今日は、三国時代の一角を担う『呉』の皇帝となった「孫権」について、勉強していこう。

名門の武家『孫家』に生まれ、わずか19歳の時にその家督を引き継ぐことになった「孫権」は、呉の皇帝にまで上り詰めていったんです。数多の武将達が散っていく中で、彼がそこまで上り詰めることの出来た理由とは何だったのか。晩年は、暴君とも呼べる行いが増えていき、最後はうまく後継者の指名が出来ず、造り上げた『呉』の国力を自らの手で削っていってしまう。まさに人生そのものが三国時代であった「孫権」の一生を、わかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「孫権」について、わかりやすくまとめた。

始まりは父「孫堅」の死から、兄と共に戦地に赴く

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不明 - w:Image:Sun Ce Portrait.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

 「孫権」(そんけん)の生まれは、182年。『呉郡』(ごぐん)というところであり、字は「仲謀」といいます。この地は後に建国することになる『呉』(ご)の国に含まれ、故郷に盤石な地盤を築いていったのだと思われますね。

 そんな孫権ですが、9歳の時に父である「孫堅」(そんけん)が、戦死してしまいます。孫堅戦死の原因となったのは「黄祖」(こうそ)という武将で、彼の部下が射殺したのです。この黄祖との戦いは、長く続き、孫権を語るうえで無視することは出来ません。

 195年、孫権13歳の時に兄である「孫策」(そんさく)が『江東』(こうとう)で挙兵します。孫策の勢いは凄まじく、あっという間に勢力を拡大していくのです。この戦いの中で孫権もまた初陣を迎え、この頃孫権は周辺の住人と非常に親しい仲であったといいます。そうして孫権の名が知られるようになると、その名声は父や兄にも引けを取らないものになっていきました。

 孫策の下で孫権は徐々にその才能を発揮していき、軍会議では様々な計略を提案していったといいます。そんな孫権を見た孫策は、彼を大変な逸材として自身では及ばないと考えていったそうです。

わずか19歳で江東を治め、孫氏の家督を継ぐこととなる

 兄「孫策」と共に乗り出した『江東平定』は4年の歳月に及び、その際には「劉表」(りゅうひょう)の配下であり、父の仇である「黄祖」とも交戦します。

 この黄祖との戦いは孫策軍の大勝に終わったのですが、あと一歩という所で黄祖に逃げられてしまうのです。しかし、この戦いが決め手となり、孫策の江東平定は成りました。

 そのわずか1年後、200年の春に、孫策は暗殺により殺害されてしまいます。孫策の存在を危惧し、中央に召還すべし、と表明していたため処刑した「許貢」(きょこう)という役人の配下によるものです。

 こうして孫策は父・兄の後を継ぎ、江東一帯を制することになります。なんとわずか19歳の出来事でした。

優秀な配下に恵まれた「孫権」は、父の敵討ちを果たす

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Unknown author - Zengxiang quantu Sanguoyanyi Taken from http://threekingdoms.wikia.com/wiki/File:Sun_Jian_-_Qing_ZQ-SGYY.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

 家督を継いだ孫権がまず注力したのは、優秀な人材の登用でした。父や兄の代から仕える「周瑜」(しゅうゆ)「程普」(ていふ)「呂範」(りょはん)などをまとめ上げ、周瑜から「魯粛」(ろしゅく)を推薦されるとそれを受け入れます。

 さらには、「陸遜」(りくそん)「諸葛瑾」(しょかつきん)「呂岱」(りょたい)「徐盛」(じょせい)「朱桓」(しゅかん)など、後々まで活躍する優秀な武将を集めていきました。

 巧みな人心掌握術で家臣の心を掴んでいった孫権は、彼らを領地内の平定のために派遣し、国内の安定を計ります。

 これらは、魯粛からの提案で「北の曹操に対して丁寧に力をつけていくべきであり、その方法としては、荊州の劉表・黄祖を攻め、長江を利用しては」というものを採用したものと思われますね。

 そうして力をつけた孫権は、208年に『江夏』(長江の南河岸)に自ら攻め入りました。これは2度目の侵攻であり、1度目は国内の反乱鎮圧のため撤退しているのです。しかし、此度の侵攻は成功し、無事父の仇である黄祖を打ち取ると、江南の制圧に成功しました。

