世界史

オーストリア・ハプスブルグ家最後の皇帝「フランツ・ヨーゼフ」を歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回はフランツ・ヨーゼフを取り上げるぞ。美貌のエリザベート皇后と結婚したことで有名だが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの王室の歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

angelica

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの王室の歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、フランツ・ヨーゼフについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、フランツ・ヨーゼフはウィーンの生まれ

image by PIXTA / 10771359

フランツ・ヨーゼフ・カールは、1830年8月18日に、オーストリア皇帝フランツ1世の3男の父フランツ・カール大公と、バイエルン王マクシミリアン1世の娘の母ゾフィー大公妃の長男としてウィーンのシェーンブルン宮殿で誕生。これは公開出産で、宮廷に出入りできる者は見ることができたそう。きょうだいは2人夭折し、マクシミリアン(のちのメキシコ皇帝)、カール・ルードヴィッヒ、ルードヴィッヒ・ヴィクトルという弟が3人。

1-2、フランツ・ヨーゼフ誕生の経過

 フランツ・ヨーゼフの伯父のフェルナンド1世皇帝は、てんかん気質であるなど体が弱いために形だけの結婚で子供は望めなかったということ。そしてその弟でフランツ・ヨーゼフの父フランツ・カール大公も、同じくてんかん持ちで最初から皇帝になる予定はなかったということだが、ゾフィー大公妃はそれを承知で1824年11月にフランツ・カール大公と結婚し、是が非でも後継ぎを産むようがんばったそう。

ゾフィーはなかなか懐妊せず、また流産もあったそうで、宮廷侍医の勧めで夏の保養地で岩塩の産地でもあるバート・イシュルの塩泉治療に行ったところ、すぐ妊娠してフランツ・ヨーゼフが生まれたため、フランツ・ヨーゼフは「塩の王子」と呼ばれることに。そして塩の王子は生まれたときからオーストリア皇帝位が約束されていて、母ゾフィー大公妃の期待を背負って厳しくしつけられ教育されることに。祖父のフランツ1世は孫のフランツ・ヨーゼフを溺愛。

1-3、フランツ・ヨーゼフ、帝王学を学ぶ

フランツ・ヨーゼフは、将来の皇帝となるべくハプスブルク家の伝統に添った教育を受けたということで、6歳でガヴァネス(養育係の女性)から離されて、傅育官のもとでドイツ語、正書法、地理、宗教、図画、ダンス、体操、フェンシング、水泳、軍事訓練、フランス語、ハンガリー語、チェコ語の授業を、さらに、歴史、馬術、音楽、イタリア語の授業が週13時間も、7歳になると32時間に増え、12歳になると週に50時間に。13歳でさすがにストレスから病気になり、しばらく休講した後、さらに科目が追加されたそう。14歳になると、哲学、法学、政治学、天文学、工学、ポーランド語も追加。授業は朝6時に始まり、夜の9時までだったそう。

またフランツ・ヨーゼフは軍事関係では、陣営での指揮、連隊の配置、歩兵、砲兵、騎兵の任務などの訓練を受けたが、子供の頃から軍服を着ることが好きで、大人になっても一日中軍服を着ていたということ。

1-4、ウィーンの3月革命から逃れてイタリア戦線へ

1848年、フランスで発生した2月革命がヨーロッパ中に飛び火したせいで、オーストリアで3月革命が発生。ウィーンでは27年も宰相を務めたメッテルニヒの罷免を求める声が高まって、群衆がオーストリア領邦議会議事堂に殺到するまでになり、メッテルニヒは職を辞して逃亡。ウィーンは一時平穏になったが、バイエルン国王ルートヴィヒ1世退位のニュースで騒然となり、皇帝の安全も保証できない情勢に。ゾフィー大公妃は大事な息子フランツ・ヨーゼフを守るために、イタリア戦線の84歳のヨーゼフ・ラデツキー将軍(この将軍がナポレオン戦争に勝利した記念に作られたのが、ラデツキー行進曲)のもとでフランツ・ヨーゼフに軍隊経験を積ませることに 。フランツ・ヨーゼフはこのときの初陣で、敵の砲弾が間近で着弾し爆発したが、全く動じず、将来の皇帝が大佐として一緒に砲火をかいくぐったことで隊の士気が高まり、敵を撃退したということ。

