幕末日本史歴史江戸時代

蛮社の獄で無実の罪に問われた才人「渡辺崋山」を歴女がわかりやすく解説

2-3、崋山、藩主のお家騒動に関わる

文政10年(1827年)、藩主康明が28歳で病死したために、藩首脳部は貧窮していた藩財政の打開策もあって、当時比較的裕福な姫路藩から養子を持参金付きで迎えようと提案。崋山は強く反対して用人真木定前らと、亡くなった藩主康明の異母弟である友信を藩主に推したが、結局は藩上層部の意思が通って姫路藩主酒井 忠実(ただみつ)の6男の康直が養子となって藩主に。

このために崋山と、友信は一時自暴自棄に酒浸り生活に。崋山はその後気を取り直して藩首脳部と姫路藩酒井家と交渉し、将来的に三宅友信の息子で後の三宅康保と、新藩主康直の娘を結婚させて次の藩主にすると約束させたということ。藩首脳部は、友信に前藩主の格式を与えて巣鴨の別邸で優遇処置をとったため、友信も気を取り直したということ。

そして崋山は、側用人として親しく友信と接して、崋山が希望した蘭学書の購入に資金提供することもあり、崋山の死後、明治14年(1881年)に崋山の伝記「崋山先生略伝補」を著したそう。尚、酒井家から来た新藩主康直も画家酒井包一が大叔父にあたるせいか、画才もあり学者でもある崋山と仲が良かったという話も。

2-4、崋山、家老職に就任

天保3年(1832年)5月、39歳の崋山は田原藩の年寄役末席(家老職)に就任し、藩政改革に着手。家格に関わらず優秀な藩士の登用、士気向上のため格高制を導入して役職を反映した俸禄形式を採用、これによって支出の引き締めにもなったということ。また、農学者大蔵永常を田原に招聘、殖産興業として、稲作の技術改良と、鯨油を使った稲の害虫駆除法が成果を上げたということ。そして当時諸藩を見習って商品作物の栽培で財源作りのため、サトウキビの栽培(これは失敗)、ハゼ、コウゾの栽培、蝋絞りの技術、土焼人形の製造法なども伝えたそう。

2-5、天保の大飢饉で犠牲者を出さず

天保7年(1836年)から翌年の天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築き、手引書の「凶荒心得書」を著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、病中だった崋山は領地の田原には行かなかったが、信頼する田原藩士真木重郎兵衛や、蘭医鈴木春山、生田謙吉、農政家大蔵永常らを差し向けて、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を。

また、崋山は本来は開国論で鎖国には反対の立場だったが、藩の助郷免除嘆願のために海防政策を口実として利用して幕府や諸藩から海防への取り組みを高く評価されたそう。

3-1、画家としての崋山

少年の頃より画才があり、多くの作品を残した崋山の画家としての面をご紹介しますね。

3-2、崋山、一流画家たちに師事し、独自の写実法を確立

華山は、年少の頃から画を描いて売り生計を支えましたが、よほど上手でなければ売れないはず。崋山は最初は、大叔父の平山文鏡に手ほどきを受け、次に白川芝山に師事、しかし付届けが出来ず破門に。17歳のときに崋山の父がつてを頼ってくれたため金子金陵に弟子入り、崋山は眼をかけてもらい力をつけ、そして金陵の師の谷文晁にも習ったということ。文晁は文人画家としての手本となり、様々な系統の画派を広く学んだそう。

3-3、崋山の写実性へのこだわり

A portrait of Takizawa Kinrei by Watanabe Kazan.jpg
Watanabe Kazan (1793-1841) 渡辺崋山 – Tahara Municipal Museum 田原市博物館, パブリック・ドメイン, リンクによる

天保6年(1835年)、崋山の画家友達の滝沢琴嶺(興継)が亡くなったため、葬儀の場で琴嶺の父である戯作者の曲亭馬琴が息子の肖像画の作成を依頼。当時の肖像画は本人が亡くなって後に描かれるものが多く、画家は実際に実物を見ず、よく知る人に話を聞いたり、思い出しながら描くものだったが、崋山は、なんとその場で棺桶を開けて琴嶺を覗き込んで素描、そして死顔に直接触れて骨格を確かめたと馬琴が「後の為の記」に記したそうで、当時の価値観から逸脱した行動ということ。

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