自身の家を拡大させるために他国へ侵攻し戦を仕掛け勝利し領土を拡大させることが出来ることもあれば、敗北し兵力を減少させてしまったこともあるようです。ただ勝利したとしても兵力を大きく減少させてしまうこともあったでしょうな。領土拡大させることを目的とした大名がほとんどだったが、中には欲による戦いではなく義に重んじた戦国大名がいたようです。

そこで今回は戦国期の日本無双之大将や軍神といった異名があった、戦国大名を歴史マニアで歴史ライターのwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

数多く存在した大名の中でもひと際、戦上手と称され宿敵からも賞賛された人物だった上杉謙信を紹介していく。

守護代の長尾家から誕生

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長尾氏の祖先は渡来人とされていて、本姓を平氏と名乗っていました。

春日山城で生まれる

1530年に越後の守護代だった長尾為景の次男とも三男として長尾氏居城の春日山城で誕生し幼名を虎千代と名付けられ育てられていきました。四歳頃になると腕白な子供だったようで、年上の子供達の中に混じり相撲や組打ちを好んで遊んでいたとされています。

しかしあまりにも為景のいうことを聞かず、手を焼いていたため春日山城下にある林泉寺に預け厳しい生活を送らせ学問を学ばせていきました。ところが林泉寺で生活を送っていきましたが、墓石を倒すなど以前の様子と変わることなく成長していきます。

その他の一面として好んで城郭模型を作成して遊んでいました。

心を入れていく

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謙信が生まれた頃は、下剋上の時代であり家臣として扱ていた将達が急激に力を付けて主君を倒していました。為景も同様で為景が補佐をしていた越後守護の長尾房能に反旗を翻し、松之山で自害させていき関東管領だった上杉顕定を討ち取っていきます。

また同族だった長尾家同士で争いが絶えず行われて、為景の越後平定が遠のいていました。為景が隠居し謙信の兄だった長尾春景が長尾家の舵取りを任されていきます。しかし父の様に越後国を纏められる力がなかったことで、対立していた上田長尾家や上杉氏が勢いづいていきました。

他家が勢力拡大に踏み切ろうとしているところで、為景が没してしまいます。為景が亡くなった知らせを受けた謙信は自ら甲冑を身に着け、為景の棺を護衛していきました。これ以降の謙信は心を入れ替えたようで、腕白な少年ではなくなり勉学に励むようになっていきます。

成長した虎千代

為景が亡くなった翌年の1543年に謙信は、長尾景虎と名乗り元服していきました。成長した謙信は晴景に命じられ中郡の反勢力だった他家の長尾領を統治し制圧させることを目的に派遣させられていきます。

しかし謙信が派遣された時期は、越後の守護だった上杉定実が伊達氏の伊達稙宗嫡男を婿養子に向かえる準備をしていたことで不満を持っていた家臣達による内紛が発生していました。

謀反を見事鎮圧させた初陣

元服を終えた謙信でしたが、初陣を飾っていない状況でした。そんな中で統率力の無い晴景を見た越後の豪族達が謀反を起こし若輩だった謙信の居る栃尾城へ攻め込んでいきます。越後国の豪族は長尾平六郎と黒田秀忠が兵を率いて栃尾城までやってきましたが、謙信は慌てることなく対処していきました。

平六郎と秀忠の進路を確認した謙信は、一隊を豪族らの背後に配置させていき栃尾城で籠城する構えを執っていきます。これに対して若輩であったことと籠城していたことで、焦らず時間をかけて攻め落とそうと考え傘松に陣を構えていきました。

陣を構えた直後に背後に伏せていた一隊を、豪族の陣に向けて攻撃を開始。突如現れた長尾軍に混乱していく豪族軍は軍の立て直しが出来なかったうえに栃尾城からも本隊が出陣し見事謀反を鎮圧していきました。

