今回はエリザベート皇后を取り上げるぞ。美人で有名ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの王族の歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの王室の歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、エリザベート皇后について5分でわかるようにまとめた。

1-1、エリザベートはドイツの生まれ

エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハは、1837年12月24日にバイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女としてミュンヘンで誕生。

きょうだいは10人(2人夭折)兄と姉がいてエリザベートは上から3番目、弟と妹が3人ずつ。尚、日本語でエリザベートと言われますが、ドイツ語ではエリーザベトが正しいということ。そして愛称はシシー、ここではエリザベートで統一。

1-2、エリザベートの子供時代

エリザベートの生家は、変人が多いと言われたヴィッテルスバッハ家の傍系貴族。父マクシミリアン公爵は、教養はあるが放浪癖があり自由気ままな気質だったということで、エリザベートら子供たちはしきたりなどに縛られず、夏はシュタルンベルク湖の畔に立つポッセンホーフェン城、冬はミュンヘンの邸宅で伸び伸びと馬や犬と遊び、詩を書いて育ったそう。

父マクシミリアンとお気に入りの娘だったエリザベートが街に出かけて、チター奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮した話は有名。

母ルドヴィカはバイエルン国王マクシミリアン1世の王女で、夫のマクシミリアン公爵との結婚は政略結婚。しかしルドヴィカの姉妹は全員王族と結婚したため、自分だけが格の落ちる家柄の夫と結婚して王女から公爵夫人となったと思っていたうえ、家族を置いてひとりでふらりと旅に出たりと王族らしくない生活を好み、大勢の子供たちのこともきちんと教育したり将来を考えたりしない夫とはあまり合わなかったということ。

1-3、エリザベート、姉のお見合いについて行き運命が激変

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フランツ・ヴィンターハルター - 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

エリザベートの母ルドヴィカの姉のゾフィーは、オーストリアのハプスブルグ家のフランツ・カール大公と結婚、その長男のフランツ・ヨーゼフがオーストリア皇帝となり、お妃探し中。

最初はプロイセン王女アンナ(ゾフィー大公妃とルドヴィカの姉の娘)が候補で、フランツ・ヨーゼフも気に入ったのに、アンナはすでにヘッセン選帝侯国フリードリヒ・ヴィルヘルム王子と非公式に婚約が決定していたため、エリザベートの姉でおとなしい18歳のヘレーネを候補としてお見合いさせることに。母ルドヴィカも娘がオーストリア皇后になるなんてと大乗り気になったそう。

そして1853年8月、母ルドヴィカは軽い気持ちで、まだ15歳だったエリザベートの親戚との社交見習いのつもりで、一緒にお見合いのために避暑地のバート・イシュルへ連れて行くことにしたのが、運の尽き。

22歳のフランツ・ヨーゼフはエリザベートに一目惚れ、ヘレーネの後ろにいるエリザベートしか見ず、あれほど母ゾフィーの言うことならなんでも聞いていたのに、エリザベートと結婚すると言い張り、恋に夢中な青年に。ゾフィーは自由奔放なエリザベートが気に入らず、歯並びが悪いとか歯が黄色いとかエリザベートの欠点をあげつらって大反対したが、ゾフィー大公妃の言うことなら何でも聞いたはずのフランツ・ヨーゼフ皇帝は、このときだけは母の言うことを聞かず、反対を押し切ってエリザベートと結婚することに。

1-4、エリザベート、お妃教育でハンガリーに出会う

婚約が決まったエリザベートは、色々な国を治めるハプスブルグ家の未来の皇后となるために、語学教育から始まって、歴史などについてお妃教育をみっちりと詰め込まれたが、じっとしていることが嫌いなアウトドア派、押し付けられるのが嫌いなためか、度々ヒステリー、癇癪を起したりで身に付かず、このときに初めてハンガリー語を学んだが、唯一ハンガリーについてだけは大変な興味を持つようになったそう。

1-5、エリザベート、ウィーンへ嫁入り

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Emil Rabending - Scanned by User:Csanády, パブリック・ドメイン, リンクによる

