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オーストリア・ハプスブルグ家最後の皇帝「フランツ・ヨーゼフ」を歴女がわかりやすく解説

2-4、フランツ・ヨーゼフ、エリザベートと出会う

そして8月、フランツ・ヨーゼフの23歳の誕生日の祝賀のため、母ゾフィー大公妃はミュンヘンから妹ルドヴィカと姪をバート・イシュルへ招待。8月16日にお見合いとなったが、フランツ・ヨーゼフはヘレーネではなく、ルドヴィカが社交界に慣れさせるため連れて来たヘレーネの妹エリザベートに一目惚れ

フランツ・ヨーゼフはエリザベートしか見ずに、ヘレーネには無関心で、母ゾフィー大公妃にも、エリザベートがいかに魅力的であるかしか語らず。それまで、ゾフィー大公妃に絶対服従だったフランツ・ヨーゼフが、このような振る舞いに出たことでゾフィー大公妃はびっくり仰天したそう。

ゾフィー大公妃はおとなしく自分の言いなりになると思ったヘレーネではなく、父のマクシミリアン大公にそっくりの天衣無縫の野生児のようなエリザベートを気に入らなかったが、フランツ・ヨーゼフはエリザベート以外とは結婚しないと言い張って、エリザベートと結婚することに。

2-5、フランツ・ヨーゼフ、エリザベートと結婚

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不明 – Georg Kugler: “Francesco Giuseppe e Elisabetta”, Edizione Bonechi Verlag Styria, Vienna 2002, ISBN 3 222 12264 4, パブリック・ドメイン, リンクによる

1854年4月24日、ウィーンのアウグスティーナー教会でフランツ・ヨーゼフとエリザベートとの結婚式が挙行され、3000人の招待客を招いてシェーンブルン宮殿の「鏡の間」で祝賀舞踏会が行われたということ。そして若く美貌の皇后を得たことで、フランツ・ヨーゼフ皇帝の人気は高まることに。

新婚の皇帝夫妻は、ホーフブルグ宮殿からラクセンブルク宮殿で新生活を始めたが、クリミア戦争が激化したため、フランツ・ヨーゼフは早朝から深夜まで会議や閣議などで忙しかったということ。そしてその間、宮廷に君臨する母ゾフィー大公妃がエリザベートをがちがちのハプスブルグ宮廷の規則やマナーで縛りつけようとしたため、嫁姑戦争が勃発。フランツ・ヨーゼフはふたりの板挟みに。尚、この結婚で1男3女(長女が夭折)が生まれたが、末女をのぞきゾフィー大公妃が取り上げて養育。

3-1、フランツ・ヨーゼフの治世で起こった出来事

68年にわたるフランツ・ヨーゼフの在位中に起こった戦争などについて挙げてみました。

3-2、ハンガリーの反乱とドイツ統一問題

フランツ・ヨーゼフが即位した1848年、コシュートが率いるハンガリーの独立運動が起こり、オーストリアはロシアのニコライ1世に援助を求めて制圧。このとき、多くのマジャール人の要人が処刑されたため、フランツ・ヨーゼフはマジャール人に恨みを買って暗殺未遂事件で重傷を負うことに。

またフランクフルトの国民議会でドイツ統一問題が議論され、大ドイツ主義が優勢となり、オーストリア帝国ではドイツ人の住む地域とそれ以外の民族の住むハンガリー、ベーメンの分離問題が起こったために協力に反対。

3-3、イタリア統一戦争

1830年代からの北イタリアでの反オーストリア運動が、1859年、サルデーニャ王国の首相カヴールがフランスのナポレオン3世皇帝と結託して、北イタリアのオーストリア領ロンバルディアに侵入して、イタリア統一戦争が勃発。ナポレオン3世が、単独講和に応じたためにオーストリアはロンバルディアを失い、ヴェネツィアなどを確保。

3-4、ウィーンの城壁を撤去、都市改造計画の実施

1857年7月、長年の懸案だったウィーン城壁の撤去計画がまとまり、12月20日にフランツ・ヨーゼフが勅書に署名。ウィーン市内をとり囲んでいた城壁は撤去、広々としたグラーシと呼ばれたところにリングシュトラーセが設けられ、その両側にはネオ・ゴシック様式の市庁舎、新古典様式の帝国議会、現在の国立歌劇場、ウィーン楽友協会などのクラシック音楽の象徴的建造物も建設、この都市改造がきっかけとなって、19世紀末の爛熟したウィーンの文化が花開くことに。

3-5、普墺戦争

1866年、シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題が発端となり、プロイセンとオーストリア間で行われた戦争でドイツ連邦諸国の多くはオーストリア側につき,ビスマルク首相の主導で参謀総長モルトケ率いるプロイセン軍がケーニヒグレーツの戦でオーストリア軍を撃破して7週間で完敗し、オーストリアはドイツ連邦を脱退,ドイツ連邦は解体してドイツでのプロイセンの覇権が確立。

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