家督相続から宿敵との戦いへ

初陣で指揮能力の高さを発揮し、晴景との違いに驚いた国人達は次第に晴景との関係に変化が現れていきます。そして宿敵の武田信玄との戦を見ていきましょう。

\次のページで「二度目の謀反」を解説!/

二度目の謀反

栃尾城で見事に敵を撃退し謙信の力が認められていったことでしょう。しかし栃尾城の戦いで大敗した秀忠は再び晴景に対して謀反を起こしていき春日山城に攻め込んでいきました。この時には主君だった晴景と謙信そして景康・景房も春日山城に居て城内は混乱していて兵が纏まっていません。

謀反によってあっけなく城内の兵が倒されていき、景康と景房が殺害されてしまい晴景は何とか逃げ延び謙信は畳の下に隠れ九死に一生を得ていきます。統率力が無い晴景に代わって軍を率いていて秀忠が立て籠っていた黒滝城を包囲していきました。要害と呼ばれた黒滝城でしたが軍指揮を上手く機能させた謙信に分があり、城を開城させ秀忠を降伏させていきます。

しかし1546年に三度目の長尾家の反発を行った秀忠。これを見た謙信は再び黒滝城を包囲し今回ばかりは見逃すことも出来ないといい一族と共々滅ぼしていきました。

長尾家主君交代

晴景に代わって戦場で軍の指揮を執っていた謙信に越後の国人衆が付いていき、晴景から離れ謙信の下に臣従していくようになります。こうした動きをしていったことで、謙信は晴景との関係が悪化していき国人衆は謙信を守護代の座に就かせようとしていきました。

晴景派に味方する者もいましたが、謙信派を擁立している将が多数いたため晴景は謙信を養子にして家督を相続させていきます。更に晴景と謙信の調停役を担っていた越後守護の定実が亡くなり後継ぎが居なかったことで室町幕府から代理で守護になるようにと命じられていきました。

謙信が事実上の越後守護となっていきましたが、晴景派だった上田長尾氏が反発していき謙信に戦いを挑んでいきます。戦を仕掛ける前に政景へ加担される恐れのあった蘆名氏への予防線を張り栃木城を攻撃していきましたが、落城するに至らず政景が守る坂戸城に攻撃を切り替えていきました。坂戸城へ総攻撃を仕掛け勝利を収めた謙信。

関東管領が越後へ逃げ込む

家督の争いごとが一段落したところでしたが、関東管領だった上杉憲政が謙信を頼り落ち延びてきました。憲政は北条氏と覇権争いをしていた状態で、激しい攻防戦が行われていて憲政を御館で保護をしていきます。この保護によって北条氏と対立することになっていき、重臣だった本庄重長を筆頭に関東へ出兵させ上杉軍が守る上野沼田城へ援軍として到着し攻め込んできた北条軍を撃退していきました。

更に北条軍の手に落ちてしまっていた城を奪還し北条軍の侵攻を阻止していきます。この戦功が称えられ従五位下に叙任されていきました。

宿敵となる武田信玄が立ちはだかる

官職を授かった直後に甲斐国の武田信玄が信濃国へ侵攻を始めていき小笠原氏が謙信に救援を求めてやってきました。また同国の葛尾城主だった村上義清も信玄に敗れ謙信に援軍要請をしていき義清に対して援軍を与えていきます。謙信から五千兵を与えられて奪取されてしまった葛尾城を攻撃し、武田軍を撃退していき葛尾城を奪還していきました。

勢いづいていた義清でしたが、信玄自らが軍を率いて葛尾城など諸城を攻略され義清がた立てもっていた塩田城まで攻めていくと義清は塩田城を捨て謙信の下へ逃げ込んでいきます。これを受けて謙信は信玄の侵攻を阻止するために、兵を率いて北信濃へ出陣し布施で武田軍を破り義清の支城だった荒砥城を攻め落とし青柳城を攻めていきました。

信玄も謙信の勢いを止めるために、荒砥城を奇襲し長尾軍の退路を断っていきます。これにより謙信は八幡まで軍を下げ、信玄が居る塩田城へ攻撃を仕掛けていきますが信玄は直接戦うことを望んでいたなかったため戦果を挙げられたと判断した謙信は越後国まで兵を引き揚げていきました。