ウィーンでは4月、フェルディナンド皇帝が欽定憲法を発布して平穏が戻ったが、5月には、群衆が普通選挙法の制定などを求めて王宮前広場に集まり、宮殿の中まで乱入しそうになったため、フェルディナント皇帝以下の皇族、宮廷人はチロル州都インスブルックに避難。フランツ・ヨーゼフもイタリア戦線からインスブルックへ。ここで、18歳のフランツ・ヨーゼフは将来の花嫁の11歳の従妹エリザベートと初めて会ったが、この時は何の感情も抱かず、弟のカール・ルードヴィッヒがエリザベートに夢中になったそう。

2-1、フランツ・ヨーゼフ皇帝として即位

Korunovace Františka Josefa I.jpg
Adolf Rabenalt – Osobnosti Olomouckého kraje, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

8月初頭、宮廷はウィーンに帰還したが、急進的な学生や労働者が宮殿前に集り、その後暴徒化したため宮廷はメーレンのオルミュッツへ逃れ、会議の結果、フェルディナント1世皇帝の退位が決定。1848年12月2日、オルミュッツの大司教館玉座の間で、フランツ・ヨーゼフは伯父フェルディナント帝から譲位され、戴冠式無くして署名のみで皇帝フランツ・ヨーゼフ1世として即位。

尚、「フランツ・ヨーゼフ1世」という複合名は、急進的な改革を行い、自由主義者に敬愛されている神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の名前を入れて革命勢力をなだめる意図があったそう。「フランツ・ヨーゼフ ハプスブルグ「最後」の皇帝」江村洋著によれば、フランツ・ヨーゼフが政治のモットーに選んだのは「一致団結して」だったということ。

2-2、フランツ・ヨーゼフ、母に逆らえず

フランツ・ヨーゼフは、母ゾフィー大公妃の尽力で皇帝に即位できたということで、即位当初は、保守的なゾフィー大公妃が政治介入することも多く、フランツ・ヨーゼフは母の意向に逆らえずに判断を誤ったことも多かったそう。また、首相フェリックス・シュヴァルツェンベルク侯爵の補佐を受けて行われたフランツ・ヨーゼフの統治は、「新絶対主義」と言われ、近代的な新しい絶対主義を生み出そうとするものだったということ。

2-3、フランツ・ヨーゼフ、暗殺未遂事件

フランツ・ヨーゼフは、1853年2月、副官オドネル伯爵を伴っての散歩中、ハンガリー人に襲われ、致命傷は免れたが首から胸を刺されて重傷。駆け付けた人々に向かってフランツ・ヨーゼフは、犯人を殺すなと叫んだということ。フランツ・ヨーゼフの傷は頭蓋骨も損傷し、一時は失明の危機もあり、傷が化膿したなどで完治まで1年かかったそう。またこの事件で、その晩にフランツ・ヨーゼフと従妹のバイエルン大公女ヘレーネのお見合いを兼ねた舞踏会が予定されていたが、お見合いは延期に。この暗殺未遂事件でむしろ皇帝の人気が高まったということ。

2-4、フランツ・ヨーゼフ、エリザベートと出会う

そして8月、フランツ・ヨーゼフの23歳の誕生日の祝賀のため、母ゾフィー大公妃はミュンヘンから妹ルドヴィカと姪をバート・イシュルへ招待。8月16日にお見合いとなったが、フランツ・ヨーゼフはヘレーネではなく、ルドヴィカが社交界に慣れさせるため連れて来たヘレーネの妹エリザベートに一目惚れ

フランツ・ヨーゼフはエリザベートしか見ずに、ヘレーネには無関心で、母ゾフィー大公妃にも、エリザベートがいかに魅力的であるかしか語らず。それまで、ゾフィー大公妃に絶対服従だったフランツ・ヨーゼフが、このような振る舞いに出たことでゾフィー大公妃はびっくり仰天したそう。

ゾフィー大公妃はおとなしく自分の言いなりになると思ったヘレーネではなく、父のマクシミリアン大公にそっくりの天衣無縫の野生児のようなエリザベートを気に入らなかったが、フランツ・ヨーゼフはエリザベート以外とは結婚しないと言い張って、エリザベートと結婚することに。

