日本史

シーボルトに学び蛮社の獄で逃亡した「高野長英」その時代きっての蘭学者を歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回は高野長英を取り上げるぞ。シーボルトの弟子の蘭学者で有能だったのに蛮社の獄で罪に問われたんだっけ、どんなことをしたのか詳しく知りたいよな。

その辺のところを蘭学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、蘭学者、蘭方医には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、高野長英について5分でわかるようにまとめた。

1-1、高野長英は岩手の生まれ

高野長英(たかのちょうえい)は文化元年(1804年)、仙台藩伊達家の一門である水沢留守家の家臣後藤実慶と後妻であった母美也の3男として、水沢(現岩手県奥州市水沢区)で誕生。幼名は悦三郎、実名は譲、そして卿斎、のちに江戸に出てから長英と名乗ったということ。きょうだいは、長兄の勇吉、次兄の湛斎、長英、弟の慶蔵。

1-2、長英の子供時代

長英が9歳のとき、父が亡くなり、22歳の長兄勇吉が後藤家を継いだため、母は長英と慶蔵をつれて実家の高野家にもどり、10歳か14歳の頃、長英は母の兄である伯父の高野玄斎の養子となって玄斎の一人娘の千越(ちお)と婚約。

高野家の養父、祖父は医者であるため、長英はごく自然と蘭方医学に興味を持ったということ。長英の祖父元端は、京都で漢方医学を学び医者となったが、当時は隠居して塾を開いていたということで、伯父で養父の玄斎は、大槻玄澤らと江戸の杉田玄白の塾、天真楼で蘭方医学を学んだ医者。また、前澤茂木家の養子となった長英の叔父の左馬之助も京都の医師吉益周助に学んだ医師だったため、長英は少年時代に祖父の元端、養父の玄斎、また留守家医師の坂野長安から、医師になるべく学問を教授され、とくに祖父元端の影響が特に大きかったといわれ、東山興田の塾では、祖父の代わりに講義をしたという話も。

2-1、長英、江戸へ留学

長英は、文政3年(1820年)17歳のときに、兄の湛斎と従兄弟である遠藤養林が江戸に留学することになり、長英は養父の反対を押し切って兄たちと同行したということで、養父の代理として出席て当選した無尽講の15両を旅費として、無断で旅立ったという話もあるそう。

3人は江戸に到着後、水沢出身で養父玄斎の知人であった日本橋堀留町の薬種問屋神崎屋源造に身を寄せたが、この人は後々も長英の理解者、支援者に。長英と養林は、その後、一関(現在の岩手県一関市)出身の医者で大槻玄澤の弟子であった戸田建策に寄宿し、門人同様の扱いを受けたが、腰掛けのつもりでいたために怒りを買い、神崎屋に寄宿して杉田塾に通うことに。

その後は吉田長叔の蘭馨堂の門人となり、蘭学を学び、後に長叔から一字をもらって高野長英と改名。この吉田長叔の蘭馨堂で、長英は本格的に蘭学、蘭方医学を勉強することになり、薬の材料の薬草、辰砂(水銀と硫黄の化合物)などの鉱物研究や、本格的なオランダ語の文法の勉強も開始。日光、筑波山へ採薬旅行、オランダ語の翻訳辞典の購入などで、養父に送金を依頼したため裕福でない養父が長英の勉学を支えたそう。文政5年(1822年)、江戸に一緒に留学した兄の湛斎が病気で倒れたため、長英は兄の看病のかたわら診療を続けていたが、翌年兄が亡くなったため、長英は蘭馨堂を辞して町医者を開業。その後、火事で家が焼けるなどの災難もあり、吉田長叔が亡くなったため、長英は吉田塾を支えることに。

2-2、長英、長崎へ行きシーボルトに弟子入り

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川原慶賀 – 近世の肖像画(Japanese Portraits of the Early Modern Period) 佐賀県立美術館 1991年, パブリック・ドメイン, リンクによる

文政6年(1823年)、ドイツの医学者フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトがオランダ商館の医師として長崎に到着、オランダ商館などが鳴り物入りで宣伝し、蘭学者に西洋医学を教えることも許されたため、全国に噂が広まって教えを乞うために長崎に留学するものが殺到したということ。

長英もそのひとりだったが、長英は長崎に知人もなく留学費用のあてがなかったため、吉田塾の先輩駒留正見に相談したところ長崎留学を進められて、留学費用を養家から長崎留学の後の帰郷を約束して借金するなどして長崎へ。
長英は鳴滝塾に入塾してシーボルトの内弟子となり、蘭方医学を学ぶかたわらにシーボルトの日本研究を助ける助手としても活躍して塾頭に。現在も残るシーボルト文書の中の弟子たちが提出したオランダ語の論文42点のうち、高野長英の論文は11点もあり、「活花の技法について」、「日本婦人の礼儀および婦人の化粧ならびに結婚風習について」、「小野蘭山『飲膳摘要』(日本人の食べ物の百科全集)」、「日本に於ける茶樹の栽培と茶の製法」、「日本古代史断片」、「都における寺と神社の記述」、「琉球に関する記述(新井白石『南島志』抄訳)などなど、日本の歴史、地理、風俗、産業についてのシーボルトの日本研究のための基礎資料であったということ。シーボルトは、弟子たちに卒業論文として課題をあたえてドクトルの称号を与えたが、長英は「鯨魚及び捕鯨に就きて」の論文でドクトルが授与されたそう。

