日本史

多種多様に花開く「鎌倉文化」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

よぉ、桜木健二だ。平安時代から鎌倉時代への転換で、いろんなことがガラッと変わったのはわかるな?それまでの天皇と貴族が中心の社会から、武士たちの世の中になったんだ。貴族と武士では生まれも育ちもまるで違う。だから、当然、趣味なんかも違ってくるだろ。鎌倉時代は文化面においても新しいものが生まれた時期なんだ。

今回はその「鎌倉文化」をテーマに、歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。

1.武士の時代、到来

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武士らしい素朴で力強い文化

平安時代の末、「治承・寿永の乱(源平合戦)」で平氏を倒し、政権を握った源頼朝は鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に幕府を開きます。これが武士社会と鎌倉時代の始まりです。

冒頭で桜木先生がおっしゃられたように、それまでの貴族中心の社会から武士中心の社会へ変わるわけですから、当然、文化の担い手も変わってきます。平安時代に菅原道真が遣唐使を廃止して以来、日本では国風文化や公家文化が温まっていましたが、鎌倉文化は武士にふさわしい「素朴で力強い文化」となるのです。

武家文化の目覚め

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武士たちが文化の担い手として成長し、武家特有の文化が徐々に形成されていきました。

武家の本分はやはり戦いですね。ことわざに「いざ鎌倉」とありますが、これはもともと鎌倉幕府に一大事が起きたら諸国の武士たちは鎌倉へ駆けつけなければならなかったことに由来します。平家が滅び、鎌倉幕府が開かれたからと言っても完全に平和になったというわけではなかったんですね。

武士の戦で必要となるのが、弓、馬、そして刀のみっつ。弓と馬については、武者が騎乗から弓で敵を射抜く訓練の「騎射三物(犬追物、笠懸、流鏑馬)」が重要視されていました。

さらに、「巻狩」といって、軍事訓練のためにおこなわれる大規模な狩猟がありました。鹿やイノシシがいる狩場を多人数で包囲し、獣を中に追い詰めて射るのです。源頼朝が多くの御家人を従えて富士の裾野付近で行った「富士の巻狩り」が特に有名ですね。

実用品としての刀剣

現代では美術品として博物館などに展示されている刀剣。諸国の刀工がそれぞれ特色のある作品を生み出し、そのなかには現在でも名刀として保存されているものもたくさんあります。

有名な流派としては、山城国(京都府)で活動した「来派」、備前国(岡山県東南部周辺)の「長船派」と「福岡一文字」、備中国(岡山県西部)の「青江派」などが多くの刀工を輩出しました。

なかでも特に名前を広く知られたのが、長船派の光忠、京都の粟田口派の粟田口吉光、鎌倉の正宗ですね。それぞれ「燭台切光忠」、「厚藤四郎」、「不動正宗」など名刀を残しています。

また、名刀は日宋貿易での重要な輸出品のひとつとなりました。

鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』

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ktmchi – 自ら撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる

これまでの日本の歴史書は、国家プロジェクトとして朝廷が編纂してきました。『日本書紀』や『続日本紀』を含む六つの史書で、これらを全部合わせて「六国史」といいます。しかし、鎌倉幕府の執権・北条家はこのシリーズに含まれない歴史書『吾妻鏡』を独自につくったのです。

『吾妻鏡』は1180年から1266年までの87年間の記録で、以仁王の令旨が源頼朝のもとに届くところから始まり、最後は鎌倉幕府六代目将軍宗尊親王が将軍職を辞するところで終わります。

要するに『吾妻鏡』には、源平合戦、鎌倉幕府の成立、承久の乱、北条家の執権政治の開始、宮騒動、宝治合戦が収録されているんのです。

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貴族社会から武家中心の社会へと変わり、文化の担い手となった武士たち。みやびで華やかな公家文化と打って変わって、素朴で力強い武家文化となったんだな。

2.鎌倉時代の宗教界

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東大寺と興福寺の再建

当時の日本では「仏教には国家を守護し、安定させる力がある」とする「鎮護国家」の思想が信じられていました。この「鎮護国家」の中心を担っていたのが「奈良の大仏(東大寺大仏)」でおなじみの東大寺です。

しかし、東大寺は平安時代末期、平清盛の息子・平重衡(たいらのしげひら)によって焼かれてしまいました(「南都焼き討ち」)。このとき、藤原氏の氏寺だった興福寺も一緒に焼失してしまいます。

