
二度目の謀反
栃尾城で見事に敵を撃退し謙信の力が認められていったことでしょう。しかし栃尾城の戦いで大敗した秀忠は再び晴景に対して謀反を起こしていき春日山城に攻め込んでいきました。この時には主君だった晴景と謙信そして景康・景房も春日山城に居て城内は混乱していて兵が纏まっていません。
謀反によってあっけなく城内の兵が倒されていき、景康と景房が殺害されてしまい晴景は何とか逃げ延び謙信は畳の下に隠れ九死に一生を得ていきます。統率力が無い晴景に代わって軍を率いていて秀忠が立て籠っていた黒滝城を包囲していきました。要害と呼ばれた黒滝城でしたが軍指揮を上手く機能させた謙信に分があり、城を開城させ秀忠を降伏させていきます。
しかし1546年に三度目の長尾家の反発を行った秀忠。これを見た謙信は再び黒滝城を包囲し今回ばかりは見逃すことも出来ないといい一族と共々滅ぼしていきました。
長尾家主君交代
晴景に代わって戦場で軍の指揮を執っていた謙信に越後の国人衆が付いていき、晴景から離れ謙信の下に臣従していくようになります。こうした動きをしていったことで、謙信は晴景との関係が悪化していき国人衆は謙信を守護代の座に就かせようとしていきました。
晴景派に味方する者もいましたが、謙信派を擁立している将が多数いたため晴景は謙信を養子にして家督を相続させていきます。更に晴景と謙信の調停役を担っていた越後守護の定実が亡くなり後継ぎが居なかったことで室町幕府から代理で守護になるようにと命じられていきました。
謙信が事実上の越後守護となっていきましたが、晴景派だった上田長尾氏が反発していき謙信に戦いを挑んでいきます。戦を仕掛ける前に政景へ加担される恐れのあった蘆名氏への予防線を張り栃木城を攻撃していきましたが、落城するに至らず政景が守る坂戸城に攻撃を切り替えていきました。坂戸城へ総攻撃を仕掛け勝利を収めた謙信。
関東管領が越後へ逃げ込む
家督の争いごとが一段落したところでしたが、関東管領だった上杉憲政が謙信を頼り落ち延びてきました。憲政は北条氏と覇権争いをしていた状態で、激しい攻防戦が行われていて憲政を御館で保護をしていきます。この保護によって北条氏と対立することになっていき、重臣だった本庄重長を筆頭に関東へ出兵させ上杉軍が守る上野沼田城へ援軍として到着し攻め込んできた北条軍を撃退していきました。
更に北条軍の手に落ちてしまっていた城を奪還し北条軍の侵攻を阻止していきます。この戦功が称えられ従五位下に叙任されていきました。
宿敵となる武田信玄が立ちはだかる
官職を授かった直後に甲斐国の武田信玄が信濃国へ侵攻を始めていき小笠原氏が謙信に救援を求めてやってきました。また同国の葛尾城主だった村上義清も信玄に敗れ謙信に援軍要請をしていき義清に対して援軍を与えていきます。謙信から五千兵を与えられて奪取されてしまった葛尾城を攻撃し、武田軍を撃退していき葛尾城を奪還していきました。
勢いづいていた義清でしたが、信玄自らが軍を率いて葛尾城など諸城を攻略され義清がた立てもっていた塩田城まで攻めていくと義清は塩田城を捨て謙信の下へ逃げ込んでいきます。これを受けて謙信は信玄の侵攻を阻止するために、兵を率いて北信濃へ出陣し布施で武田軍を破り義清の支城だった荒砥城を攻め落とし青柳城を攻めていきました。
信玄も謙信の勢いを止めるために、荒砥城を奇襲し長尾軍の退路を断っていきます。これにより謙信は八幡まで軍を下げ、信玄が居る塩田城へ攻撃を仕掛けていきますが信玄は直接戦うことを望んでいたなかったため戦果を挙げられたと判断した謙信は越後国まで兵を引き揚げていきました。
関東管領へ就任
更科八幡で信玄と対峙していき引き分けという形で終えた戦いでしたが、これ以降も謙信は信玄と戦っていきます。また上洛を果たしていくことで関東管領にまで登りつめていきました。
官位を授かり犀川で戦う
信玄と戦った翌年の天文22年1553年に初めて上洛を果たし、室町幕府の将軍から剣と天盃を下賜され敵を討伐せよとの勅命を受けていきました。この勅命の敵というのは、正確に誰を指していたのかは不明ですが同勢力の敵対大名を考えると信玄若しくは北条氏康を指していたと思われます。
そして1554年に家臣だった北条高広が信玄に通じる形で、謙信から離反し北条城で籠城していきました。これを制するべく謙信が兵を率いて北条城を包囲し、高広を降伏させ帰参を許していきます。しかし謙信が高広の攻略に手間取っている間に信玄は善光寺周辺を味方にしていき、謙信も兵を率いて出陣して両軍は犀川で対峙していきました。
両軍共に小競り合い程度の戦しか仕掛けなかったことで約二百日に及んだ戦いでしたが、駿河国の今川義元の仲介で和睦していきます。この頃の謙信は領土争いなどで出兵するなどで心身が疲労し隠居を宣言していきましたが、政景らの説得と信玄の和睦を破ったことで撤回していきました。
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戦国の流れが変わっていく
盟約を破棄されたことで憤り、謙信は上野原へ出陣していき善光寺周辺の諸城を攻め落とし武田領まで兵を進めていきました。深志城に居た信玄は謙信の強さを知っていたため真っ正面から攻撃を仕掛けずに、別働隊を長尾軍の背後にあった城を攻め込んでいき上野原で対峙していきます。ここでも大きな戦へと発展せずに謙信が先に越後へ引き返していくと信玄も甲斐まで兵を引いていきました。
1559年には将軍から上洛命令が下り、上洛していくと関東管領と同等の権力が与えられていきましたが当時の天皇だった正親町天皇と三好長慶が有利な関係を築き上げていきます。これによって各地の大名の頂点とされていた幕府秩序が崩れさり大名の動きも大きく変わっていきました。
そして1560年に桶狭間の戦いで義元が討たれたことで、関東内で交わされていた同盟が破却される形となり謙信は氏康を討つために関東へ出兵していきます。北条方の諸城を攻略していくと関東内に居た大名達が謙信の軍に加わっていき小田原城まで攻め込んでいきました。
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