恋するフランツ・ヨーゼフは幸せいっぱいで、エリザベートに数々の宝石や花、そしてオウムなどプレゼント攻めにしたということだが、エリザベートは「あの方が皇帝ではなかったらいいのに」と、恋される嬉しさに酔っている感じ。1854年4月、ウィーンで盛大な結婚式が行われ、若く美しい16歳の新皇后は大歓迎されたが、実の伯母のゾフィー大公妃が君臨するしきたりづくめの宮殿で、孤立しすぐにうつ病気味に。

\次のページで「2-1、エリザベートの嫌った宮廷生活」を解説!/

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バラバーシュ・ミクローシュ - Web Gallery of Art:   画像  Info about artwork, パブリック・ドメイン, リンクによる

フランツ・ヨーゼフ皇帝とその母ゾフィーとは
フランツ・ヨーゼフは、オーストリア・ハンガリー帝国のフェルディナンド皇帝の弟フランツ・カール大公と、エリザベートの母バイエルン王女ルドヴィカの姉ゾフィーとの間に、4男1女の長男として誕生。

フェルディナンド皇帝はてんかん発作持ちで子供がなく、次弟であるフランツ・ヨーゼフの父フランツ・カール大公もてんかん持ちだったので皇位継承を辞退、子供の頃からフランツ・ヨーゼフに次の皇帝位が約束されていたそう。そして1848年に子供がいなかった伯父フェルディナンド1世の退位後に18歳で即位。

尚、フランツ・ヨーゼフの母ゾフィー大公妃は、夫フランツ・カール大公の病気のことは承知で結婚した人。そして息子フランツ・ヨーゼフが生まれると、未来の皇帝として厳しくしつけて教育し、皇帝になった後も息子に対して「自分のおかげで皇帝になれた」と恩を着せて宮廷でも女官たちに皇后陛下と呼ばせ、ウィーン宮廷を牛耳っていた人。そういう母に対し、フランツ・ヨーゼフは皇帝になっても頭が上がらず、絶対服従だったということ。

2-1、エリザベートの嫌った宮廷生活

image by PIXTA / 25653585

エリザベートは皇后として、夫の皇帝フランツ・ヨーゼフからティアラから宝石、馬や別荘など何でも欲しいものは与えられましたが、今までの生活とは正反対の堅苦しいウィーンの宮廷での生活は我慢できなかったよう。主なものをご紹介しますね。

2-2、ビールが飲みたい

ミュンヘン生まれのドイツ人であるせいか、エリザベートは食事中にビールが飲みたいと言ったが、ハプスブルグ家のしきたりでは食事中のビールはもってのほかだったとか。

2-3、妊娠中に人前に出て散歩

エリザベートは元々人前に出るのが嫌いで人見知りする性格、結婚式後もハネムーンはなく朝は家族全員で食事と言われ、プライバシーも何もない状態。そして結婚してすぐ妊娠すると、姑のゾフィー大公妃はエリザベートに宮殿内の民衆に開放された庭に出て散歩し、愛想を振りまくように命令され、大きくなるお腹を人目にさらしたくない気持ちもあり、またそんなパフォーマンスも嫌いだったのでかなり苦痛だったということ。

2-4、ゾフィー大公妃に敬語を使え

「麗しの皇妃エリザベート」によれば、ゾフィー大公妃はエリザベートの母の姉で実の伯母でもあるため、婚約中にエリザベートはゾフィー大公妃に宛てて書いた手紙で、親しみを込めたつもりでドイツ語のduを使ったところ、敬語であるSieを使え、自分もそうしているからとフランツ・ヨーゼフに注意されたそう。エリザベートは詩人でもあるため、親愛なる尊敬する大公妃殿下と心にもない嘘を書くことや、堅苦しい決まり文句の手紙を書くのはむなしかったそう。

2-5、子供が生まれても取り上げられた

エリザベートは結婚後まもなく長女が生まれたが、エリザベートに何の相談もなく、ゾフィー大公妃にちなんでゾフィーと名付けられたうえ、ゾフィー大公妃が4人の息子を育てた経験を楯にエリザベートには育てさせられないと取り上げられ、次に生まれた次女ギーゼラも同じに。エリザベートが子供に会うのは1日に1時間だけで監視付きだったそう。

