幕末日本史歴史江戸時代

シーボルトに学び蛮社の獄で逃亡した「高野長英」その時代きっての蘭学者を歴女がわかりやすく解説

蛮社の獄(ばんしゃのごく)とは
天保10年(1839年)5月に起きた蘭学者への言論弾圧事件のこと。高野長英、渡辺崋山などの、モリソン号事件の対応や江戸幕府の鎖国政策批判が、罪に問われたために捕らえられて処罰。尚、蛮社とは蛮学社中の略で、国学から蘭学をそう呼んでいたということ(日本以外の国に対する外国という呼び方はもう少し後に出来たため、この頃は南蛮とか異国とか夷が使用)。

3-2、長英、牢の火事で逃亡生活に

そして長英は、投獄4年となった弘化元年(1844年)6月に起こった牢屋敷の火災で逃亡を決行。この火事は、長英が牢の使役人に放火させた説が有力だそう。火事の際、3日以内に戻って来れば罪一等減じるが、戻って来なければ死罪に処すという、切放(きりはなし、きりはなち)という一時釈放がされたが、長英はこれを無視して戻らなかったということ。

長英は脱獄後、経路は詳しくは不明だが、硝酸で顔を焼いて人相を変えて逃亡生活を続け、故郷の老母に会いに行ったという話もあり、各地の蘭学者仲間のところを転々としていたということで、大間木村(現さいたま市緑区)の弟子の高野隆仙のもとにかくまわれたり、また一時江戸で兵学者の鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行ったりしたということ。

3-3、長英、宇和島にかくまわれる

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弘化元年(1844年)伊予宇和島藩主となった伊達宗城は、四賢侯といわれる開明的な藩主だが、藩政改革とともに藩の兵備の洋式化なども行っていたため、蘭学者を欲していたということ。側近の家老松根図書によれば、長英の弟子の和算家の内田弥太郎に、長英が江戸に潜伏し麻布薮下に住んでいると聞き、弥太郎の家で酒を飲んでいると長英が訪れたということで、主君宗城に話すと宇和島に招くよう内命され、嘉永元年(1848年)2月、長英は出羽出身の蘭学者伊東瑞渓と変名し、宇和島藩医の富澤禮中が同行して江戸を出発して4月2日に宇和島に到着。

宇和島藩の待遇は4人扶持の俸禄と翻訳料で、江戸の妻子に送金するために生活は苦しかったということだが、宇和島藩では、谷依中、土居直三郎、大野昌三郎の3名に蘭学修業が命令され、シーボルトの鳴滝塾で同門だった二宮敬作が卯之町で蘭方医を開業していたため、息子の逸二も内弟子とし、午前8時から正午まで長英が授業を行い、正午から夜は各自の復習、長英は翻訳の作業という毎日で、兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事したそう。

しかし翌年、江戸藩邸から早飛脚で、幕府が長英の宇和島潜伏を疑っていると知らせがきたため、宇和島を出ることに。宇和島藩は、長英が宇和島に来たのは伊達家をあざむいてのことで、万一、幕府から尋ねられても、伊達家は長英の本名については知らなかったという証書を残して、50両または200両の旅費を渡されて出立したという記録もあるということ。

3-4、長英、逃亡の末、ついに再逮捕

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Rs1421 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

長英はその後、海路大坂へ行き、名古屋の門人、尾張藩医山崎玄庵のところに一時的に身を隠した後、人相を変えて江戸に戻り、内田弥太郎の甥の宮野信四郎宅に一時身を隠して、高柳柳助と変名して麻布本村町の土蔵付き差掛け小屋を借り、妻子とともに暮らしたということ。

その後、青山百人町の同心組屋敷、小島助次郎の借家を借りて、澤三伯の名前で町医者を開業していたが、嘉永3年(1850年)10月30日、密告されて、町奉行所の手の者に踏み込まれて捕縛。その際、何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったために駕籠で護送途中に絶命したということ。享年47歳。ペリーが浦賀に来航するわずか4年前の出来事

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