幕末日本史歴史江戸時代

シーボルトに学び蛮社の獄で逃亡した「高野長英」その時代きっての蘭学者を歴女がわかりやすく解説

2-3、長英、江戸へ戻り町医者に

文政11年(1828年)、長崎を離れた後に熊本から京都まで診療と蘭学講義の旅を2年あまり続けて、天保元年(1830年)10月に6年ぶりに江戸に戻って、麹町貝坂で医者を開業して、蘭学塾「大観堂」を開塾。 江戸に帰った長英は蘭方医学の研究に没頭、天保3年(1833年)、日本最初の体系的生理学書として「医原樞要」、医学から飢饉に備えるという「二物考」などの多くの著述、そして三河田原藩重役だった渡辺崋山と知り合い、田原藩のお雇い蘭学者として、小関三英、鈴木春山と蘭学書を翻訳、日本初のピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロック、ヴォルフに至った西洋哲学史を要約するなど、蘭学者として精力的に活動し、遠藤勝助が主宰する尚歯会にも参加。

尚歯会(しょうしかい)とは
尚歯会は、、紀州藩の儒官だった遠藤勝助が主宰した集まりで、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や江戸で吉田長淑に学んだ者などが中心となって結成され、メンバーは高野長英、小関三英、渡辺崋山、江川英龍、川路聖謨、藤田東湖、松崎慊堂など。当初は、天保の大飢饉の対応として食糧増産対策などを研究していたが、しだいに海防や外交など政治的な議論も多くなったということ。会の名称は、老人を敬うという意味だそう。

2-4、長英、「戊戌夢物語」を著して評判に

長英は、シーボルトに教わったこともあり、諸外国の海外進出と植民地化の状況についても情報を得ていたため、モリソン号事件での幕府の対応が悪い方へ向くことを心配し、「戊戌夢物語」を著して、イギリスの国勢と海外進出を詳細に説明、イギリスの申し出を聞いて、鎖国の規定によって交易を断ればと語ったということで、同じ尚歯会の渡辺崋山は「慎機論」で鎖国政策を問題にしたが、長英は蘭学研究から現実的な提言を行っただけ。

またこの「戊戌夢物語」は、仲間内で回覧しただけのつもりが、長英の想像を超えたほどの多くの学者の間に読まれたということで、長英はこのことが罪になるとは予想外だったということ。

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パブリック・ドメイン, リンク

モリソン号事件とは
19世紀に入ってから、日本近海にはアメリカ,イギリス,ロシアなどの船が出没。しかし幕府は文政3年(1825年)に異国船打払令を発令し,日本に近づく外国船はすべて砲撃して追い払う方針に。天保8年(1837年)、アメリカの商船モリソン号が日本人の漂流民を送り届けるために浦賀沖にあらわれたが、浦賀奉行所は異国船打払令に従ってモリソン号に砲撃を加え,漂流民も受け取らず打ち払ったのがモリソン号事件。当時、蘭学書から西洋事情を知っていた蘭学者たちが、この事件に対する幕府の対応にたいして批判の声を挙げることに。

3-1、長英、蛮社の獄で逮捕される

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椿椿山 – 高野長英記念館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発し、長英も幕政批判したとして捕縛、また自ら出頭した説もあり、とにかく永牢、今でいう終身刑の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監されることに。長英は、牢内で服役者を診療したり、劣悪な牢内環境の改善を訴えるなど、親分肌の気性から牢名主となったということで、「わすれがたみ」という獄中記もあらわしたそう。

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