同年、北から魏の「曹操」が攻め入ってくる

 劉表・黄祖との戦いに勝ち、領地を得た孫権でしたが、その同年(208年)、恐れていた「曹操」(そうそう)が北より攻め入ってきました。

 この時の曹操陣営は、天下統一に最も近い勢力として恐れられていたのです。孫権軍内では、降伏を主張する一派と、交戦を主張する一派とで意見が対立してしまいました。

 しかしこの時、後に『蜀』を建国することになる劉備が、命からがら孫権の領地へと逃げ延びてきたのです。これには名軍師「諸葛亮」(しょかつりょう)も共にいました。

 孫権の配下、魯粛と諸葛亮は共に手を組み交戦すべきだと述べ、孫権もそれに同意します。しかし、陣内では未だ降伏派が大多数を占めており、難色を示す者もおりました。

 そんな者たちに孫権は、剣を抜くと目の前の机を斬りつけて「今後、異議を唱える者はこれと同じ運命を辿ると思え」と、一括したのです。

 こうして、孫権陣営は曹操との対決を決意しました。

\次のページで「「劉備」と手を組んだ『赤壁の戦い』で「曹操」を打ち破ることに成功する」を解説!/

「劉備」と手を組んだ『赤壁の戦い』で「曹操」を打ち破ることに成功する

赤壁古戦場(赤壁市)
User Jie on en.wikipedia - Originally from en.wikipedia; description page is (was) here 08:26, 29 August 2004 Jie 416x350 (24,260 bytes) (Photo of the traditional site of Chibi, north of Wulin, taken in 2003.), CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 曹操との交戦を決意した孫権は、全指揮を「周瑜」(しゅうゆ)に預けると、補佐に魯粛をつけます。

 この『赤壁の戦い』は、劉備・孫権連合軍の数々の策により勝利を収め、曹操を撤退させることに成功したのです。

 しかし、同時にこの戦いの時の孫権の動きについての記述は、殆ど残っていません。一説に寄れば孫権がこの戦いに出陣しなかった理由として、もし敗戦した場合でも、国長同士での決戦ではない、という体裁を保つためではなかったのでは、というものもあるのです。

 あまりにも強大な敵である曹操との一大決戦には、いくつもの保険が必要だったのでしょうね。

『赤壁の戦い』後、同盟を結んだ両者だが…

 『赤壁の戦い』に勝利した連合軍は、共に南郡を攻めとりました。そして話し合いのもと、孫権の領地を劉備に貸し与えたのです。この両者の同盟は、孫権の妹を劉備の継室として嫁がせたことで、さらに強力なものになったはずでした。

 こうして劉備は荊州五郡と呼ばれる一帯を、領地として獲得することになりました。

 さらに孫権は、益州もその支配地に入れようと劉備に共に攻め入ろうと提案します。益州とは後に劉備が『蜀』を建国することになる土地です。劉備はいずれは益州を単独で占拠しようと考えていたため、これを断りました。

 この頃から劉備・孫権の間には、不穏な空気が流れるようになっていくのです。

劉備との関係は絶望的に、そして曹操に評価された孫権

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 212年、曹操が再び攻め入ってきたのです。これを察知した孫権は配下の「呂蒙」(りょもう)を『濡須口』(じゅすこう)に布陣させると、劉備に救援を求めます。同盟を結んでいることは間違いないため、もちろんそれは派遣されるものと考えますが、なんと劉備はこれに答えません。

 この時孫権の脳裏には、益州侵攻を提案した時の光景が過ります。「再び邪魔をするのか!」と激怒した孫権は、自ら濡須口に出陣すると、曹操軍を包囲しおよそ3千人余りを打ち取る、大勝を収めたのです。

 その勢いで曹操が布陣する城に攻勢を仕掛けるのですが、中々曹操を引きずり出すことに成功しません。そこで孫権は自ら軽船に乗って曹操の陣営に近づきます。曹操軍の諸将らがこれを迎撃しようとした時、曹操はそれを止めたのです。

 「これは、我らの軍内への偵察である、攻撃すれば手の内を見られてしまう、よもや大将自らを利用するとは」と賛辞を述べました。

 同時に、大将自らを囮にした策を実行しているにも関わらず、孫権陣営の動揺はわずかも見られず、これを見た曹操は再び孫権を評価、「息子を持つならまさに孫仲謀のようなのがいい」と残しています。