関東管領へ就任

更科八幡で信玄と対峙していき引き分けという形で終えた戦いでしたが、これ以降も謙信は信玄と戦っていきます。また上洛を果たしていくことで関東管領にまで登りつめていきました。

官位を授かり犀川で戦う

信玄と戦った翌年の天文22年1553年に初めて上洛を果たし、室町幕府の将軍から剣と天盃を下賜され敵を討伐せよとの勅命を受けていきました。この勅命の敵というのは、正確に誰を指していたのかは不明ですが同勢力の敵対大名を考えると信玄若しくは北条氏康を指していたと思われます。

そして1554年に家臣だった北条高広が信玄に通じる形で、謙信から離反し北条城で籠城していきました。これを制するべく謙信が兵を率いて北条城を包囲し、高広を降伏させ帰参を許していきます。しかし謙信が高広の攻略に手間取っている間に信玄は善光寺周辺を味方にしていき、謙信も兵を率いて出陣して両軍は犀川で対峙していきました。

両軍共に小競り合い程度の戦しか仕掛けなかったことで約二百日に及んだ戦いでしたが、駿河国の今川義元の仲介で和睦していきます。この頃の謙信は領土争いなどで出兵するなどで心身が疲労し隠居を宣言していきましたが、政景らの説得と信玄の和睦を破ったことで撤回していきました。

戦国の流れが変わっていく

盟約を破棄されたことで憤り、謙信は上野原へ出陣していき善光寺周辺の諸城を攻め落とし武田領まで兵を進めていきました。深志城に居た信玄は謙信の強さを知っていたため真っ正面から攻撃を仕掛けずに、別働隊を長尾軍の背後にあった城を攻め込んでいき上野原で対峙していきます。ここでも大きな戦へと発展せずに謙信が先に越後へ引き返していくと信玄も甲斐まで兵を引いていきました。

1559年には将軍から上洛命令が下り、上洛していくと関東管領と同等の権力が与えられていきましたが当時の天皇だった正親町天皇と三好長慶が有利な関係を築き上げていきます。これによって各地の大名の頂点とされていた幕府秩序が崩れさり大名の動きも大きく変わっていきました。

そして1560年に桶狭間の戦いで義元が討たれたことで、関東内で交わされていた同盟が破却される形となり謙信は氏康を討つために関東へ出兵していきます。北条方の諸城を攻略していくと関東内に居た大名達が謙信の軍に加わっていき小田原城まで攻め込んでいきました。

\次のページで「名を改め関東管領へ」を解説!/

名を改め関東管領へ

小田原城へ攻撃を仕掛けていくも、堅城と名高い小田原城を落城させることが出来ず長期的な戦となってしまったことで味方していた大名達が陣を引き払ってしまい撤退することになります。氏康との戦を終え越後国へ帰参すると、憲政からの要請もあった家督相続と関東管領を引き継ぎ名を上杉政虎と名乗っていきました。

謙信が関東管領を引き継ぎしていた頃に信玄は信濃国へ侵攻しており謙信も一万八千の兵を率いて、妻女山に布陣していきます。信玄は前線拠点として海津城を築き上げていて越後国を脅かす存在となっていました。謙信が妻女山へ着陣していくと信玄が茶臼山で着陣。

激戦となった八幡原

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一万八千の内、五千は善光寺に配置させ海津城を包囲していきましたが何故か謙信は攻撃をすることなく膠着状態が、続いていき武田家の重臣達が決戦を主張し始めていき信玄は山本勘助と馬場信房に策を立案するよう命じていきました。二人は策を考え知恵を出し合っていき軍を二手に分けて一隊は謙信が居る妻女山を攻撃し八幡原まで追い込み麓に潜ませている一隊と挟撃させる啄木鳥戦法を実行させていきます。