東大寺は奈良時代に建立されてから400年以上も「鎮護国家」の要でしたから、どうにかして再建しなければなりません。時の後白河法皇は東大寺再建のため、「大勧進職」に「重源(ちょうげん)」という僧侶を任命します。「勧進」というのは、寺院や神社への寄進(寄付)を募ることです。重源はこのとき61歳にもかかわらず方々から広く勧進を募るために自ら旅に出ます。重源の勧進のお陰で、四年後の1185年には東大寺大仏が完成して大仏開眼法要が営まれ、さらに十年後の1195年に東大寺大仏殿落成となりました。

興福寺のほうは、藤原氏の力で東大寺に先んじて復興しています。

東大寺南大門の金剛力士像

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奈良の焼け落ちた寺々の復興に際し、奈良の仏師たちが活躍しました。「仏師」は仏像を専門とする彫刻家のことです。

なかでも東大寺南大門を守る「金剛力士」が有名ですね。高さ8メートルに及ぶ巨大な像で、口を開いた「阿形像」と、口を閉じた「吽形像」の二体の力強い守護神です。

この像は「慶派」に属する「運慶」と「快慶」によって製作されました。

鎌倉新仏教の誕生

古くからの寺院が修繕される一方、鎌倉時代には新しい宗教が誕生し、人々の間に根付いていきました。その背景には「末法思想」といって、お釈迦様が亡くなって2000年経つと、仏教の教えは残れども正しく修行し、悟りに到達する人がいなくなる時代が来るとされていたからです。

日本では平安時代中期ごろからその「末法の世」にあたりました。さらに末期にもなると「保元の乱」や「平治の乱」、平清盛の独裁政治に源平合戦と目に見えて世の中が荒れていったのです。

末法思想のはびこる世の中で生まれた六つの宗派を合わせて「鎌倉新仏教」といいます。次の項目で各宗派のポイントをおさえていきましょう。

念仏を唱える浄土宗

末法思想がはびこる平安時代中期、民衆から多くの支持を得たのが「浄土教」です。浄土教は民衆からやがて貴族にまで信者を増やし、現代まで脈々と受け継がれてきました。

ところで、みなさんは生命が死を迎えると天国や地獄へ行くと言われたことはありませんか?仏教の経典では仏の国「極楽浄土」があるとされています。死後、極楽浄土に生まれ変わりたいと願うことを「浄土信仰」といいました。

しかし、極楽浄土に生まれ変わるには条件があります。それは生前に悪行に手を染めないことだったり、仏教の修行をしなければいけなかったり、善行を行って功徳を積むことだったりと多岐に渡り、なかなか一筋縄ではいきません。けれど、この末法の世で生活することでいっぱいいっぱいの人々にそれができるでしょうか?

そこで浄土宗の開祖となった「法然(ほうねん)」は、阿弥陀如来の誓願を信じて「南無阿弥陀仏」と念仏すれば死後は極楽浄土へ生まれ変われる「専修念仏」を説きます。

「南無阿弥陀仏」の「阿弥陀仏」は阿弥陀如来を指し、「南無」は「帰依(信仰)しています」という意味なので、「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀如来に帰依しています」と唱えているんですね。これはすべての仏の先生の「阿弥陀如来」に心から帰依して念仏することで、阿弥陀如来のお力によって極楽浄土に転生できるというものでした。

法然の弟子・親鸞の浄土真宗

法然の弟子だった「親鸞(しんらん)」は、法然の教えをさらに深く掘り下げて「悪人正機説」を説きました。

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

ここでいう「悪人」は「罪を犯した人」ではありません。「道徳的な意味での悪」ではなく、「生命の根源にある悪」のこと、つまり、私たち生きているものすべてを指します。逆に「善人」は「悪に無自覚な人間」のことです。

「本当は自分が悪人であるとわかっていない人でさえ救われるのだから、悪人だと自覚した人ならなおさら阿弥陀如来によって救われる」という解釈になりますね。だから、自分が「悪人」だということに気付いて阿弥陀如来に頼みなさい、ということです。

この教義をもとに親鸞が亡くなった後に彼の門弟たちによって浄土真宗が開かれました。

踊って念仏、一遍の時宗

浄土宗と浄土真宗の成立からしばらくあと、鎌倉時代末期にあらわれた一遍(いっぺん)は「阿弥陀如来に帰依しなくても、とにかく念仏すれば極楽浄土へ行ける」と説きました。

念仏を唱えるのは浄土宗や浄土真宗と変わりません。しかし、上記ふたつは「阿弥陀如来に心から帰依すること」が肝だったのに対し、一遍は信じなくてもいいと言い切ったところが違います。

彼はこの教えを広めようと教団を率いて布教の旅に出ました。このときに一遍は太鼓や鉦を鳴らして踊りながら唱える「踊念仏」を行い、「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と書かれた「賦算」を配ったのです。賦算を受け取ることで人々は阿弥陀如来と縁が結ばれる、ということでした。