この長崎留学時代、長英のオランダ語力と医学の知識は飛躍的に伸びたということ。長英の養父はこの長崎留学中に亡くなったが、長英は理由をつけて帰郷もしなかったそう。また、シーボルト事件が勃発したときの長英は、たまたま旅に出ていて難を逃れた説、危険を感じてさっさと脱出して助かった説があるが、処罰を免れて肥後に逃れたということ。その後の長英は、道中診察をして旅費を稼ぎながら旅をして天保元年(1830年)5月23日、京都に到着。長英はまた養父が亡くなって3年経ち、当主不在の高野家から帰国を促す手紙を受け取ったが、岩手に帰る気持ちは毛頭なかったらしく帰郷を拒絶し絶縁。

2-3、長英、江戸へ戻り町医者に

文政11年(1828年)、長崎を離れた後に熊本から京都まで診療と蘭学講義の旅を2年あまり続けて、天保元年(1830年)10月に6年ぶりに江戸に戻って、麹町貝坂で医者を開業して、蘭学塾「大観堂」を開塾。 江戸に帰った長英は蘭方医学の研究に没頭、天保3年(1833年)、日本最初の体系的生理学書として「医原樞要」、医学から飢饉に備えるという「二物考」などの多くの著述、そして三河田原藩重役だった渡辺崋山と知り合い、田原藩のお雇い蘭学者として、小関三英、鈴木春山と蘭学書を翻訳、日本初のピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロック、ヴォルフに至った西洋哲学史を要約するなど、蘭学者として精力的に活動し、遠藤勝助が主宰する尚歯会にも参加。

尚歯会(しょうしかい)とは
尚歯会は、、紀州藩の儒官だった遠藤勝助が主宰した集まりで、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や江戸で吉田長淑に学んだ者などが中心となって結成され、メンバーは高野長英、小関三英、渡辺崋山、江川英龍、川路聖謨、藤田東湖、松崎慊堂など。当初は、天保の大飢饉の対応として食糧増産対策などを研究していたが、しだいに海防や外交など政治的な議論も多くなったということ。会の名称は、老人を敬うという意味だそう。

2-4、長英、「戊戌夢物語」を著して評判に

長英は、シーボルトに教わったこともあり、諸外国の海外進出と植民地化の状況についても情報を得ていたため、モリソン号事件での幕府の対応が悪い方へ向くことを心配し、「戊戌夢物語」を著して、イギリスの国勢と海外進出を詳細に説明、イギリスの申し出を聞いて、鎖国の規定によって交易を断ればと語ったということで、同じ尚歯会の渡辺崋山は「慎機論」で鎖国政策を問題にしたが、長英は蘭学研究から現実的な提言を行っただけ。

またこの「戊戌夢物語」は、仲間内で回覧しただけのつもりが、長英の想像を超えたほどの多くの学者の間に読まれたということで、長英はこのことが罪になるとは予想外だったということ。

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パブリック・ドメイン, リンク

モリソン号事件とは
19世紀に入ってから、日本近海にはアメリカ,イギリス,ロシアなどの船が出没。しかし幕府は文政3年(1825年)に異国船打払令を発令し,日本に近づく外国船はすべて砲撃して追い払う方針に。天保8年(1837年)、アメリカの商船モリソン号が日本人の漂流民を送り届けるために浦賀沖にあらわれたが、浦賀奉行所は異国船打払令に従ってモリソン号に砲撃を加え,漂流民も受け取らず打ち払ったのがモリソン号事件。当時、蘭学書から西洋事情を知っていた蘭学者たちが、この事件に対する幕府の対応にたいして批判の声を挙げることに。

3-1、長英、蛮社の獄で逮捕される

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椿椿山 – 高野長英記念館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発し、長英も幕政批判したとして捕縛、また自ら出頭した説もあり、とにかく永牢、今でいう終身刑の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監されることに。長英は、牢内で服役者を診療したり、劣悪な牢内環境の改善を訴えるなど、親分肌の気性から牢名主となったということで、「わすれがたみ」という獄中記もあらわしたそう。

