今回は蛮社の獄を取り上げるぞ。江戸時代に蘭学者が弾圧された事件ですが、いったい誰がどうやったのか詳しく知りたいよな。

その辺のところを蘭学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代の蘭学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、蛮社の獄について5分でわかるようにまとめた。

1-1、蛮社の獄とは

蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、天保10年(1839年)5月に起きた、蘭学者に対して行われた言論弾圧事件。高野長英、渡辺崋山らが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したことから、捕らえられて拷問を受け、罪に問われることに。

尚、蛮社とは国学者が呼んだ蘭学者の集団のことで、旧来の国学者たちからは「蛮社」(南蛮の学を学ぶ同好の集団、社中。「蛮学社中」の略)と呼ばれた。日本以外の国をあらわす「外国」が使われるのは幕末になってから、それまでは南蛮とか蛮夷という呼び方だったそう。

2-1、事件の背景

この事件の起こる以前にあった事件や、この事件との関連性のある出来事などをご紹介しますね。

2-2、将軍吉宗以来、蘭学が盛んに

江戸幕府の鎖国政策とキリシタン禁止令で外国文化との接触がほとんど限られていたが、8代将軍徳川吉宗が、殖産興業の奨励の方針などのためもあって、海外の物産や文化に関心が高かったということで、享保10年(1725年)から数回にわたり、オランダ船から西洋馬を輸入し、ドイツの馬術師ケイズルを招いて洋式馬術、馬医学を学ばせたり、享保5年(1720年)には、キリスト教に関係ない書物の輸入を認め、禁書令を緩和、また青木昆陽らにオランダ語を学ばせるなど、海外知識の導入に積極的に。

そしてその後、杉田玄白が「ターヘルアナトミア」などを翻訳し、「解体新書」を出版、長崎の出島のオランダ商館にドイツ人医師シーボルトがやって来て鳴滝塾を開塾、また蘭学書が高価なためか大名や大金持ちの商人など、蘭癖と呼ばれるオランダ学で新知識を得ようとする人たちも増えていたということ。

また、文政 11 年(1828年) にはシーボルトが一時帰国の際に、幕府の天文方であった高橋景保が贈った当時は国禁だった日本地図 (伊能忠敬の作った詳細な蝦夷地を含む日本地図)などを国外に持ち出そうとしたとして、シーボルト以下の多くの幕吏や鳴滝塾門下生が処罰された事件も起こり、幕府から見れば鎖国体制が緩んできた兆候がみられるように。

2-3、産業革命の余波で日本近海に外国船が来航

19世紀後半、欧米諸国に産業革命が起こり、機械で綿などの商品が大量生産できるようになったことで、貿易相手として中国や日本に進出を狙い、もうひとつは、機械油に必要な鯨からとれる脂のための鯨漁が盛んとなり、鯨が多く捕れる日本近海に出没し、捕鯨船のための補給基地として日本の港が必要とされたため、日本近海に多くの外国船が来航するようになったが、日本は鎖国をしているのでオランダと中国以外とは交易しないとか言っていられない時代に。

2-4、度重なる外国船襲来で異国船打ち払い令を発令

ということで、天明2年(1792年)、ロシアのアダム・ラクスマンがロシア女帝エカテリーナ2世の命で漂流民大黒屋光太夫を届けて根室に来航し日本に開国を迫ったが、老中松平定信は鎖国を理由に交渉拒否。その後ロシアは文化元年(1804年)使節レザノフを長崎に派遣、開国を要求したが幕府はそれを撃退したため、ロシア艦隊が報復として樺太、択促を襲撃した事件。

文化5年8月(1808年)、鎖国体制下の長崎港にイギリス軍艦が侵入したフェートン号事件。文政7年(1824年)5月、水戸藩領の大津(北茨城市大津町)浜にイギリス人12人が上陸、水戸藩が尋問した後、野菜などを与えて船に帰した大津浜事件。