しかしエリザベートはゾフィー大公妃に抵抗し、1857年のハンガリー公式訪問のときに姑の反対を押し切り、幼い2人の娘を同行させたが、旅行中に娘たちは体調を崩し(チフスだったよう)、長女ゾフィーは1857年5月29日、2歳で死亡したため、責任を感じたエリザベートは次女ギーゼラの養育も姑に任せきりになり、1858年8月に生まれた長男ルドルフもゾフィー大公妃が育てたということ。

離れて生まれた末子のマリー・ヴァレリーは自分の手元に置きあちこちに連れ歩いて自分で育てたが、上の子たちはエリザベートにあまり懐かなかったということで、特に長男で皇太子のルドルフが繊細な子なのに思うように教育できなかったことで親子の関係もややこしくなったよう。

2-6、女官がスパイ

エリザベートは実家から侍女を連れて来ることは許されず、結婚当初、まわりにいるのは姑ゾフィー大公妃の息のかかった女官たちばかりでプライバシーゼロの状態。しかも一挙一動を監視されているもので、何かミスをすると大事件のように針小棒大になって必ずゾフィー大公妃の耳に入り、後で叱責されることに。

エリザベートは、伸び伸びと野生の少女のように自然の中で馬や犬と戯れて育った人なので、古臭い宮廷の慣習の枠にはめようとするゾフィー大公妃と合うわけがなく、今でいうノイローゼ、うつ病的になっていったということ。

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3、エリザベート、ノイローゼ気味になり転地療養に

エリザベートはゾフィー大公妃との対立や、堅苦しい宮廷での生活、そして母親として子供たちにおもいきり愛情を注ぐことも出来ず、ノイローゼ気味になっていき、1860年に医師に転地療養を勧められて北大西洋のマデイラ島(ポルトガル領)で療養を行ったのがきっかけになり、その後、エリザベートはまるで放浪するようにウィーンに居つかずヨーロッパ各地や北アフリカの各地を旅行する生活に。

4-1、エリザベートの逸話

image by PIXTA / 41432544

エリザベートは最初の転地療養後、ほとんどウィーンに居つかず、皇后、妻、母としての役目や義務はまったく果たさず特権を享受するようになったという、言ってみれば自己中な女性。さらに、死に対しては異常な関心を持ち続けたかと思えば、美貌を保つために必死になり、憂鬱なウィーンの宮廷を出て放浪の旅に出ることが多かった、そしてそれらには莫大なお金がかけられていた、というエリザベートの側面がわかるような逸話をご紹介しますね。

4-2、美貌を保つのに命とお金をかけた

エリザベートは子供4人を出産後も、身長170wp_、体重50kg、ウエスト50wp_キープと美貌を保つのに固執。抜群のプロポーション維持のため、背筋をまっすぐするため枕を使わず、先進的な美容体操、競歩、曲芸のような激しい乗馬に励み、そしてベジタリアンとなり、果物、野菜ジュースだけとか、特別な職人を雇って作らせた牛乳の乳清とか、生に近い豚肉を食べたり、加熱した牛の血を飲むとか、色々なダイエットに凝って体を壊すほどだったそう。

また腰まで長く1mもある美しい自慢の亜麻色の髪は、30個の卵と香料入りコニャックで毎回3時間もかけて手入れをさせ、髪が1本でも抜けるとヒステリーを起こすので専属美容師は気を使い、2時間かけて髪を結ったということ。またエリザベートは歯並びが悪いことを気にしていて、人前で話すときは扇で口を隠す、なるべく口を開けないように話すので何を話してもよくわからないため、晩さん会でのお客との会話など頓珍漢な応答になることが多かったそう。

