
名門の武家『孫家』に生まれ、わずか19歳の時にその家督を引き継ぐことになった「孫権」は、呉の皇帝にまで上り詰めていったんです。数多の武将達が散っていく中で、彼がそこまで上り詰めることの出来た理由とは何だったのか。晩年は、暴君とも呼べる行いが増えていき、最後はうまく後継者の指名が出来ず、造り上げた『呉』の国力を自らの手で削っていってしまう。まさに人生そのものが三国時代であった「孫権」の一生を、わかりやすくまとめておいた。
年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。
- 始まりは父「孫堅」の死から、兄と共に戦地に赴く
- わずか19歳で江東を治め、孫氏の家督を継ぐこととなる
- 優秀な配下に恵まれた「孫権」は、父の敵討ちを果たす
- 同年、北から魏の「曹操」が攻め入ってくる
- 「劉備」と手を組んだ『赤壁の戦い』で「曹操」を打ち破ることに成功する
- 『赤壁の戦い』後、同盟を結んだ両者だが…
- 劉備との関係は絶望的に、そして曹操に評価された孫権
- 『蜀』との決定的な決裂、全面対決が始まるも…
- 軍神「関羽」を討伐することを決意した孫権
- 曹操の死去、後を継いだ曹丕との関係
- 『蜀』、そして『魏』との戦い
- 48歳、『呉』の国を建国し、皇帝となる
- 晩年の孫権は、臣下を死に追いやるなど、暴君の様相が見えてくる
- 「孫権」の後継者争いにより、『呉』の国力は衰えた
- 偉大な父兄から引き継ぐも、次世代には引き継げなかった男
この記事の目次
ライター/Kana
年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「孫権」について、わかりやすくまとめた。
始まりは父「孫堅」の死から、兄と共に戦地に赴く
不明 – w:Image:Sun Ce Portrait.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる
「孫権」(そんけん)の生まれは、182年。『呉郡』(ごぐん)というところであり、字は「仲謀」といいます。この地は後に建国することになる『呉』(ご)の国に含まれ、故郷に盤石な地盤を築いていったのだと思われますね。
そんな孫権ですが、9歳の時に父である「孫堅」(そんけん)が、戦死してしまいます。孫堅戦死の原因となったのは「黄祖」(こうそ)という武将で、彼の部下が射殺したのです。この黄祖との戦いは、長く続き、孫権を語るうえで無視することは出来ません。
195年、孫権13歳の時に兄である「孫策」(そんさく)が『江東』(こうとう)で挙兵します。孫策の勢いは凄まじく、あっという間に勢力を拡大していくのです。この戦いの中で孫権もまた初陣を迎え、この頃孫権は周辺の住人と非常に親しい仲であったといいます。そうして孫権の名が知られるようになると、その名声は父や兄にも引けを取らないものになっていきました。
孫策の下で孫権は徐々にその才能を発揮していき、軍会議では様々な計略を提案していったといいます。そんな孫権を見た孫策は、彼を大変な逸材として自身では及ばないと考えていったそうです。
わずか19歳で江東を治め、孫氏の家督を継ぐこととなる
兄「孫策」と共に乗り出した『江東平定』は4年の歳月に及び、その際には「劉表」(りゅうひょう)の配下であり、父の仇である「黄祖」とも交戦します。
この黄祖との戦いは孫策軍の大勝に終わったのですが、あと一歩という所で黄祖に逃げられてしまうのです。しかし、この戦いが決め手となり、孫策の江東平定は成りました。
そのわずか1年後、200年の春に、孫策は暗殺により殺害されてしまいます。孫策の存在を危惧し、中央に召還すべし、と表明していたため処刑した「許貢」(きょこう)という役人の配下によるものです。
こうして孫策は父・兄の後を継ぎ、江東一帯を制することになります。なんとわずか19歳の出来事でした。
優秀な配下に恵まれた「孫権」は、父の敵討ちを果たす
Unknown author – Zengxiang quantu Sanguoyanyi Taken from http://threekingdoms.wikia.com/wiki/File:Sun_Jian_-_Qing_ZQ-SGYY.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる
家督を継いだ孫権がまず注力したのは、優秀な人材の登用でした。父や兄の代から仕える「周瑜」(しゅうゆ)「程普」(ていふ)「呂範」(りょはん)などをまとめ上げ、周瑜から「魯粛」(ろしゅく)を推薦されるとそれを受け入れます。
さらには、「陸遜」(りくそん)「諸葛瑾」(しょかつきん)「呂岱」(りょたい)「徐盛」(じょせい)「朱桓」(しゅかん)など、後々まで活躍する優秀な武将を集めていきました。
巧みな人心掌握術で家臣の心を掴んでいった孫権は、彼らを領地内の平定のために派遣し、国内の安定を計ります。
これらは、魯粛からの提案で「北の曹操に対して丁寧に力をつけていくべきであり、その方法としては、荊州の劉表・黄祖を攻め、長江を利用しては」というものを採用したものと思われますね。
そうして力をつけた孫権は、208年に『江夏』(長江の南河岸)に自ら攻め入りました。これは2度目の侵攻であり、1度目は国内の反乱鎮圧のため撤退しているのです。しかし、此度の侵攻は成功し、無事父の仇である黄祖を打ち取ると、江南の制圧に成功しました。
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同年、北から魏の「曹操」が攻め入ってくる
劉表・黄祖との戦いに勝ち、領地を得た孫権でしたが、その同年(208年)、恐れていた「曹操」(そうそう)が北より攻め入ってきました。
この時の曹操陣営は、天下統一に最も近い勢力として恐れられていたのです。孫権軍内では、降伏を主張する一派と、交戦を主張する一派とで意見が対立してしまいました。
しかしこの時、後に『蜀』を建国することになる劉備が、命からがら孫権の領地へと逃げ延びてきたのです。これには名軍師「諸葛亮」(しょかつりょう)も共にいました。
孫権の配下、魯粛と諸葛亮は共に手を組み交戦すべきだと述べ、孫権もそれに同意します。しかし、陣内では未だ降伏派が大多数を占めており、難色を示す者もおりました。
そんな者たちに孫権は、剣を抜くと目の前の机を斬りつけて「今後、異議を唱える者はこれと同じ運命を辿ると思え」と、一括したのです。
こうして、孫権陣営は曹操との対決を決意しました。
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