2-5、フランツ・ヨーゼフ、エリザベートと結婚

Sissi&Franz.jpg
不明 – Georg Kugler: “Francesco Giuseppe e Elisabetta”, Edizione Bonechi Verlag Styria, Vienna 2002, ISBN 3 222 12264 4, パブリック・ドメイン, リンクによる

1854年4月24日、ウィーンのアウグスティーナー教会でフランツ・ヨーゼフとエリザベートとの結婚式が挙行され、3000人の招待客を招いてシェーンブルン宮殿の「鏡の間」で祝賀舞踏会が行われたということ。そして若く美貌の皇后を得たことで、フランツ・ヨーゼフ皇帝の人気は高まることに。

新婚の皇帝夫妻は、ホーフブルグ宮殿からラクセンブルク宮殿で新生活を始めたが、クリミア戦争が激化したため、フランツ・ヨーゼフは早朝から深夜まで会議や閣議などで忙しかったということ。そしてその間、宮廷に君臨する母ゾフィー大公妃がエリザベートをがちがちのハプスブルグ宮廷の規則やマナーで縛りつけようとしたため、嫁姑戦争が勃発。フランツ・ヨーゼフはふたりの板挟みに。尚、この結婚で1男3女(長女が夭折)が生まれたが、末女をのぞきゾフィー大公妃が取り上げて養育。

3-1、フランツ・ヨーゼフの治世で起こった出来事

68年にわたるフランツ・ヨーゼフの在位中に起こった戦争などについて挙げてみました。

3-2、ハンガリーの反乱とドイツ統一問題

フランツ・ヨーゼフが即位した1848年、コシュートが率いるハンガリーの独立運動が起こり、オーストリアはロシアのニコライ1世に援助を求めて制圧。このとき、多くのマジャール人の要人が処刑されたため、フランツ・ヨーゼフはマジャール人に恨みを買って暗殺未遂事件で重傷を負うことに。

またフランクフルトの国民議会でドイツ統一問題が議論され、大ドイツ主義が優勢となり、オーストリア帝国ではドイツ人の住む地域とそれ以外の民族の住むハンガリー、ベーメンの分離問題が起こったために協力に反対。

3-3、イタリア統一戦争

1830年代からの北イタリアでの反オーストリア運動が、1859年、サルデーニャ王国の首相カヴールがフランスのナポレオン3世皇帝と結託して、北イタリアのオーストリア領ロンバルディアに侵入して、イタリア統一戦争が勃発。ナポレオン3世が、単独講和に応じたためにオーストリアはロンバルディアを失い、ヴェネツィアなどを確保。

3-4、ウィーンの城壁を撤去、都市改造計画の実施

1857年7月、長年の懸案だったウィーン城壁の撤去計画がまとまり、12月20日にフランツ・ヨーゼフが勅書に署名。ウィーン市内をとり囲んでいた城壁は撤去、広々としたグラーシと呼ばれたところにリングシュトラーセが設けられ、その両側にはネオ・ゴシック様式の市庁舎、新古典様式の帝国議会、現在の国立歌劇場、ウィーン楽友協会などのクラシック音楽の象徴的建造物も建設、この都市改造がきっかけとなって、19世紀末の爛熟したウィーンの文化が花開くことに。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

ああ、いつも見てるウィーンフィルのニューイヤーコンサートの会場やワルツもこの時代なのか

3-5、普墺戦争

1866年、シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題が発端となり、プロイセンとオーストリア間で行われた戦争でドイツ連邦諸国の多くはオーストリア側につき,ビスマルク首相の主導で参謀総長モルトケ率いるプロイセン軍がケーニヒグレーツの戦でオーストリア軍を撃破して7週間で完敗し、オーストリアはドイツ連邦を脱退,ドイツ連邦は解体してドイツでのプロイセンの覇権が確立。

3-6、アウスグライヒ、ハンガリー二重帝国の成立

普墺戦争の敗戦でドイツから撤退したオーストリアは国内体制の変更に迫られ、アウスグライヒ(妥協)でハンガリー王国の独立を認めて、フランツ・ヨーゼフがハンガリー王を兼ねて、オーストリア・ハンガリー帝国とするという二重帝国体制をとることに。