4-3、旅行に別荘に浪費三昧

エリザベートは、ルイ16世の王妃でハプスブルグ家出身のマリー・アントワネット以上の浪費家といわれ、フランツ・ヨーゼフ皇帝は、エリザベートには豪華な宝石、ドレスはもちろんのこと、ギリシアのコルフ島にエリザベートの大好きなホメロスの詩を思わせる絢爛豪華なアキレイオン城の建設(すぐ飽きたそう)、数十人のお付きを連れたお忍び旅行(偽名を使ってもすぐばれたそう)でのエリザベート専用の贅を尽くした専用の船やお召し列車、すべて嫌とは言わず好きなように使わせたということ(もちろん税金です)。

そして自分の女官は姑のゾフィー大公妃に当てつけたせいか、マジャール人ばかりを雇い、そして彼女らには控えめに振舞えとか、自分の旅行への付き添いに結婚の禁止を言い渡したそう。

4-4、エリザベート、ハンガリーのために尽力

エリザベートは、お妃教育でハンガリーを知ったときから当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーに興味を抱いていたが、ゾフィー大公妃がマジャール人嫌いということの反発もあったのか、エリザベートのハンガリーへの熱愛ぶりはハンガリー語を身に付けただけでなく、穏健独立派のハンガリー貴族であったジュラ・アンドラーシ伯爵と知り合ったせいもあり、1866年の普墺戦争敗北ののちの翌年、アウスグライヒ(妥協)締結でハンガリーの自治権を認める陰の推進者となるまでに。尚、アンドラーシ伯爵はハンガリー王国の初代首相、帝国外相。

\次のページで「4-5、ハイネとホメロスを愛した」を解説!/

4-5、ハイネとホメロスを愛した

エリザベートは、オーストリアハプスブルグ家の皇后の地位にありながら、君主制、貴族制を軽視し、「革命詩人」のハインリヒ・ハイネを崇拝したそう。しかしハイネは当時、急進自由主義で社会批判家で貴族階級や宮廷では危険視されていた人物であったので、夫のフランツ・ヨーゼフ皇帝の頭痛の種。またエリザベートは古代ギリシアのホメロスの詩がお気に入りで、原語で読みたいと終生ギリシア語を学んだということ。

4-6、バイエルン王ルートヴィヒ2世の憧れの存在だった

ノイシュバンシュタイン城を作り、神話の世界に夢中だったあのバイエルン王ルートヴィヒ2世は同性愛者で女性嫌いだったのですが、エリザベートが同じヴィッテルスバッハ家の一族でもあり、唯一と言える女性の理解者として心を許す存在だったよう。エリザベートは、ルードヴィヒと自分の妹ゾフィー・シャルロッテに結婚をすすめ、1864年1月、ルートヴィヒはゾフィーと婚約。しかしルードヴィヒは挙式を次々と延期し、結局は婚約を解消したため、エリザベートはさすがに怒って絶縁したが、同じ気質の2人はすぐにまた夢の世界や芸術家について語る仲に戻ったそう。エリザベートは、ダイエットでプロポーションを保っていたが、美青年だったルートヴィヒ2世がだんだんと醜く太っていくと嘆いていたということで、ルードヴィヒ2世が湖で亡くなったとき、エリザベートは葬儀にも出られないほどのショックを。

5-1、息子の皇太子ルドルフが情死

エリザベートの息子ルドルフは、母に似て自由主義的な考えが父フランツ・ヨーゼフと合わなかったということ。1881年、ルドルフはベルギー王レオポルド2世の次女ステファニーと結婚したが、エリザベートはステファニーを気に入らず、ルドルフもなぜか母に反抗する態度で、自身もあまり気に入らなかったというステファニーと結婚。1883年、ひとり娘エリザベートが生まれたが、ステファニーはルドルフに性病を移されたために子供の産めない体になり、皇太子夫妻は冷え切った仲に。

ルドルフは結婚以前から、色々な女性たちと関係があったが、1888年末頃、16歳のマリー・ヴェッツェラと出会い、教皇レオ13世に、皇太子妃ステファニーとの離婚を求める手紙を送るまでに。教皇からは許可を得られなかったが、返事がルドルフではなく、ローマ駐在のオーストリア外交官から父フランツ・ヨーゼフ1世に伝わったため、父フランツ・ヨーゼフに激しく叱責されたそう。また、ルドルフはオーストリアの政策に対しても、ドイツの宰相ビスマルクに不信感を抱き、オーストリアがドイツ頼みの政策なのを嫌っていたということで、ロシア、フランスとオーストリアとの同盟を構想し、独自にフランスに積極的に接近、そして秘密裡にロシアに赴いたことが1889年1月に新聞の暴露記事となったため、激怒した父フランツ・ヨーゼフがルドルフを呼びつけて叱責したということ。

