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世界の三分の一もの銀生産量を誇った「石見銀山」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。どの時代でもいえることだが豊富な富は武器を集められ、兵を補充し戦いを有利に進めることが出来たことだろうな。当然ながら富を得られる場所であれば敵領地だったとしても奪うために攻め込み奪うことが出来れば自国領土の強化と勢力拡大することが可能になるだろう。

今回は日本で一番銀を採掘出来た場所として様々な大名を成長させ商業への発展を促すきっかけを作ることとなった石見銀山を歴史マニアで歴史ライターwhat_0831と一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/what

世界遺産にも登録されたと同時に周りの自然も整備された形の石見銀山を紹介していく。

銀山の始まり

image by PIXTA / 55427661

石見銀山が発掘された時代から確認していきましょう。

鎌倉時代の後期に発見

源氏が鎌倉幕府を設立してから約百五十年が経ち、幕府で内乱が頻繁に発生し鎌倉幕府が弱体化している頃に平安時代から周防で独自勢力を保っていた大内氏が鉱山を発見したとされています。当時大内氏の家督を相続していた大内重弘の嫡男だった大内弘幸が北斗七星の神格化した姿の妙見菩薩が乗り移りお告げをいいこの場所で銀を見つけました。

弘幸が発見した後に直ぐに発掘されたとされ、石見銀山旧記に書かれており1800年代に編集されて各地の藩で保管された日記が多く発見されその書物に石見銀山の発見から採掘の様子まで書かれています。鉱山を掘り進めていましたが、銀が中々発掘出来ずに一時中断していました。

そして偶然にも中断していた時に発掘していた商人が石見銀山を発見し開拓を開始していきます。

商人が開発をしていた

銀山を発掘を開始していく大内氏でしたが、本格的に開発を進めていくのが博多の大商人でした。豪商神屋家の嫡男として誕生した神屋宗湛は銀山開発に携わっていきます。

宗湛の曾祖父が石見銀山発見の第一人者だったことと神屋家は、代々筑前国の貿易商人として財を潤わせ他国との交流によって新たな採掘方法を習得し石見銀山を開拓していきました。宗湛が習得した採掘方法は灰吹法と呼ばれていて紀元前に書かれた旧約聖書に記述があり中国若しくは朝鮮国を経由して1500年代に日本へ伝来してきたとされています。

灰吹法を用いて銀峰山を掘っていくと中腹で、銀を発見することが出来ました。

灰吹法で死者が多数

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革新的な銀採掘方法で銀を得られるようになっていき、石見だけでなくその他の地域にも灰吹法が広まっていきました。効率的に銀を産出出来ることで貿易が盛んに行われるようになり日本国を発展させていきます。

しかし富を得られることにはなりましたが、得をするだけのいい点だけではなく悪い点もあり発掘をしている人々の体を蝕んでいきました。灰吹法は銀や金を鉛に溶かし抽出する方法で灰骨などを加工して作成した皿の上で加熱すると、鉛は空気中の酸素と化学変化を起こし粉塵と供の舞い上がり吸い込んでしまいます。

これによって体内に銀に取り込んでしまい、鉛毒を発症し血液を害していきました。鉛毒により短命となってしまい三十歳を超えれば長寿とされていたようです。

石見銀山の領土争い

銀が採掘出来る場所のため、大名が石見銀山欲しさに攻防戦が繰り広げられていました。

山陰と山陽の二大勢力

鎌倉時代に発見し発掘してから大内氏が長らくこの一帯を支配していましたが、銀を狙いに来る大名も多く大内義隆が九州諸国の経営をしていた際に一度小笠原氏に奪取されてしまいました。小笠原氏は国人衆ではありましたが、大内氏と同等勢力を誇っていた尼子氏に属して大内氏と争っていきます。

しかし奪還するべく兵を挙げて小笠原氏を攻め、再び義隆の手に戻ってきた石見銀山。このままでは防衛することが出来ないと判断した義隆は山吹城を築城し石見銀山を守らせていきました。しかし尼子氏の侵攻によって度々、大内氏と尼子氏の手に行き渡っていましたが、義隆が大寧寺の変で自害していくと大内氏に代わって毛利氏が台頭して石見銀山を奪うために尼子氏を攻撃していきます。

\次のページで「毛利氏の豊富な資金」を解説!/

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