3-7、バルカン半島進出

オーストリア・ハンガリー帝国は1873年、ドイツのビスマルクに協力し、対フランスとして結束、ロシアと共に三帝同盟を結成したが、その後はバルカン半島に進出、スラヴ系民族とその背後のロシアと対立したために三帝同盟は事実上無効に。そして1878年、ベルリン条約でボスニア・ヘルツェゴヴィナ統治権が承認、1908年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したためセルビアが強く反発。

3-8、第一次世界大戦

1914年6月、サライェヴォ事件で皇位継承者フランツ=フェルディナント夫妻がセルビア人暗殺後、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦へ突入。

4-1、フランツ・ヨーゼフの身内の悲劇的な死

フランツ・ヨーゼフは長生きしたせいばかりじゃないでしょうが、多くの身内の悲劇を体験しています。

4-2、次弟マクシミリアンが処刑

フランツ・ヨーゼフのすぐ下の弟であるマクシミリアンは、母ゾフィー大公妃に最も可愛がられ甘やかされた人。

じつは、祖父フランツ1世の娘でフランツ・ヨーゼフやマクシミリアンの伯母にあたるマリー・ルイ―ズと、ナポレオン1世皇帝との間に生まれたナポレオン2世はウィーン宮廷でライヒシュタット公爵として育てられ、21歳で結核で亡くなったのですが、ゾフィー大公妃と不倫が噂されたほど仲が良く、マクシミリアンはライヒシュタット公爵が亡くなった年に生まれ、もしや彼の息子ではという噂もあり。

マクシミリアンは成人して海軍での軍歴ののち、ミラノに総督、ロンバルディア・ヴェネトの副王となったが、1857年にベルギー国王レオポルド1世とフランスのルイ・フィリップ国王の娘の王妃ルイーズ=マリー・ドルレアンの王女シャルロッテと結婚。シャルロッテは、イギリスのヴィクトリア女王とアルバート公夫妻のいとこにあたり、義姉エリザベート皇后はバイエルン公爵の娘に過ぎないが、わたしは王女と対抗意識をむき出しにした高慢な女性だったよう(それにゾフィー大公妃に可愛がられた)。

マクシミリアンは兄フランツ・ヨーゼフが反対するも、野心的な妻シャルロッテが焚きつけたせいもあって、1864年4月、フランスのナポレオン3世と帝政復活を望むメキシコの王党派の支援でメキシコ皇帝に即位。しかしアメリカ合衆国他の多くの国々は承認せず、フランス軍が引き上げたためにメキシコ共和派軍の捕虜となって、1867年に銃殺刑に。シャルロッテは精神に異常をきたしてベルギーに引き取られ、田舎の城に幽閉状態のまま86歳で死去。

4-3、息子の皇太子ルドルフの情死

ひとり息子のルドルフ皇太子は母エリザベートに似て自由主義的な思想を持ち、保守的な父と対立しがちだったが、1889年、31歳でマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とマイヤーリンクで情死(暗殺説も)。フランツ・ヨーゼフとエリザベートは嘆き悲しみ、エリザベートは以後黒い喪服しか着なかったということ。ルドルフには一人娘エリザベートがいてフランツ・ヨーゼフは溺愛したが、皇位継承者とはならず。

4-4、皇后エリザベートの暗殺

1898年、皇后エリザベートが旅先のジュネーヴのレマン湖のほとりで、イタリア人無政府主義者ルイジ・ルキーニによって60歳で暗殺。知らせを聞いたフランツ・ヨーゼフは、「この世はどこまで余を苦しめれば気が済むのか」と号泣。

4-5、王位継承者フランツ・フェルディナンド夫妻の暗殺

ルドルフ皇太子の死後、フランツ・ヨーゼフの弟のカール・ルードヴィッヒ大公が王位継承者となったが、1896年に死去してその長男のフランツ・フェルディナンド大公が王位継承者に。

彼はフランツ・ヨーゼフらの反対を押し切って、ボヘミアの貴族のゾフィー・ホテク伯爵令嬢と貴賤結婚。フランツ・ヨーゼフを筆頭にハプスブルグ家の親戚はほとんどが結婚式に出席せず、ふたりの間に生まれる子供は王位継承権なし、そしてゾフィー・ホテクは大公妃ではなくホーヘンベルク伯爵夫人として宮廷行事では最下位の席次に(子供ですら上席)。