文政7年(1824年)8月、イギリスの捕鯨船が薩摩の宝島に来島し、島民に牛を譲渡するように要求したが、在番および郡司が拒否したため、20名から30名程度のイギリス人が島に上陸し牛3頭を略奪した宝島事件。

文化7年(1824年)、数年前から水戸の漁民たちが、初夏に沖合で操漁中の欧米の捕鯨船乗組員と行っていた物々交換が発覚、300人余りが取り調べを受けた事件などが次々と起こり、文政8年(1825年)幕府は異国船打払令を発令。

2-5、儒学者と蘭学者の対立

image by PIXTA / 48317179

ある程度の蘭学を許容したとはいえ、従来幕府は儒教を尊び、さらに儒学の中でも朱子学を正統の学問として陽明学とか他の学問を排除してきたが、幕府の昌平坂学問所もとになった私塾の主催者である林羅山の子孫の儒家の林家は代々大学頭として官学主義の象徴的存在でもあり、林一門にとって蘭学は憎悪の対象だったよう。そして蛮社の獄で弾圧の首謀者となった目付の鳥居耀蔵(ようぞう)は、林家の出身だったということ。

\次のページで「2-6、鳥居耀蔵とは」を解説!/

2-6、鳥居耀蔵とは

鳥居耀蔵は天保9 年(1838年) に目付として大塩平八郎の乱を担当、また蛮社の獄の取締りを老中水野忠邦に認められて天保12年(1841年) 12月、江戸町奉行に抜擢され、天保の改革で密偵を使って江戸市中取締りを厳しく行い鳥居の妖怪と呼ばれた人で、時代劇では遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元の仇役としても有名

天保の改革末期に水野忠邦が上知令の発布を計画したとき、諸大名、旗本の猛反発を買ったために鳥居は反対派に寝返って、老中土井利位に機密資料をすべて渡したということで、水野は老中辞任となり、鳥居の地位は温存。

しかしその後水野が老中に復帰したため、鳥居は弘化2年 (1845年)に罪に問われて失脚、丸亀藩京極家にお預けとなり、明治維新後に恩赦になるまで20年以上幽閉状態に。しかし幽閉中は漢方の知識をいかして薬草の栽培を行い、付近の領民への治療を行ったり、丸亀藩士も教えを請いに訪問し、尊敬されるほどの儒学の知識もあったということで、妖怪と言われた頃とは別人のように丸亀藩周辺の人々から尊敬を受け感謝されたそう。

そして明治になって江戸から東京と改称された後に戻って来て、江戸時代とは様変わりした様子を見て、自分の言う通りにしなかったのでこうなったと憤慨したということなので、鳥居は鎖国を続けることで幕府を維持するという旧式の考えから抜けられない人だったのでは。

3-1、事件の発端

蛮社の獄の発端になった出来事をご紹介しますね。

3-2、モリソン号事件

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パブリック・ドメイン, リンク

天保8年(1837年)、日本の漂流民7名が外国船に救助されてマカオに送られ、アメリカ人商人が彼らを日本に送り届けて引き替えに通商を開こうとモリソン号に乗り込んで浦賀に接近、日本側は異国船打払令を適用、沿岸から砲撃したために、モリソン号は退去。その後は薩摩で一旦上陸して交渉したが拒絶されて、薪水と食糧を与えられて船に帰され空砲で威嚇射撃を受けたのでマカオに帰港した事件。

翌年、長崎のオランダ商館がモリソン号渡来のいきさつを報告したことで、初めて幕府は、モリソン号が漂流民を送り届けて通商を求めてきたことを知ったということ。

3-3、「戊戌夢物語」「慎機論」

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椿椿山 - 田原町博物館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

天保9年(1838年)に尚歯会でモリソン号に対する幕閣の評議について聞いた高野長英は、「戊戌夢物語」を匿名で執筆。内容は前半で幕府の対外政策を肯定しつつ、後半は交易要求を拒絶した場合の外国からの報復の危険性を暗示という、モリソン号の打ち払いに婉曲に反対したものだったそう。この本は写本で予想以上に流布して反響があったということで、「夢物語」の内容に意見を唱える形で「夢々物語」「夢物語評」など続編が登場するなどで、幕府は危機意識を持ったほど。