『蜀』との決定的な決裂、全面対決が始まるも…

 214年、かねてより狙っていた『益州』を劉備が侵攻、その領地としました。これを受けて孫権は、貸し与えていた荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求するのです。これに劉備は『涼州』を手中に収めたら返還する、と返答します。

 この『涼州』とは地図で見ると、中国の北西地方にあたり、劉備の本拠地『益州』からはかなり遠い場所なのです。さらにはその中間地点には『漢中』と呼ばれる要所がありました。

 現在の劉備の国力から考えても『涼州』を得るなど夢のまた夢、つまり『荊州3郡』を返還する気などない、と言っているようなものでした。

 もちろん孫権は激怒します。そうしてあわや全面戦争に突入するという所で、曹操が劉備の領地に侵攻を開始したのです。

 劉備にしても益州をとられてはたまらない、と孫権に和解を申し入れました。

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軍神「関羽」を討伐することを決意した孫権

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 219年、孫権は和解を申し出たのならば、と自身の息子と蜀の英雄「関羽」(かんう)の娘との婚姻を申し入れました。しかし、関羽はこれを手酷い言葉で罵倒し、跳ねのけたのです。

 これには孫権も怒りが収まりません。とうとう関羽を討伐することを決意したのです。

 関羽は劉備より荊州の守備を任されていました。曹操にも孫権にも接しているこの地を守れるのは軍神と呼ばれる関羽しかいない、という劉備の考えでした。関羽が軍を率い北上を始めるとこれを機と見た孫権は、配下の「呂蒙」と「陸遜」を派遣しました。

 まずは「呂蒙」が南郡・零陵・武陵の3郡の奪還を成功すると、それを見た関羽は益州へと撤退を始めます。しかし、孫権軍の勢いは凄まじくあっという間に荊州全土を奪還すると、孫権自らも出陣していたのです。

 関羽は益州に逃れるのは困難であると判断すると、西方にある『麦城』で籠城することとなりました。とうとう包囲されてしまった関羽は、孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、これに応じます。

 しかし、これは偽の降伏でした。城上に人形を立てたまま逃走を図りました。孫権は再び関羽を追撃すると、とうとう捕らえることに成功したのです。

 孫権の思惑としては、関羽の武術は惜しかったのでしょう。生かした後に劉備や曹操との決戦で使いたい、と思ったものの、配下たちより「狼の子を飼うことなど出来ません。曹操は彼を排除する機会を得ながらも惜しみ、しなかった、それが大きな心配事になってしまった、今、どうして生かしておけましょう」と、進言を貰い、最もだ、と関羽を斬首しました。

曹操の死去、後を継いだ曹丕との関係

 220年、曹操は病により死去、同時に息子である「曹丕」(そうひ)がその後を継ぎました。孫権は、その動きを見ると曹丕に近づきます。互いに使者を派遣しあう安定した関係を築いていきました。

 曹丕は、献帝から禅譲を受けると皇帝となり『魏』を建国したのです。同時に、孫権は魏の家臣となり『呉王』の位を受けました。

 こうして孫権は、魏を利用した形で北方の憂いを無くしました。

『蜀』、そして『魏』との戦い

 222年、関羽の敵討ち、そして荊州奪還のために劉備軍が侵攻してきました。孫権はそれに対し『夷陵』で迎え撃ち、打ち破りました。こうして荊州の領有もまた盤石なものにしていきます。

 劉備軍を打ち破りその和解を受け入れると、三国の領域は確実なものとなりました。ここまで来ると、孫権の勢力も大きくなり、魏の下にいる必要はなくなります。曹丕からの要求を悉く跳ねのけるようになりました。

 当然、曹丕は激怒し、孫権の領内への侵攻を開始します。しかし『赤壁の戦い』で守り抜いた長江は天然の要塞となり、幾度も魏軍を跳ねのけました。時には曹丕自らが侵攻してきた時も、策によって損害を出すことなく撤退させることにも成功したのです。

48歳、『呉』の国を建国し、皇帝となる

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閻立本 - http://hi.baidu.com/%CB%CE%BE%FC%D2%C5%C3%F1/album/%D1%D6%C1%A2%B1%BE%20%C0%FA%B4%FA%B5%DB%CD%F5%CD%BC%BE%ED, パブリック・ドメイン, リンクによる