フランツ・ヨーゼフとフランツ・フェルディナンドとの間もぎくしゃくとし、政治的な思想も違うため相容れぬ関係だったが、1914年オーストリア領、サラエヴォ(現ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領)訪問中、夫妻ともに暗殺。フランツ・ヨーゼフは知らせを聞いて、王朝の継承者なのに貴賤結婚をして義務に反したために神が天罰を下したと発言。夫妻の葬儀、その後の扱いのひどさから宮廷及び民衆の怒りが盛り上がり、第一次世界大戦勃発のきっかけに。

5-1、フランツ・ヨーゼフの逸話

朝は3時起床で5時に執務に着き、夜は9時に就寝、軍隊式の鉄のベッドで寝たという人ですが、色々な逸話をご紹介しますね。

5-2、最新機器は嫌いだった

当時は電話とかエレベーター、自動車なども最新機器として登場した時代でしたが、フランツ・ヨーゼフはそういうものを嫌い、絶対に使わなかったということ。

5-3、非常に質素でつぎはぎの下着を着ていた

フランツ・ヨーゼフのお付きの話として、フランツ・ヨーゼフの衣服は何度も仕立て直して着たということで、下着も継ぎを当てたものを着用。愛人といたときに、そのつぎはぎだらけの下着が破れたフランツ・ヨーゼフは、「破れちゃった、これしかないのに、これしかないのに」と、ものすごくうろたえたが、それを見た愛人が、「またつぎを当てればいいじゃない」と言ったという話が。

エリザベート皇后も愛人カタリーナ・シュラットもかなり贅沢思考で浪費家だったが、フランツ・ヨーゼフは気前よく彼女たちに色々な高価なプレゼントを与えていたけれど、自分のものはかなり倹約していたんですね。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

自分はボロボロの下着で節約して、妻や愛人にお城や宝石を買い与えるって、これ以上ない美談かも

5-4、エリザベート一筋ではなかった

フランツ・ヨーゼフといえば、エリザベートへのひと目惚れが印象的ですが、エリザベートは結婚後10年を経ずして転地療養という名の旅行三昧でウィーンを離れることが多くなったせいか、愛人も存在。

有名なのはカテリーナ・シュラットという女優で、これはエリザベートが取り持ったと言われる公認の仲。

また、アンナ・ナホフスキーという女性との間に庶子ヘレネと、フランツ・ヨーゼフが生まれ、他にも4人も子供を産んだ平民の愛人の存在も明らかに。

6、最期まで皇帝の仕事をつづけた

1916年、11月に入るとフランツ・ヨーゼフは衰弱、一時は書類に向かうほど回復したが、11月21日の夜、明朝3時半に起こすようにと言い眠りに着き、大勢の縁者に見守られ肺炎で死去。享年86歳。

フランツ・フェルディナンド大公の死後に皇位継承者となった、その弟オットー・フランツ大公の長男のカール1世が即位したが、第一次世界大戦の敗戦後、「国事不関与」を宣言、退位要求を拒絶後にスイスに亡命。フランツ・ヨーゼフの死後2年にしてハプスブルグ家支配は終焉に。

王権神授説を信じた最後の皇帝

フランツ・ヨーゼフはハプスブルグ家の傍系の生まれですが、生まれたときから皇帝の地位が約束され、3月革命で18歳で伯父の退位を受けて即位、以後68年の長きにわたり、オーストリア、ハプスブルグ家の実質最後の皇帝となった人。

しかしフランツ・ヨーゼフの在位中は、ハプスブルグ帝国の末日を予想するような、戦争に負け続け民族抗争は起こるという激動の時代で、また、最愛の皇后エリザベートは美貌ではあったが、これまた最愛の母との激しいバトルで、ついにうつ病となって転地療養し、ウィーンに居つかなくなったし、反対を押し切ってメキシコ皇帝になった弟は処刑され、皇太子には謎の事件で先立たれ、継承者となった甥は暗殺とフランツ・ヨーゼフは家庭的にも不幸の連続。

本人は王権神授説を信じて、厳格なまでに皇帝としてふさわしく自分を律し、軍人的に規律正しい質素な生活をしていたが、王位継承者となった甥のフランツ・フェルディナンドの結婚を、皇帝にふさわしい結婚ではないと認めなかったことなども含めて、まさに恐竜のような滅びに至る古い時代の象徴だったのでは。

Share:
angelica