渡辺崋山も「慎機論」を書いたが、匿名で出版できないことと、内容がまとまらずに未発表に。

4-1、蛮社の獄勃発

そして天保10年(1839年)、目付の鳥居燿蔵が、渡辺崋山、高野長英、小関三英らを告発して蛮社の獄に。

\次のページで「4-2、江川英龍と鳥居耀蔵のトラブル原因説」を解説!/

4-2、江川英龍と鳥居耀蔵のトラブル原因説

モリソン号に関する審議や高野長英の「戊戌夢物語」が流布した10か月後の天保9年(1838年)12月、水野忠邦の命によって、鳥居耀蔵を正使、江川英龍を副使として江戸湾巡視をすることに。ふたりは打ち合わせを何度もしたが、鳥居が江川に無断で巡見予定地域を広げるとかいざこざが絶えず、また測量方法を巡って、渡辺崋山の人脈と知識を借りて測量を行った江川が鳥居の方法に勝ったために老中水野忠邦に叱責されたことで、鳥居は江川英龍と渡辺崋山らへの嫌悪から、天保10年(1839年)、鳥居は冤罪で渡辺崋山、長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅にというのが、蛮社の獄の発端という説。

だが江川英龍は老中水野忠邦に高く評価されていたため、罪に問われなかったということと、たしかに江戸湾巡視の際、鳥居と江川は対立したが、もともとは鳥居と江川は以前から親交があって江戸湾巡視中から蛮社の獄の後、鳥居が失脚した弘化元年(1844年)まで続いていたそう。蛮社の獄でも鳥居は江川を標的とはせず、江川は蛮社の獄とは無関係、処罰されたのは渡辺崋山と高野長英のみ、尚歯会自体は弾圧を受けていないという反論も。

4-3、無人島渡航計画から幕府批判とでっちあげられ有罪に

image by PIXTA / 22932232

現在の小笠原諸島が無人島として存在を知られるようになったのは、寛文10年(1670年)で、延宝3年(1675年)に幕府は探検船を派遣、調査して領有を宣言。その後は放置されていたが、文政10年(1827年)イギリス探検船ブロッサム号が小笠原諸島の父島に来航、イギリス領として宣言したが、イギリス政府は承認せず。

そして天保元年(1830年)に欧米人やハワイ人など25名が父島に入植し、島に寄港する捕鯨船に水や食料を売っていたそう。天保9年(1838年)イギリス人の小笠原諸島入植の風説で、幕府は代官羽倉簡堂を父島への調査に派遣。一方で18世紀末から、松浦静山の「甲子夜話」や本多利明の「西域物語」などに桃源郷のような話や、佐藤信淵の「混同秘策」にも空想的な無人島開発論があるために、当時なかなか渡航できないために、夢のような場所と化した無人島の噂が流布していたようで、尚歯会でも無人島に関心ある人々が、夢を語るごとくに期待を語り合い計画していたということ。

このことについて、鳥居の密偵として暗躍し、尚歯会にも参加していた下級幕臣の花井虎一が、犯罪の既成事実を作るべく崋山らに渡海をけしかけていたそうで、捜査の結果、彼らの計画は合法的なものと判明。しかし鳥居は前年から崋山の身辺を探索して、この機会を利用して「蘭学にして大施主」といわれた崋山を捕えたいと狙っていたようで、この計画に崋山が関与していて、さらに崋山が単独でアメリカに渡ろうとしているという告発状を書き上げて、老中水野忠邦に提出。

奉行所での崋山の取り調べでは海外渡航なども事実無根とわかり、また逮捕後に鳥居がさらに提出した告発状には大塩平八郎との通謀容疑、下級幕臣の大塚同庵に不審の儀があるとされたが、これについても事実無根が明らかに(取り調べをした北町奉行大草高好が崋山に対して、その方、意趣遺恨にても受け候者これありやと聞いたほど)。