 229年、『呉』の国が建国されます。臣下達からの進言により孫権は帝位に即くことになりました。各地で伝説上の生き物である『黄龍』が見られたという話が伝えられ、元号を『黄龍』と改めます。

 蜀内部の動きとしては、呉との同盟関係を維持するために、帝位を認めることとしました。そして使者を派遣すると、魏を討伐した後の領地の話し合いが行われます。

 この結果、呉に属すのが『幽州、豫州、青州、徐州』、蜀に属すのが『兗州、冀州、并州、涼州』となり、『司州』は『函谷関』(かんこくかん)を境に東西で分割することを誓約し合ったのです。

 そして、『呉』の都は『建業』(けんぎょう)に遷都することになりました。

晩年の孫権は、臣下を死に追いやるなど、暴君の様相が見えてくる

 国内の更なる発展のため、230年(黄龍2年)、「衛温」「諸葛直」の二名に兵を与え、『夷州』と『亶州』の探索を行わせました。しかし、約1年後に二人が帰国すると碌な成果もあげられていない、と処刑してしまうのです。

 さらには、太子(跡継ぎ)として指名した「孫和」がいながらも、「孫覇」を寵愛し、同等の処遇としていました。これによって国内に『孫和派』と『孫覇派』が生まれ、後継者争いが勃発してしまいます。孫権はこれを防ごうと人の出入りと禁じ、学問に励むよう言いますが、争いは大きくなるばかりでした。

 とうとう後継者を巡る息子たちの争いに嫌気が差した孫権は、末子の『孫亮』を寵愛するようになってしまいます。そして250年にはなんと二人の兄を差し置き、『孫亮』を太子に任命したのです。

\次のページで「「孫権」の後継者争いにより、『呉』の国力は衰えた」を解説!/

「孫権」の後継者争いにより、『呉』の国力は衰えた

 後継者に孫亮が指名され、対立は収束すると思いきや、ここまで大きくなった対立は、各地の豪族の間に埋められない溝を生んでいました。

 このことで多くの豪族を処分し、国の主権が奪われることすら懸念した孫権は、官僚の弾劾や豪族の圧などにより力を削り、孫家の君主兼強化を目指したのです。これは後に『二宮事件』と呼ばれました。

 これらの動きは、結果的に『呉』の国力自体を削る結果となってしまい、『魏』や『蜀』との争いどころではなくなってしまったのです。

 252年4月25日、孫権は病で亡くなります。そして、二代目皇帝は『孫亮』となりました。

偉大な父兄から引き継ぐも、次世代には引き継げなかった男

 孫権仲謀は、三国時代の始まりに生まれ、その死と共に三国時代は収束に向かっていきました。孫権は、配下に恵まれ、才能に恵まれ乱世を駆け抜けていった英傑でしょう。

 孫権死後の『呉』は、衰退の道を辿っていきます。最後は『晋』に降伏する形でその姿を消していってしまいました。

 ただ一つ孫権の欠点を上げるならば、強大な『呉』の国を作り上げながらも、父や兄のように、「孫権」という優秀な後継者に恵まれなかったということでしょうか。

 もしくは、息子達の扱いを平等に、贔屓していなければ国の終末はまた違った形があったのでは、と思ってしまいますね。

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三国時代・三国志世界史中国史歴史

【三国志】『呉』の国、初代皇帝「孫権」その一生を中国史マニアがわかりやすく解説

今日は、三国時代の一角を担う『呉』の皇帝となった「孫権」について、勉強していこう。

名門の武家『孫家』に生まれ、わずか19歳の時にその家督を引き継ぐことになった「孫権」は、呉の皇帝にまで上り詰めていったんです。数多の武将達が散っていく中で、彼がそこまで上り詰めることの出来た理由とは何だったのか。晩年は、暴君とも呼べる行いが増えていき、最後はうまく後継者の指名が出来ず、造り上げた『呉』の国力を自らの手で削っていってしまう。まさに人生そのものが三国時代であった「孫権」の一生を、わかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「孫権」について、わかりやすくまとめた。

始まりは父「孫堅」の死から、兄と共に戦地に赴く

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不明w:Image:Sun Ce Portrait.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

 「孫権」(そんけん)の生まれは、182年。『呉郡』(ごぐん)というところであり、字は「仲謀」といいます。この地は後に建国することになる『呉』(ご)の国に含まれ、故郷に盤石な地盤を築いていったのだと思われますね。