1563年9月9日の深夜に高坂昌信と信房が妻女山を目指して侵攻を始め、信玄率いる本隊は八幡原へ布陣していきました。この時の深夜から霧が深く進むのに手間取っていましたが、作戦通り配置に着いていき翌日を向かえていきます。しかし謙信はこれを読んでいて先に八幡原へ布陣しており霧が晴れたと同時に柿崎景家を中心に武田軍へ突撃していき、武田軍は状況が理解出来ないまま討ち取られていき武田軍は重臣を多く討ち取られ本陣も壊滅状態となってしまいました。

引き分けで終えた八幡原

有利な状況だった上杉軍でしたが、武田軍の別働隊が八幡原へ到着したことで挟撃される形となり上杉軍は不利な状況へとなっていきました。これ以上兵を失う必要は無いと判断した謙信は善光寺へと撤退していき敗走。これによって前半戦は謙信が勝利し後半戦は信玄の勝利ということで合戦自体は引き分けで終え両軍共に八幡原から兵を引き払い八幡原の戦いが終わります。

関東付近の大名達は、謙信と氏康の間を行ったり来たりしていて安定しない状況でした。特に謙信が二度に渡り攻め込んでいった唐沢山城は、落城させることが出来きませんでしたが結城氏などを降伏させ友好関係を築いていた佐竹氏の意見に従い唐沢山城主の佐野氏は降伏していきます。

関東を大部分を制圧していくと氏康率いる北条氏との戦いに集中していき、里見氏の救援するべく北条方の臼井城を攻めていきました。しかし臼井城攻めに失敗した謙信を見た関東の大名達は謙信から離れていきます。

越中進出と氏康と同盟

義元がこの世を去り、今川権力が弱まっていたことで駿河国への侵攻を始めた信玄を見た氏康は断交を決意。謙信との和睦を願い出るようになっていくと当初は、同盟を交わすつもりがなかった謙信でした。

しかし1568年に室町幕府将軍が変わり以前同様の待遇で扱われていき関東出兵と越中へ進出を始めていき、一向一揆衆や武田軍との交戦に明け暮れていきます。これにより謙信の家臣団は疲弊し始め、不満の声が高まっていたともあり謙信は氏康との和睦成立に向けて積極的に動いていきました。

無事に氏康との同盟を交わしたことで越中国へ集中出来ると思われましたが、関東諸将が同盟を良しと思わず信玄と通じていき状況が大きく好転せず佐竹氏や里見氏といった大名と争うことになっていきます。

氏康の死で同盟が破棄

1571年になると氏康が亡くなり、跡目を継いだ北条氏政が謙信との同盟を破棄していき信玄と同盟を交わしていきました。これに対して謙信は越中国の一揆衆を調略によって制すると、関東制圧に乗り出していきます。

しかし信玄の策略によって越中国の一揆衆が、謙信に牙を向き新庄城に兵を集め富山城を攻め立てていきました。一揆衆の攻撃が激しく一旦退却するも野戦に持ち込み圧勝し諸城を攻略し一時的に一揆衆の力を弱めていきます。

この時に織田信長と同盟を交わしていき、牽制役を担ってもらうことになっていきました。1575年になると信玄が上洛中に病で没すると武田氏の影響力が弱まり謙信は越中平定を本格的に目指していくことになります。

\次のページで「織田家との争いと急死による跡目争い」を解説!/

織田家との争いと急死による跡目争い

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宿敵として幾度も戦を交えた氏康と信玄が亡くなり、織田家が支配力を広げていき対立していくことになります。

北条家との対立

謙信が越中国平定するために越中へ侵攻している最中に、氏政が上野国まで侵攻してきた影響で一旦平定を見送り関東への出兵していきました。上野国へ兵を進め金山城へ攻撃を仕掛けましたが、攻略することは出来ずに越中国へ帰国することになります。

