
名を改め関東管領へ
小田原城へ攻撃を仕掛けていくも、堅城と名高い小田原城を落城させることが出来ず長期的な戦となってしまったことで味方していた大名達が陣を引き払ってしまい撤退することになります。氏康との戦を終え越後国へ帰参すると、憲政からの要請もあった家督相続と関東管領を引き継ぎ名を上杉政虎と名乗っていきました。
謙信が関東管領を引き継ぎしていた頃に信玄は信濃国へ侵攻しており謙信も一万八千の兵を率いて、妻女山に布陣していきます。信玄は前線拠点として海津城を築き上げていて越後国を脅かす存在となっていました。謙信が妻女山へ着陣していくと信玄が茶臼山で着陣。
激戦となった八幡原

一万八千の内、五千は善光寺に配置させ海津城を包囲していきましたが何故か謙信は攻撃をすることなく膠着状態が、続いていき武田家の重臣達が決戦を主張し始めていき信玄は山本勘助と馬場信房に策を立案するよう命じていきました。二人は策を考え知恵を出し合っていき軍を二手に分けて一隊は謙信が居る妻女山を攻撃し八幡原まで追い込み麓に潜ませている一隊と挟撃させる啄木鳥戦法を実行させていきます。
1563年9月9日の深夜に高坂昌信と信房が妻女山を目指して侵攻を始め、信玄率いる本隊は八幡原へ布陣していきました。この時の深夜から霧が深く進むのに手間取っていましたが、作戦通り配置に着いていき翌日を向かえていきます。しかし謙信はこれを読んでいて先に八幡原へ布陣しており霧が晴れたと同時に柿崎景家を中心に武田軍へ突撃していき、武田軍は状況が理解出来ないまま討ち取られていき武田軍は重臣を多く討ち取られ本陣も壊滅状態となってしまいました。
引き分けで終えた八幡原
有利な状況だった上杉軍でしたが、武田軍の別働隊が八幡原へ到着したことで挟撃される形となり上杉軍は不利な状況へとなっていきました。これ以上兵を失う必要は無いと判断した謙信は善光寺へと撤退していき敗走。これによって前半戦は謙信が勝利し後半戦は信玄の勝利ということで合戦自体は引き分けで終え両軍共に八幡原から兵を引き払い八幡原の戦いが終わります。
関東付近の大名達は、謙信と氏康の間を行ったり来たりしていて安定しない状況でした。特に謙信が二度に渡り攻め込んでいった唐沢山城は、落城させることが出来きませんでしたが結城氏などを降伏させ友好関係を築いていた佐竹氏の意見に従い唐沢山城主の佐野氏は降伏していきます。
関東を大部分を制圧していくと氏康率いる北条氏との戦いに集中していき、里見氏の救援するべく北条方の臼井城を攻めていきました。しかし臼井城攻めに失敗した謙信を見た関東の大名達は謙信から離れていきます。
越中進出と氏康と同盟
義元がこの世を去り、今川権力が弱まっていたことで駿河国への侵攻を始めた信玄を見た氏康は断交を決意。謙信との和睦を願い出るようになっていくと当初は、同盟を交わすつもりがなかった謙信でした。
しかし1568年に室町幕府将軍が変わり以前同様の待遇で扱われていき関東出兵と越中へ進出を始めていき、一向一揆衆や武田軍との交戦に明け暮れていきます。これにより謙信の家臣団は疲弊し始め、不満の声が高まっていたともあり謙信は氏康との和睦成立に向けて積極的に動いていきました。
無事に氏康との同盟を交わしたことで越中国へ集中出来ると思われましたが、関東諸将が同盟を良しと思わず信玄と通じていき状況が大きく好転せず佐竹氏や里見氏といった大名と争うことになっていきます。
氏康の死で同盟が破棄
1571年になると氏康が亡くなり、跡目を継いだ北条氏政が謙信との同盟を破棄していき信玄と同盟を交わしていきました。これに対して謙信は越中国の一揆衆を調略によって制すると、関東制圧に乗り出していきます。
しかし信玄の策略によって越中国の一揆衆が、謙信に牙を向き新庄城に兵を集め富山城を攻め立てていきました。一揆衆の攻撃が激しく一旦退却するも野戦に持ち込み圧勝し諸城を攻略し一時的に一揆衆の力を弱めていきます。
この時に織田信長と同盟を交わしていき、牽制役を担ってもらうことになっていきました。1575年になると信玄が上洛中に病で没すると武田氏の影響力が弱まり謙信は越中平定を本格的に目指していくことになります。
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