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世界の三分の一もの銀生産量を誇った「石見銀山」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説

徳川幕府が管理

関ヶ原で石見銀山を獲得した家康は家臣の大久保長安と彦坂元正を石見銀山に向かうように指示していくと、石見銀山一帯を調べさせ幕府の直轄としていきました。直轄領となった場所は、現在の島根県太田市大森町で初代石見銀山の奉行として長安が任命され銀産出をしていきます。

書かれている歴史書によって初期奉行は長安とも元正ともいわれていて、通説では長安とされていました。長安が奉行として銀山を任されていた時には、石見銀山と名称で呼ばれていましたが大森銀山とも薩摩銀山とも呼ばれていたようです。

長安は山吹城を拠点として五万石で、費用計算や燃料などの運搬業務を行っていました。

銀山を再開発

銀山の一大産出場所だった石見銀山でしたが、無限に銀が採掘出来る訳ではなかったため毛利氏が収めていた頃よりも産出量が減少していきました。これに危機を感じていた長安は腕利きの山師を探していきます。

そして山師の安原伝兵衛と出会った長安は鉱山開発を命じていきました。伝兵衛の生まれは備中国だったため仕事を探しに仲間を引き連れて、大森まで来ていたと思われます。

伝兵衛が加わり鉱山開発が進むと思われましたが、中々思うように開発が進みませんでした。そんなある日に観音菩薩に似た銀を清水寺に奉納した夜に夢で間歩の場所を天から告げられ翌日に導かれた場所を掘り進めていくとお告げの通り間歩を発見しこの場所を釜屋間歩と命名していきます。

朱印船貿易で銀を海外輸出

間歩が発見されると爆発的に銀を発掘することが出来ていき、徳川幕府に巨大な富をもたらしていきました。海外交易を行っていた朱印船貿易で銀を海外へ産出していくとともに貿易船を出航させる元手にもなっていきます。

釜屋間歩の銀を家康に献上した伝兵衛は褒められ、備中の名前が授けられたうえに当時戦国大名が愛好していた辻ヶ花染胴服が与えられていきました。伝兵衛は大変喜んび採掘を懸命に進めていきます。

そして十七世紀初頭には銀の産出が最大となり運上金で四千から五千貫で現在でいうと四億から五億を超えていて相当な量の銀が売買されていました。

最大だった銀山も次第に減少

image by PIXTA / 55427690

全盛期を向かえていた十七世紀初頭が過ぎていくと、次第に銀が発掘出来なくなっていきました。著しく銀が減少していった影響で1675年には奉行職の銀山奉行から大森代官へと位が格下げされていきます。

銀の量が減少していくと、働き手も徐々に少なくなっていく半面で沿岸部を中心に炭を利用した工場を建設していき銀発掘に使用する道具を生産していき発掘現場へ供給していきました。

工場が建設され一部の銀発掘の働き手は、工場へ移り働いていったようです。

当時の運搬方法

主な運搬方法は船に乗せて湾に面した鞆ヶ浦から搬出しておりました。しかし季節によっては風が吹き荒れてしまい、船で出港することが出来なかったようです。特に冬の日本海は季節風の影響が受けやすいため、船で運搬することはあまり出来ませんでした。

船が出港出来なく陸から運搬していき、掛屋と呼ばれる換金所まで運んでいきます。石見銀山の大森から掛屋までは中国山地を越えていく必要があったため、長安が山道を整備していき陸からの運搬でも円滑に進めるよう改善していきました。

ただ陸を運搬するにあたり幕府が管轄していた村へ物的負担や人馬負担を割り当てしており、公共であることを口実にほぼ無給で運搬させられた村の農民達が幕府に訴えていたようです。

農民から慕われた代官

約100年に渡り代官が変わり石見銀山の奉行を行っていきましたが、徐々に銀が発掘出来なくなっていき次第に銀山としての価値を失っていきました。銀が思うように発掘出来ない時に、享保の大飢饉が発生し農民が苦しんでいきます。

この時の大森代官だった井戸平左衛門は、苦しむ農民を見てこのままでは人が生きられない土地になってしまうと思い自身の財産や裕福な人達から農民へ寄付し食料を確保していきました。また平左衛門らの財では賄いきれなくなり、幕府に許可を申請せずに米蔵を解放し餓死寸前の人達を救ったと同時に年貢免除していったため農民達から慕われる存在となっていきます。

平左衛門の行いに気づいた幕府が切腹を命じて、生涯を終えたともいわれておりますが通説では病死で亡くなくなりました。

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平左衛門は薩摩国からさつまいもを大森地域に普及させた人物としても知られ、農民からはいも代官と呼ばれた存在だったようだな。

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