そしてルドルフはマリー・ヴェッツェラとともにマイヤーリンクの狩猟館に赴き、1月30日早朝、31歳のルドルフとマリーは拳銃で情死。母エリザベートは、大きなショックを受け、ルドルフを死に駆り立てたのは自分の家系のせいだと自分を責めたそう。国葬にも参列せず、その後は黒い喪服を着て悩みつつすごすように。

尚、ルドルフは自殺願望があったとも言われるが、このマイヤーリンクの心中事件は自殺ではなく暗殺であるという説もあり。

5-2、エリザベート、無政府主義者に暗殺される

1889年9月10日、エリザベートは滞在中だったスイスのジュネーヴのレマン湖畔で遊覧船に乗る直前に、暴漢に襲われて心臓をやすりで一突きにされ、出血もなく何が起こったかわからず、歩いて船に乗ったが突然倒れて60歳で死去。

犯人はイタリア人の25歳のルイジ・ルケーニという無政府主義者で、王族や貴族、金持ちならだれでも良かったと言い、その後刑務所内で自殺。次の皇帝となったフランツ・ヨーゼフ皇帝の甥の息子であるカール1世のチタ皇后によれば、フランツ・ヨーゼフ皇帝は1916年11月に亡くなるまで、エリザベートをどれだけ愛したか誰にもわからないだろうと繰り返し言ったそう。存命中はともかく暗殺されたことでエリザベートは、いっそう伝説となったのは間違いないかも。

たいへんな美貌の女性だが、オーストリア皇后には向いていなかった

エリザベートはドイツのバイエルン王家の傍系に生まれ、自由奔放に育ち、姉へレナのお見合い相手の従兄のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフに一目惚れされ結婚。

伯母である姑は、エリザベートを厳格な宮廷生活の枠にはめようとビシバシと教育、愛する夫のフランツ・ヨーゼフは激務でエリザベートを構う暇がなく、子供が生まれても姑が取り上げてしまうなどで、エリザベートは姑とのバトルでとうとうノイローゼとなり転地療養。しかし良くなってウィーンに帰って来ると、また具合が悪くなるために、エリザベートはほとんどウィーンに居つかず、ヨーロッパを転々と放浪することに。

王妃、皇后というのは宮廷で行われる行事、晩さん会などでホステスを務め、貴族の女性のリーダー的役割も求められてなんぼという地位なのですが、エリザベートはそういう皇后としての義務を放棄し、詩集を胸に贅沢な旅を続け、自らの美を保つことや趣味に莫大なお金をかけても満足できなかったよう。たしかに美貌はヨーロッパ中に鳴り響くほどで民衆も歓喜し、後世にも残る感動ものの美しさで、暗殺により伝説の美貌の皇后として歴史に残ったものの、自分に似た気質の最愛の息子は情死か暗殺か先に亡くなるなど、エリザベートは満足する一生だったでしょうか。

そしてその後のハプスブルグ家の行く末を考えると、フランツ・ヨーゼフが母の言うことを聞いて、おとなしい姉のヘレーネと結婚していればまた違った道があったのではと考えざるを得ないですね。

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悲劇の生涯を送った「エリザベート」美貌の皇后を歴女がわかりやすく解説

今回はエリザベート皇后を取り上げるぞ。美人で有名ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの王族の歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの王室の歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、エリザベート皇后について5分でわかるようにまとめた。

1-1、エリザベートはドイツの生まれ

エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハは、1837年12月24日にバイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女としてミュンヘンで誕生。

きょうだいは10人(2人夭折)兄と姉がいてエリザベートは上から3番目、弟と妹が3人ずつ。尚、日本語でエリザベートと言われますが、ドイツ語ではエリーザベトが正しいということ。そして愛称はシシー、ここではエリザベートで統一。

