、家族はムンシーをインドへ追放したそう。

5-5、女王より皇帝

ヴィクトリアは次男アルフレッドの妃のロシア大公女マリアが皇帝の娘であるため、皇太子妃よりも上席だといざこざを起こしたことや、娘のヴィッキーが夫の皇太子フリードリヒが皇帝になると、皇后となって自分よりも上位になると考え、インド皇帝位を欲しがったそう。

そして1876年1月、ディズレーリ首相に議会との折衝にあたらせて、4月に王室称号法により「インド女帝」の称号を公式に獲得、日記に素直に喜びを書いたということ。

尚、幕末の日本でも日本駐留イギリス外交官アーネスト・サトウにより、女王が天皇の曾孫の称号で対等ではないため、イギリス領インド帝国の主としてヴィクトリア女王を皇帝とし、日本の天皇も英語でエンペラーと訳されることに。

5-6、子孫に血友病の遺伝をもたらした

ヴィクトリアとアルバートの子孫には血友病が多く発症したが、先祖には血友病患者が見当たらないために突然変異説が。ヴィクトリアの4男レオポルド、そして孫の嫁いだスペイン王室やドイツ帝室にも血友病は持ち込まれ、孫たちが夭折。

特にお気に入りの孫のアリックスが産んだロシア皇太子アレクセイが血友病患者であったため、ラスプーチンに頼ったりと悲劇を生んだのは有名。

5-7、兵士へのチョコレート缶

「ヴィクトリア女王」スタンリー・ワイントラウブ著には、ボーア戦争のとき、ヴィクトリアが考え王室から戦場の兵士たちへのクリスマスの慰問品が贈られることに。そしてその恩賜のチョコレートの詰まった缶を雑嚢に入れたところ、敵の弾をはじいて命が助かった兵士がいて評判になり、兵士たちは誰もが缶を欲しがり、また手に入れた兵士ももったいないとチョコレートを食べず故郷へ持って帰ったそう。

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へええ、日本でも千人針とか聞いたことあるが、イギリスはチョコレート缶なんだな

6、ヴィクトリアの最期

1901年1月16日、ヴィクトリアはオズボーン・ハウスでベッドから起き上がれなくなり、侍医たちは崩御が近いと判断、1月18日にヴィクトリアの子らに召集が。駆け付けた孫のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、息子のエドワード皇太子ら大勢の子や孫たちに見守られて、1月22日に81歳で崩御。

イギリスでは64年ぶりの君主の大葬になったが、上から下まで手順手続きに通じているものが皆無だったそう。

ヨーロッパの祖母と言われ、イギリスの繁栄した時代の象徴的存在だった

ヴィクトリア女王は、ハノーヴァー朝の直系が断絶後に老王が続いた後、若々しく希望溢れる18歳で即位。そして同い年でイケメン、しかも有能な従弟でもあるアルバート公と結婚、不安定だった子供時代とは違う、子沢山でしっかりしたイギリス国民の模範になる家庭を築きました。

またアルバートは政治、王室経済にもきちんと対応、子供たちの結婚相手も選んでと有能そのものだったため、アルバート亡き後のヴィクトリアはどうしていいかわからなかったかも。そしてヴィクトリアの63年の治世は、イギリスは産業革命が起こり、蒸気機関車や機械が発明され、植民地に領土は拡大しと繁栄、子孫たちもヨーロッパ中の王族に広がって様々な人生を歩んだということ。

ヴィクトリアは1901年、20世紀最初の年に亡くなりましたが、まさに19世紀最後の女王と言えるのでは。

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