幕末日本史歴史江戸時代

蛮社の獄で無実の罪に問われた才人「渡辺崋山」を歴女がわかりやすく解説

3-4、崋山、書画会などでも著名人と交流し名作を残した

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Watanabe Kazan (1793-1841) 渡辺崋山 – Emuseum, パブリック・ドメイン, リンクによる

崋山は、親戚の平山文鏡、谷文晁らの一流画家に師事して才能を開花させ、20歳の頃からは絵画を教えたり、画を売って家計の助けとしたが、江戸市中で書画会を開いて、著名な文人墨客と交わり画名を上げたということ。南画に独特の描線と洋画の立体感を取り入れた、人物画、花鳥画、山水画、俳画、素描と多彩な名品のなかには、国宝「鷹見泉石像」(肖像画)から、美人画の「校書図」市民生活を描いた「一掃百態図」などの重要文化財の傑作も多数。

また人気のあった崋山の肖像画は、西洋画の影響を受けて陰影を巧みに用い、写実的な表現にこだわった独自の画法を確立。代表作に、「佐藤一斎像」「鷹見泉石像」「市河米庵像」「一掃百態図」など。文人としては随筆紀行文である「全楽堂日録」「日光紀行」など。そして、平井顕斎(けんさい)、福田半香、椿椿山、山本栞谷(きんこく)、井上竹逸ら多くの弟子を育てたそう。

4-1、崋山、尚歯会に参加

崋山は、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した尚歯会に参加、これは蘭学者が主な会ですが、儒学者なども参加した会だったようで、崋山は蘭学者ではないが会の指導者的存在で、水戸藩の有名な学者藤田東湖は、崋山のことを「蘭学にて大施主」と呼んでいたということ。

崋山は高野長英らと飢饉の対策について話し合い、長英はジャガイモとソバを飢饉対策に提案した「救荒二物考」を出版したとき、崋山がその挿絵を描いたそう。尚歯会はその後、天保8年(1837年)モリソン号事件が起こった後、蘭学者の長英や小関三英に加えて、幡崎鼎、幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂、砲学者の江川英龍なども加わって海防問題まで議論するようになり、江川英龍は崋山から幕府の海防政策への助言を受けたりしたそう。

4-2、崋山、蛮社の獄で投獄、蟄居に

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天保9年(1838年)モリソン号事件について、崋山、高野長英は幕府の打ち払い政策に危機感を持ったため、崋山は「慎機論」を書いたが、これは幕府の海防を批判しつつ海防の不備を憂えると論旨一貫しないうえに、モリソン号についての意見も明示せずに幕府高官に対する激越な批判というまとまりのない文章、それに田原藩の高官という立場もあり、「戊戌夢物語」を著した長英のように匿名で発表ができないため、草稿のまま放置していたということ。しかし約半年後、蛮社の獄が起こり、崋山の家が家宅捜索されたときにこの草稿が断罪の根拠にされることに。

蛮社の獄は、幕府の保守派であった目付の鳥居耀蔵(ようぞう)と、蘭学者江川英龍との確執が原因という説と、鳥居が「戊戌夢物語」の著者の探索を口実にして、「蘭学にて大施主」と称された崋山を、町人たちともに「無人島渡海相企候一件」(当時無人島だった小笠原諸島へ行く夢のような渡航計画)として断罪、鎖国制度を堅固にするための見せしめ的に弾圧されたという説があるということ。

とにかく天保10年(1839年)5月に鳥居は江川とその仲間を罪に落とそうとして、崋山や高野長英らを摘発。老中水野忠邦がかばったために江川英龍は無事、崋山は取り調べで無実の罪とわかったが、奉行所が何が何でも罪を問いたいと家宅捜索の際に発見した未発表の「慎機論」を問題にして、陪臣(ばいしん、将軍から見て家来の藩主のそのまた家来の位置)にあるまじき幕府の方針を批判したということで、国元の田原で蟄居に。

崋山には有力者の知人が多くいたはずが、一斉に崋山との無関係を主張するようになり、崋山のために助命に奔走したのは絵画の弟子たちなど無名の知人がほとんどだったということ。

4-3、崋山、切腹

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天保12年(1841年)、崋山は領地田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送っていたが、藩政の前途を案じて真木重郎兵衛らの藩内の同志と連絡を取っていたことが、藩の実権を握る守旧派に反感を持たれていたそう。

そして崋山一家の貧窮ぶりをみた弟子の福田半香が、江戸で崋山の書画会を開いて代金を生活費に充てることにしたが、謹慎中の身が生活のために絵を売ることについて幕府で問題視されたとの風聞が立った、または守旧派が近く藩主が問責されるとの噂を流したという説もあり、崋山は藩主に責任が及ばないように、「不忠不孝渡辺登」の遺書をのこして切腹、享年49歳。

尚、藩内の反崋山派のために、崋山の死後、息子の渡辺小崋が家老に就任した後も、崋山の墓の建立が許可されなかったということで、幕府が崋山の名誉回復と墓の建立を許可したのは27年後の慶応4年(1868年)3月ということ。

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