1-2、エリザベートの子供時代

エリザベートの生家は、変人が多いと言われたヴィッテルスバッハ家の傍系貴族。父マクシミリアン公爵は、教養はあるが放浪癖があり自由気ままな気質だったということで、エリザベートら子供たちはしきたりなどに縛られず、夏はシュタルンベルク湖の畔に立つポッセンホーフェン城、冬はミュンヘンの邸宅で伸び伸びと馬や犬と遊び、詩を書いて育ったそう。

父マクシミリアンとお気に入りの娘だったエリザベートが街に出かけて、チター奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮した話は有名。

母ルドヴィカはバイエルン国王マクシミリアン1世の王女で、夫のマクシミリアン公爵との結婚は政略結婚。しかしルドヴィカの姉妹は全員王族と結婚したため、自分だけが格の落ちる家柄の夫と結婚して王女から公爵夫人となったと思っていたうえ、家族を置いてひとりでふらりと旅に出たりと王族らしくない生活を好み、大勢の子供たちのこともきちんと教育したり将来を考えたりしない夫とはあまり合わなかったということ。

1-3、エリザベート、姉のお見合いについて行き運命が激変

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フランツ・ヴィンターハルター不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

エリザベートの母ルドヴィカの姉のゾフィーは、オーストリアのハプスブルグ家のフランツ・カール大公と結婚、その長男のフランツ・ヨーゼフがオーストリア皇帝となり、お妃探し中。

最初はプロイセン王女アンナ(ゾフィー大公妃とルドヴィカの姉の娘)が候補で、フランツ・ヨーゼフも気に入ったのに、アンナはすでにヘッセン選帝侯国フリードリヒ・ヴィルヘルム王子と非公式に婚約が決定していたため、エリザベートの姉でおとなしい18歳のヘレーネを候補としてお見合いさせることに。母ルドヴィカも娘がオーストリア皇后になるなんてと大乗り気になったそう。

そして1853年8月、母ルドヴィカは軽い気持ちで、まだ15歳だったエリザベートの親戚との社交見習いのつもりで、一緒にお見合いのために避暑地のバート・イシュルへ連れて行くことにしたのが、運の尽き。

22歳のフランツ・ヨーゼフはエリザベートに一目惚れ、ヘレーネの後ろにいるエリザベートしか見ず、あれほど母ゾフィーの言うことならなんでも聞いていたのに、エリザベートと結婚すると言い張り、恋に夢中な青年に。ゾフィーは自由奔放なエリザベートが気に入らず、歯並びが悪いとか歯が黄色いとかエリザベートの欠点をあげつらって大反対したが、ゾフィー大公妃の言うことなら何でも聞いたはずのフランツ・ヨーゼフ皇帝は、このときだけは母の言うことを聞かず、反対を押し切ってエリザベートと結婚することに。

1-4、エリザベート、お妃教育でハンガリーに出会う

婚約が決まったエリザベートは、色々な国を治めるハプスブルグ家の未来の皇后となるために、語学教育から始まって、歴史などについてお妃教育をみっちりと詰め込まれたが、じっとしていることが嫌いなアウトドア派、押し付けられるのが嫌いなためか、度々ヒステリー、癇癪を起したりで身に付かず、このときに初めてハンガリー語を学んだが、唯一ハンガリーについてだけは大変な興味を持つようになったそう。

1-5、エリザベート、ウィーンへ嫁入り

Erzsebet kiralyne photo 1867.jpg
Emil Rabending – Scanned by User:Csanády, パブリック・ドメイン, リンクによる

恋するフランツ・ヨーゼフは幸せいっぱいで、エリザベートに数々の宝石や花、そしてオウムなどプレゼント攻めにしたということだが、エリザベートは「あの方が皇帝ではなかったらいいのに」と、恋される嬉しさに酔っている感じ。1854年4月、ウィーンで盛大な結婚式が行われ、若く美しい16歳の新皇后は大歓迎されたが、実の伯母のゾフィー大公妃が君臨するしきたりづくめの宮殿で、孤立しすぐにうつ病気味に。

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