
1-4 オーストリア継承戦争へ
マリア・テレジアはハンガリーからの援助を受けるため、粘り強く議会に対して働きかけることに。しかし当時のハプスブルク家とハンガリーは敵対しており、簡単には強力を得られることではありません。しかしマリア・テレジアの必死の願いに心を動かれた議会は彼女のために派兵することに。
さて、1740年に始まったオーストリア継承戦争はどのような展開となったのでしょうか。まずプロイセンがシュレジエンを占領したために起こったシュレジエン戦争。プロイセン軍はシュレジエンの中心都市を占領し、フランスはプラハを占領することに。更に翌年にはバイエルン公が神聖ローマ皇帝に選ばれ、カール7世と名乗る事態に。しかしながら44年からイギリスが直接介入したため、プロイセンが再びシュレジエンに兵を出して戦争が継続することに。オーストリアは孤軍奮闘することになりますが、イギリスからの援助を受けたことと更にイギリスが植民地戦争で戦況を優位にすすめたため、アーヘンの和約を結ぶことになりました。
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1-5 アーヘンの和約で終結
1748年にオーストリア継承戦争に終わりを告げるアーヘンの和約が結ばれることになりました。この和約は一体どんな内容だったのでしょうか。
この和約によってマリア・テレジアはシュレジエンを失う代わりにハプスブルク家の家督の相続が認められることに。ちなみに神聖ローマ皇帝ですが、彼女の夫フランツが選出され、フランツ1世となることに。ハプスブルク家は代々神聖ローマ皇帝を世襲してきましたが、マリア・テレジアは女性であったことから皇帝となることができなかったのです。そのため彼女の正式な肩書はオーストリア大公であり、神聖ローマ皇帝妃。しかし実際の政治などではほぼ彼女が指揮をしていたため、女帝と呼ばれています。
2 なぜ7年戦争が起こったのか?
7年戦争がなぜ起こったのかを見ていくには、この戦争が起こる前に起こったオーストリア継承戦争の経緯についてみることがとても重要です。オーストリア継承戦争によってマリア・テレジアはフリードリヒからシュレジエンを奪われてしまうことに。彼女はシュレジエンを取り戻すため、周到に準備を行い7年戦争を起こしました。それではその経緯について詳しく見ていきましょう。
2-1 シュレジエン泥棒
オーストリア継承戦争では、絶対絶命のピンチを乗り越え、オーストリアの継承と神聖ローマ皇帝の地位を手放さずに済んだマリア・テレジア。しかし工業が盛んなシュレジエンをフリードリヒに奪われてしまうことに。この件から彼女はフリードリヒを激しく憎み、シュレジエン泥棒やモンスター、悪魔などと罵ります。なんと彼が愛飲していたコーヒーについても文句をつけるほどだったそう。彼女はシュレジエンの奪回のため、動きました。
2-2 マリア・テレジアの外交革命
フランソワ・ブーシェ – scan by User:Manfred Heyde, パブリック・ドメイン, リンクによる
プロイセンからシュレジエンを奪回するため、長年ハプスブルク家と敵対していたフランスのブルボン家と手を組むことに。これは外交革命と呼ばれています。ちなみにマリア・テレジアが起用した、カウニッツ伯が彼女に対して推進したそう。彼はフランスへ赴き、ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人を動かすことに成功。更にロシアのエリザヴェータ女帝も誘い、プロイセンを包囲することに。ちなみにこのことを、三国を事実上動かしていたのが女性だったため、3枚のペチコート作戦と呼ばれることに。ちなみに外交革命の一環として、マリア・テレジアの末娘のマリー・アントワネットがフランスへ嫁ぐことが決まったそう。もしも彼女ではなく、彼女の他の姉がルイ16世のもとへ嫁いでいたら処刑されることもなかったのかもしれませんね。
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2-3 フリードリヒの先制攻撃
さて、追い詰められたのはプロイセンのフリードリヒ2世。ちなみにこの時の勢力関係は変わっており、マリア・テレジア側には、フランス、ロシア、スペイン、スウェーデン。プロイセンにはイギリスが付くという状況。オーストリア継承戦争ではマリア・テレジアの味方だったイギリスでしたが、マリア・テレジアは兵の援助をせずに植民地での戦争に重点を置いたイギリスに対して不信感を抱き、海上を隔てたイギリスよりもフランスと結んだ方が得と判断したそう。
追い詰められたフリードリヒは先制攻撃を行い、意表を突くことに。1756年にプロイセン軍がザクセンへ侵攻したことで7年戦争が始まりました。
2-4 エリザヴェータの死
シャルル=アンドレ=ヴァン=ルー – オリジナルのアップロード者は英語版ウィキペディアのGhirlandajoさん, パブリック・ドメイン, リンクによる
戦況はオーストリア継承戦争時とは異なり、フランス、ロシア、スペイン、スウェーデンを味方につけたマリア・テレジアが優勢に戦いを進めることに。1759年のクネルスドルフの戦いでは、フリードリヒも負傷するほどの打撃を受け苦しい戦いを強いられるプロイセン。更に味方であるイギリスからは1761年に援助を打ち切られてしまうことに。この時イギリスは植民地でフランス軍との戦闘によって打撃を受けていたためでした。
しかし事態は急展開することに。なんとエリザヴェータ女帝が急死したのです。更に彼女の後継者ピョートル3世はフリードリヒの熱狂的な支持者だったため、ロシアが軍を撤退。戦争を優位に進めていたマリア・テレジアも次第に財政難に陥り、なんと私物を売却するほどだったそう。こうして7年戦争は、ロシアの脱落、その後オーストリアの敗北によって終戦を迎えました。
2-5 フベルトゥスブルク条約にて終戦
そして開戦から8年後の1762年にフベルトゥスブルク条約によって、シュレジエンがプロイセンの領土とされる結果となりました。ちなみにこの条約ではアーヘンの和約の再確認とマリア・テレジアの息子、ヨーゼフが将来的に神聖ローマ皇帝となる際にはできる限りフリードリヒが協力するという内容。ちなみに英仏間で起こったフレンチ・インディアン戦争とインドのカーナティック戦争の講和条約はパリ条約。このパリ条約では英仏の他にスペインも結ぶことに。パリ条約によってイギリスはフランスからカナダ、ミシシッピ以東のルイジアナ、スペインからはフロリダを獲得。またフランスはインドのほとんどの領土を失ったため、イギリスが植民地帝国を築くことに繋がりました。
3 フリードリヒ2世は一体どんな人物だったのか
オーストリア継承戦争で工業地として発展していたシュレジエンを奪い、更にその後マリア・テレジアが仕掛けた7年戦争でもシュレジエンを自国の領土として守り切ったフリードリヒ2世。ここでは彼は一体どんな人物だったのか詳しく見ていきましょう。
3-1 プロイセンとは?
大国のオーストリアを2度も破ったプロイセンとはどんな国だったのでしょうか。プロイセンはスペイン継承戦争においてハプスブルク側について戦ったため、この功績が認められてレオポルト1世から王号を与えられてプロイセン王国となりました。そしてフリードリヒ2世はこの王国の3代目となる国王となることに。
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