しかし無実の者を捕らえたのでは幕府の沽券に関わるために、奉行所は容疑を海外渡航から幕政批判に切り替えたということ。そこで崋山宅の家宅捜索で出た未発表の「慎機論」の草稿と「初稿西洋事情書」の中に幕政批判があることが問題になり有罪に。

4-4、蛮社の獄の結末

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椿椿山 - 高野長英記念館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

天保10年(1839年)5月14日に崋山と無人島渡航計画を行った面々に出頭命令がきて、全員伝馬町牢屋敷へ入獄。蘭学者の小関三英はキリストの伝記を翻訳中で、逮捕を免れぬものと思い込んで、5月17日に自宅で自殺。高野長英は身を隠したが、5月18日に自首。逮捕者は渡辺崋山(田原藩年寄47歳)高野長英(町医36歳)ら8名で4人が吟味中に拷問のために獄死。

12月18日に言い渡された判決は、渡辺崋山は幕政批判で田原で蟄居。高野長英は永牢(終身刑)など。その後崋山は判決翌年の1月に田原に護送されたが、生活が困窮して自作の絵画を売ったことで藩内の反崋山派の策動と藩主問責の風説などによって、2年半後に崋山は49歳で自決。

また高野長英は判決から4年半後に牢に放火して脱獄後、硝酸で顔を焼いて人相を変えて全国を逃亡、一時は宇和島の伊達宗城の元で蘭学翻訳に取り組んだりしたが、脱獄から6年後に江戸へ舞い戻って町医者をしていたところを奉行所の捕吏らに急襲されて47歳で殺害。

プレ幕末の時代に、幕府の権威を盾に蘭学者への言論弾圧が行われた事件

蛮社の獄は、当時のモリソン号事件について、蘭学者がオランダ語の本から得た情報や知識をもとに意見を書いた本を出版したところ、江戸幕府批判ととられて蘭学者が弾圧された事件というのが通説。

しかし、当時発見された無人島を桃源郷のように見立ててそこへ行ってみたいという夢物語のような話を問題視したり、取り調べで無実だと判明しても、奉行所の権威として何が何でも有罪にし、頻繁になってきた異国船の渡来や蘭学者の台頭で鎖国が緩んできたための見せしめとしたかった、初めに有罪ありき事件であることは明らかでしょう。

また、渡辺崋山や高野長英らを摘発した鳥居耀蔵がかなり香ばしい人物で、鳥居がターゲットにしたはずの江川英龍が罪を得ていない、尚歯会員が全員摘発されてないなどの謎が残るのですが、その後失脚して20年の幽閉後、東京に帰って浦島太郎のようになった鳥居が「自分の言う通りしないからこうなった」と憤慨したという話は、やはり鳥居が鎖国体制を断固として守り、鎖国を揺るがす蘭学者を阻害するための事件だったとみていいのではないでしょうか。

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幕末日本史歴史江戸時代

プレ幕末期に蘭学者が弾圧された事件「蛮社の獄」を歴女がわかりやすく解説

今回は蛮社の獄を取り上げるぞ。江戸時代に蘭学者が弾圧された事件ですが、いったい誰がどうやったのか詳しく知りたいよな。

その辺のところを蘭学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代の蘭学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、蛮社の獄について5分でわかるようにまとめた。

1-1、蛮社の獄とは

蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、天保10年(1839年)5月に起きた、蘭学者に対して行われた言論弾圧事件。高野長英、渡辺崋山らが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したことから、捕らえられて拷問を受け、罪に問われることに。

尚、蛮社とは国学者が呼んだ蘭学者の集団のことで、旧来の国学者たちからは「蛮社」(南蛮の学を学ぶ同好の集団、社中。「蛮学社中」の略)と呼ばれた。日本以外の国をあらわす「外国」が使われるのは幕末になってから、それまでは南蛮とか蛮夷という呼び方だったそう。