 そんな孫権ですが、9歳の時に父である「孫堅」(そんけん)が、戦死してしまいます。孫堅戦死の原因となったのは「黄祖」(こうそ)という武将で、彼の部下が射殺したのです。この黄祖との戦いは、長く続き、孫権を語るうえで無視することは出来ません。

 195年、孫権13歳の時に兄である「孫策」(そんさく)が『江東』(こうとう)で挙兵します。孫策の勢いは凄まじく、あっという間に勢力を拡大していくのです。この戦いの中で孫権もまた初陣を迎え、この頃孫権は周辺の住人と非常に親しい仲であったといいます。そうして孫権の名が知られるようになると、その名声は父や兄にも引けを取らないものになっていきました。

 孫策の下で孫権は徐々にその才能を発揮していき、軍会議では様々な計略を提案していったといいます。そんな孫権を見た孫策は、彼を大変な逸材として自身では及ばないと考えていったそうです。

わずか19歳で江東を治め、孫氏の家督を継ぐこととなる

 兄「孫策」と共に乗り出した『江東平定』は4年の歳月に及び、その際には「劉表」(りゅうひょう)の配下であり、父の仇である「黄祖」とも交戦します。

 この黄祖との戦いは孫策軍の大勝に終わったのですが、あと一歩という所で黄祖に逃げられてしまうのです。しかし、この戦いが決め手となり、孫策の江東平定は成りました。

 そのわずか1年後、200年の春に、孫策は暗殺により殺害されてしまいます。孫策の存在を危惧し、中央に召還すべし、と表明していたため処刑した「許貢」(きょこう)という役人の配下によるものです。

 こうして孫策は父・兄の後を継ぎ、江東一帯を制することになります。なんとわずか19歳の出来事でした。

優秀な配下に恵まれた「孫権」は、父の敵討ちを果たす

Sun Jian Qing dynasty illustration.jpg
Unknown author – Zengxiang quantu Sanguoyanyi Taken from http://threekingdoms.wikia.com/wiki/File:Sun_Jian_-_Qing_ZQ-SGYY.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

 家督を継いだ孫権がまず注力したのは、優秀な人材の登用でした。父や兄の代から仕える「周瑜」(しゅうゆ)「程普」(ていふ)「呂範」(りょはん)などをまとめ上げ、周瑜から「魯粛」(ろしゅく)を推薦されるとそれを受け入れます。

 さらには、「陸遜」(りくそん)「諸葛瑾」(しょかつきん)「呂岱」(りょたい)「徐盛」(じょせい)「朱桓」(しゅかん)など、後々まで活躍する優秀な武将を集めていきました。

 巧みな人心掌握術で家臣の心を掴んでいった孫権は、彼らを領地内の平定のために派遣し、国内の安定を計ります。

 これらは、魯粛からの提案で「北の曹操に対して丁寧に力をつけていくべきであり、その方法としては、荊州の劉表・黄祖を攻め、長江を利用しては」というものを採用したものと思われますね。

 そうして力をつけた孫権は、208年に『江夏』(長江の南河岸)に自ら攻め入りました。これは2度目の侵攻であり、1度目は国内の反乱鎮圧のため撤退しているのです。しかし、此度の侵攻は成功し、無事父の仇である黄祖を打ち取ると、江南の制圧に成功しました。

同年、北から魏の「曹操」が攻め入ってくる

 劉表・黄祖との戦いに勝ち、領地を得た孫権でしたが、その同年(208年)、恐れていた「曹操」(そうそう)が北より攻め入ってきました。

 この時の曹操陣営は、天下統一に最も近い勢力として恐れられていたのです。孫権軍内では、降伏を主張する一派と、交戦を主張する一派とで意見が対立してしまいました。

 しかしこの時、後に『蜀』を建国することになる劉備が、命からがら孫権の領地へと逃げ延びてきたのです。これには名軍師「諸葛亮」(しょかつりょう)も共にいました。

 孫権の配下、魯粛と諸葛亮は共に手を組み交戦すべきだと述べ、孫権もそれに同意します。しかし、陣内では未だ降伏派が大多数を占めており、難色を示す者もおりました。

 そんな者たちに孫権は、剣を抜くと目の前の机を斬りつけて「今後、異議を唱える者はこれと同じ運命を辿ると思え」と、一括したのです。

 こうして、孫権陣営は曹操との対決を決意しました。

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