独特な日蓮宗

「日蓮」は、お経の王様と呼ばれる「法華経」をよりどころとする「日蓮宗」を開きました。

「法華経」を中心とする宗派は「天台宗」をはじめ他にもたくさんあります。しかし、日蓮宗はひと味違って、お釈迦様に心から帰依して「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えることで、今世で悟りを開いて仏になれるとされているのです。

「南無」については前述の説明通りですので、この場合は「法華経に帰依しています」という意味になりますね。

けれど、「お釈迦様に帰依して題目を唱えれば悟りを開ける」とは、どの経典にも書かれていません。日蓮は真実は隠されていると「文底秘沈」を主張しています。このあたりが、日蓮宗をより独創的にしている部分ですね。

座禅を組む臨済宗と曹洞宗

座禅を組むことを修行の基本とする禅宗。そこから生まれたのが、臨済宗と曹洞宗です。

みなさんが想像する座禅と言えば、あぐらを組んでひたすら無心になるものではないですか?それで雑念がまじったり、居眠りなんかしてしまうと、お坊さんに肩をバシンと叩かれる、みたいな。

その黙々と座禅を組むスタイルが「曹洞宗」です。曹洞宗の祖・道元はもとは臨済宗の僧でしたが、宋へ渡って曹洞宗の天道如浄のもとで真理を悟り、帰国後に日本でも曹洞宗を開いたのでした。

そして、曹洞宗の静かな禅とは真逆で「臨済宗」は、座禅を組んだ弟子に師匠が問題を与えて問答する対話形式の座禅です。

禅宗からしてかなりストイックな宗派でした。それが当時の武士社会にマッチしたのでしょう。武士たちは座禅を大切にするようになり、鎌倉幕府からの庇護を得ました。

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時代の移り変わり時には、もちろん、人間の心も移ろっていく。特に「末法思想」が広まった世の中だっただけに、人々は心のよりどころを探したというわけだ。誰でもすぐにできる浄土系仏教は広く民衆に受け入れられたし、禅宗も武士たちに歓迎されたというわけだ。

3.鎌倉時代の文芸と絵画

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小倉百人一首と藤原定家

「百人一首」と聞くとカルタを思い浮かべませんか?

それは藤原定家が選んだ「小倉百人一首」です。和歌だからなんとなく平安時代にできたものだと考えがちですが、13世紀前半、つまり鎌倉時代に成立されたと推定されています。

一説によると、藤原定家は鎌倉幕府の御家人だった宇都宮頼綱に頼まれて、彼の別荘・小倉山荘の襖を装飾するために作成されたそうです。この依頼にはりきった藤原定家は飛鳥時代の天智天皇からはじめ、鎌倉時代の順徳院までの百首を選んで色紙に書きました。カルタとなったのは、木版画の普及した江戸時代になってからですね。

他にも、藤原定家が編さんした『新古今和歌集』も有名ですよ。

おさえておきたい鎌倉時代の文学

兼好法師こと、吉田兼好の『徒然草』、鴨長明の『方丈記』は必ず教科書に出てきますね。この二作はともに「無常観」をテーマにして書かれた随筆です。無常観が題材とされるのは前章の「末法思想」による影響が大きいですね。

さてこの時代、随筆の他にも軍記物語というジャンルが生まれた時代でもありました。代表的なのが源平合戦を描いた『平家物語』です。琵琶法師たちによって弾き語られ、全国に広がっていきました。

大人気の絵巻物

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筆者不明。竹崎季長自身は絵巻を注文しました。 – 蒙古襲来絵詞, パブリック・ドメイン, リンクによる

平安時代でも人気のあった絵巻物ですが、鎌倉時代に入って軍記物語が生まれると戦乱を描いた合戦絵が増えていきました。

図の「蒙古襲来絵詞」はご覧になったことがあるんじゃないでしょうか?

これは鎌倉幕府の御家人・竹崎季長がモンゴル帝国との戦い「文永の役(元寇)」がいかに大変だったかを鎌倉幕府に訴えるために描かせた絵巻でした。今では、当時の武士や戦闘の貴重な史料となっています。

武士たちの文化

貴族から離れ、武士たちの世の中となった鎌倉時代。それは従来の貴族的な華美で優雅なものではなく、質実剛健、ストイックな武士らしいものでした。

また、時代の流れにマッチした新しい仏教の宗派が生まれ、日本中に広がっていきます。鎌倉新仏教は今でも耳にする宗派ですね。それだけ私たち日本人の心に強く根付いたのです。

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