2-1、事件の背景

この事件の起こる以前にあった事件や、この事件との関連性のある出来事などをご紹介しますね。

2-2、将軍吉宗以来、蘭学が盛んに

江戸幕府の鎖国政策とキリシタン禁止令で外国文化との接触がほとんど限られていたが、8代将軍徳川吉宗が、殖産興業の奨励の方針などのためもあって、海外の物産や文化に関心が高かったということで、享保10年(1725年)から数回にわたり、オランダ船から西洋馬を輸入し、ドイツの馬術師ケイズルを招いて洋式馬術、馬医学を学ばせたり、享保5年(1720年)には、キリスト教に関係ない書物の輸入を認め、禁書令を緩和、また青木昆陽らにオランダ語を学ばせるなど、海外知識の導入に積極的に。

そしてその後、杉田玄白が「ターヘルアナトミア」などを翻訳し、「解体新書」を出版、長崎の出島のオランダ商館にドイツ人医師シーボルトがやって来て鳴滝塾を開塾、また蘭学書が高価なためか大名や大金持ちの商人など、蘭癖と呼ばれるオランダ学で新知識を得ようとする人たちも増えていたということ。

また、文政 11 年(1828年) にはシーボルトが一時帰国の際に、幕府の天文方であった高橋景保が贈った当時は国禁だった日本地図 (伊能忠敬の作った詳細な蝦夷地を含む日本地図)などを国外に持ち出そうとしたとして、シーボルト以下の多くの幕吏や鳴滝塾門下生が処罰された事件も起こり、幕府から見れば鎖国体制が緩んできた兆候がみられるように。

2-3、産業革命の余波で日本近海に外国船が来航

19世紀後半、欧米諸国に産業革命が起こり、機械で綿などの商品が大量生産できるようになったことで、貿易相手として中国や日本に進出を狙い、もうひとつは、機械油に必要な鯨からとれる脂のための鯨漁が盛んとなり、鯨が多く捕れる日本近海に出没し、捕鯨船のための補給基地として日本の港が必要とされたため、日本近海に多くの外国船が来航するようになったが、日本は鎖国をしているのでオランダと中国以外とは交易しないとか言っていられない時代に。

2-4、度重なる外国船襲来で異国船打ち払い令を発令

ということで、天明2年(1792年)、ロシアのアダム・ラクスマンがロシア女帝エカテリーナ2世の命で漂流民大黒屋光太夫を届けて根室に来航し日本に開国を迫ったが、老中松平定信は鎖国を理由に交渉拒否。その後ロシアは文化元年(1804年)使節レザノフを長崎に派遣、開国を要求したが幕府はそれを撃退したため、ロシア艦隊が報復として樺太、択促を襲撃した事件。

文化5年8月(1808年)、鎖国体制下の長崎港にイギリス軍艦が侵入したフェートン号事件。文政7年(1824年)5月、水戸藩領の大津(北茨城市大津町)浜にイギリス人12人が上陸、水戸藩が尋問した後、野菜などを与えて船に帰した大津浜事件。

文政7年(1824年)8月、イギリスの捕鯨船が薩摩の宝島に来島し、島民に牛を譲渡するように要求したが、在番および郡司が拒否したため、20名から30名程度のイギリス人が島に上陸し牛3頭を略奪した宝島事件。

文化7年(1824年)、数年前から水戸の漁民たちが、初夏に沖合で操漁中の欧米の捕鯨船乗組員と行っていた物々交換が発覚、300人余りが取り調べを受けた事件などが次々と起こり、文政8年(1825年)幕府は異国船打払令を発令。

2-5、儒学者と蘭学者の対立

image by PIXTA / 48317179

ある程度の蘭学を許容したとはいえ、従来幕府は儒教を尊び、さらに儒学の中でも朱子学を正統の学問として陽明学とか他の学問を排除してきたが、幕府の昌平坂学問所もとになった私塾の主催者である林羅山の子孫の儒家の林家は代々大学頭として官学主義の象徴的存在でもあり、林一門にとって蘭学は憎悪の対象だったよう。そして蛮社の獄で弾圧の首謀者となった目付の鳥居耀蔵(ようぞう)は、林家の出身だったということ。

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