帰国後も越中平定を目指して兵力を集中させていく予定でしたが、簗田氏が氏政に攻撃され謙信に救援を要請してくると再び関東へ出兵。関東の北条氏諸城を火を放ち牽制していき、関東諸将を味方にするつもりでしたが佐竹氏を含む関東諸将は傍観したことで関東での謙信の影響力は極端に弱まっていきます。

幕府の為に石山本願寺と和睦

室町幕府将軍だった足利義昭が信長と対立していくと、毛利氏を庇護する形で反信長派を一掃するべく連合軍が結成されていきます。謙信は武田氏と北条氏と和睦をするべく動き出していきました。また一向一揆衆の首謀者ともいえる石山本願寺が信長の攻撃に耐えられず謙信に助けを求めていきます。

これにより長年悩まされていたことが、解消することが出来ると思い本願寺顕如と同盟を交わし続いて毛利氏とも同盟していきました。両者との和睦は信長との同盟を破棄することになり、争うことになっていきます。

越中と能登を制圧

本願寺との同盟で一揆衆の抵抗が無くなったことで越中国の諸城を次々と攻略していき、守護代だった椎名氏を討ち取り制圧しました。そして次なる狙いとして上洛の重要な拠点となる七尾城を攻略し畠山氏を守護代へ復活させていこうと思っていきます。

しかし七尾城は松尾山山上に築かれた難攻不落の城として、知られていたため力攻めでは攻略が困難でした。そこで謙信は調略を試みて遊佐続光らは信長と通じていた長続連を暗殺し七尾城を陥落させていきます。これで長年の願いだった越中と能登を平定することが出来ました。

信長は続連の援軍要請によって柴田勝家を総大将とした三万の大軍を率いて北ノ庄城へ集結。

手取川で織田軍を手玉に取る

大軍となっていた織田軍でしたが、羽柴秀吉が独断で隊を離脱するなど足並みが整っていない状況でした。謙信もまた越中から加賀国へ入り一向一揆衆に悩まされるも手取川を越えてくる情報を知ると、一向一揆衆を大軍で押し切り織田軍の真正面となる松任城まで入城していきます。

七尾城の陥落すら知らなかった勝家でしたが、1577年9月23日に情報を入手し焦っていると上杉軍が自軍の前に着陣したことを知り動揺していきました。急いで兵を撤退させようと手取川を渡らせようとしていた所に、上杉軍が攻撃を仕掛けていきます。

この攻撃と手取川の増水によって、織田軍は死傷者が多数出させ上杉軍は大勝しました。

厠で倒れてしまう

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織田軍に勝利したことで越後へ帰国し、春日山城で次なる遠征の準備をするために兵を総動員していきました。ところが遠征を始めようとする前に厠へ倒れてしまいそのまま亡くなってしまいます。

謙信の死によって遠征は中止となり、葬儀を済ませていきましたが跡目を決めていなかったことで家中同士で争いへと発展していきました。

仲間思いで義を貫いた将だった

幼少期から信仰心が強かった謙信は、成長してから毘沙門堂を建造し静かに祈っていました。静かな祈り続けていた謙信でしたが、戦場では部下の危機を感じ取ると撤退を命じていたことや同盟していた将が危険に晒されると単騎で突撃を仕掛け救援していく行動が多くあったようです。

そして引き継ぐ間柄にはなかった関東管領に就いた際には、役目を果たすために独立していた関東の将を纏めようと奔走していく官職を全うしようとする謙信の義理堅さが見られました。また宿敵だった信玄からは高く評価されており自身が亡くなる際、嫡男勝頼に謙信を頼るようにと告げていることと武田側の将達も反対しておらず信頼を寄せていた将だったことが分かります。

歴戦の名将と称され義を強く重んじていた謙信の心は家臣団に多く染まっていき、跡目を継ぐことになった上杉景勝らに受け継がれていったことでしょう。

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室町時代戦国時代日本史歴史

自らを毘沙門天の化身と称した「上杉謙信」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説

自身の家を拡大させるために他国へ侵攻し戦を仕掛け勝利し領土を拡大させることが出来ることもあれば、敗北し兵力を減少させてしまったこともあるようです。ただ勝利したとしても兵力を大きく減少させてしまうこともあったでしょうな。領土拡大させることを目的とした大名がほとんどだったが、中には欲による戦いではなく義に重んじた戦国大名がいたようです。