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おい、学者だろ、牢名主だなんて、なんかイメージが違うぞ

蛮社の獄(ばんしゃのごく)とは
天保10年(1839年)5月に起きた蘭学者への言論弾圧事件のこと。高野長英、渡辺崋山などの、モリソン号事件の対応や江戸幕府の鎖国政策批判が、罪に問われたために捕らえられて処罰。尚、蛮社とは蛮学社中の略で、国学から蘭学をそう呼んでいたということ(日本以外の国に対する外国という呼び方はもう少し後に出来たため、この頃は南蛮とか異国とか夷が使用)。

3-2、長英、牢の火事で逃亡生活に

そして長英は、投獄4年となった弘化元年(1844年)6月に起こった牢屋敷の火災で逃亡を決行。この火事は、長英が牢の使役人に放火させた説が有力だそう。火事の際、3日以内に戻って来れば罪一等減じるが、戻って来なければ死罪に処すという、切放(きりはなし、きりはなち)という一時釈放がされたが、長英はこれを無視して戻らなかったということ。

長英は脱獄後、経路は詳しくは不明だが、硝酸で顔を焼いて人相を変えて逃亡生活を続け、故郷の老母に会いに行ったという話もあり、各地の蘭学者仲間のところを転々としていたということで、大間木村(現さいたま市緑区)の弟子の高野隆仙のもとにかくまわれたり、また一時江戸で兵学者の鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行ったりしたということ。

3-3、長英、宇和島にかくまわれる

image by PIXTA / 54805833

弘化元年(1844年)伊予宇和島藩主となった伊達宗城は、四賢侯といわれる開明的な藩主だが、藩政改革とともに藩の兵備の洋式化なども行っていたため、蘭学者を欲していたということ。側近の家老松根図書によれば、長英の弟子の和算家の内田弥太郎に、長英が江戸に潜伏し麻布薮下に住んでいると聞き、弥太郎の家で酒を飲んでいると長英が訪れたということで、主君宗城に話すと宇和島に招くよう内命され、嘉永元年(1848年)2月、長英は出羽出身の蘭学者伊東瑞渓と変名し、宇和島藩医の富澤禮中が同行して江戸を出発して4月2日に宇和島に到着。

宇和島藩の待遇は4人扶持の俸禄と翻訳料で、江戸の妻子に送金するために生活は苦しかったということだが、宇和島藩では、谷依中、土居直三郎、大野昌三郎の3名に蘭学修業が命令され、シーボルトの鳴滝塾で同門だった二宮敬作が卯之町で蘭方医を開業していたため、息子の逸二も内弟子とし、午前8時から正午まで長英が授業を行い、正午から夜は各自の復習、長英は翻訳の作業という毎日で、兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事したそう。

しかし翌年、江戸藩邸から早飛脚で、幕府が長英の宇和島潜伏を疑っていると知らせがきたため、宇和島を出ることに。宇和島藩は、長英が宇和島に来たのは伊達家をあざむいてのことで、万一、幕府から尋ねられても、伊達家は長英の本名については知らなかったという証書を残して、50両または200両の旅費を渡されて出立したという記録もあるということ。

3-4、長英、逃亡の末、ついに再逮捕

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Rs1421 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

長英はその後、海路大坂へ行き、名古屋の門人、尾張藩医山崎玄庵のところに一時的に身を隠した後、人相を変えて江戸に戻り、内田弥太郎の甥の宮野信四郎宅に一時身を隠して、高柳柳助と変名して麻布本村町の土蔵付き差掛け小屋を借り、妻子とともに暮らしたということ。

その後、青山百人町の同心組屋敷、小島助次郎の借家を借りて、澤三伯の名前で町医者を開業していたが、嘉永3年(1850年)10月30日、密告されて、町奉行所の手の者に踏み込まれて捕縛。その際、何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったために駕籠で護送途中に絶命したということ。享年47歳。ペリーが浦賀に来航するわずか4年前の出来事

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うわあ、あと4年でペリー来航だったのか、それは残念だぞ。

幕府に言論弾圧された、プレ幕末の時代の一流の蘭学者

高野長英は東北の医家の出身で、養父の反対を押し切って江戸へ勉強に出て蘭学を身に付け、シーボルト来日の評判を聞き長崎の鳴滝塾に入塾、塾頭となり蘭学者としての頭角を現した人。

シーボルト事件では巻き添えを食わなかったが、江戸へ戻って蘭方医を開業し、塾も主宰してと蘭学者として順風満帆と思われたところ、蘭学者仲間で盛り上がっていた尚歯会で、江戸幕府の対外対応を批判したせいで人生が狂ってしまうことに。

しかし終身刑と言われて4年も伝馬町牢屋敷で牢名主をやったり、脱獄して顔を変えて逃げ回った後半生は、学者にしては意外なたくましさをみせてくれましたが、宇和島でお世話好きで開明派の藩主宗城がせめてあと5年匿ってくれていれば、ペリー来航後の時代を見ることができたのにと残念ですね。

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