そこで今回は戦国期の日本無双之大将や軍神といった異名があった、戦国大名を歴史マニアで歴史ライターのwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

数多く存在した大名の中でもひと際、戦上手と称され宿敵からも賞賛された人物だった上杉謙信を紹介していく。

守護代の長尾家から誕生

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長尾氏の祖先は渡来人とされていて、本姓を平氏と名乗っていました。

春日山城で生まれる

1530年に越後の守護代だった長尾為景の次男とも三男として長尾氏居城の春日山城で誕生し幼名を虎千代と名付けられ育てられていきました。四歳頃になると腕白な子供だったようで、年上の子供達の中に混じり相撲や組打ちを好んで遊んでいたとされています。

しかしあまりにも為景のいうことを聞かず、手を焼いていたため春日山城下にある林泉寺に預け厳しい生活を送らせ学問を学ばせていきました。ところが林泉寺で生活を送っていきましたが、墓石を倒すなど以前の様子と変わることなく成長していきます。

その他の一面として好んで城郭模型を作成して遊んでいました。

心を入れていく

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謙信が生まれた頃は、下剋上の時代であり家臣として扱ていた将達が急激に力を付けて主君を倒していました。為景も同様で為景が補佐をしていた越後守護の長尾房能に反旗を翻し、松之山で自害させていき関東管領だった上杉顕定を討ち取っていきます。

また同族だった長尾家同士で争いが絶えず行われて、為景の越後平定が遠のいていました。為景が隠居し謙信の兄だった長尾春景が長尾家の舵取りを任されていきます。しかし父の様に越後国を纏められる力がなかったことで、対立していた上田長尾家や上杉氏が勢いづいていきました。

他家が勢力拡大に踏み切ろうとしているところで、為景が没してしまいます。為景が亡くなった知らせを受けた謙信は自ら甲冑を身に着け、為景の棺を護衛していきました。これ以降の謙信は心を入れ替えたようで、腕白な少年ではなくなり勉学に励むようになっていきます。

成長した虎千代

為景が亡くなった翌年の1543年に謙信は、長尾景虎と名乗り元服していきました。成長した謙信は晴景に命じられ中郡の反勢力だった他家の長尾領を統治し制圧させることを目的に派遣させられていきます。

しかし謙信が派遣された時期は、越後の守護だった上杉定実が伊達氏の伊達稙宗嫡男を婿養子に向かえる準備をしていたことで不満を持っていた家臣達による内紛が発生していました。

謀反を見事鎮圧させた初陣

元服を終えた謙信でしたが、初陣を飾っていない状況でした。そんな中で統率力の無い晴景を見た越後の豪族達が謀反を起こし若輩だった謙信の居る栃尾城へ攻め込んでいきます。越後国の豪族は長尾平六郎と黒田秀忠が兵を率いて栃尾城までやってきましたが、謙信は慌てることなく対処していきました。

平六郎と秀忠の進路を確認した謙信は、一隊を豪族らの背後に配置させていき栃尾城で籠城する構えを執っていきます。これに対して若輩であったことと籠城していたことで、焦らず時間をかけて攻め落とそうと考え傘松に陣を構えていきました。

陣を構えた直後に背後に伏せていた一隊を、豪族の陣に向けて攻撃を開始。突如現れた長尾軍に混乱していく豪族軍は軍の立て直しが出来なかったうえに栃尾城からも本隊が出陣し見事謀反を鎮圧していきました。

家督相続から宿敵との戦いへ

初陣で指揮能力の高さを発揮し、晴景との違いに驚いた国人達は次第に晴景との関係に変化が現れていきます。そして宿敵の武田信玄との戦を見ていきましょう。

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