日本史明治歴史

ビタミンの父と呼ばれた「高木兼寛」東京慈恵医科大学の創設者を歴女がわかりやすく解説

3-2、兼寛の叙勲と晩年

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Bigslope (take a picture) – From the information sign in Baken Park memorial to the birth of Dr Kanehiro Takaki., パブリック・ドメイン, リンクによる

兼寛は、明治21年(1888年)に日本最初の文学、法学、工学、医学博士号授与者各4名のひとりとなり、医学博士号を授与。さらに日露戦争で麦飯の有効性が注目された明治38年(1905年)、華族に列せられて男爵位を授与されて、「麦飯男爵」と呼ばれるように。明治25年(1892年)に予備役となったが、その後も東京慈恵医院、東京病院で臨床に立ち、貴族院議員、大日本医師会会長、東京市教育会会長などの要職に就いたということ。大正3年(1914年)3月1日に海軍を退役。大正9年(1920年)4月13日、自邸内で散歩中に脳溢血で倒れて72歳で死去。

3-3、海外での兼寛の評価

南極大陸にはビタミンに関係した学者の名前が付けられた地名があり、兼寛にちなんだ高木岬も存在。

また、海外での兼寛の脚気に対する業績の評価は高いということで、独創性と成果を重んじた西洋医学からみれば、兼寛による食物の改良での脚気の撲滅は、発想の独自性、先見性、成果ともに、まさに画期的といわれていて、ビタミンの発見後、さらにその先見性が高く評価され、ビタミンの先覚者とされているということ。

脚気撲滅の功労者、教育者として先進的な存在

高木兼寛は薩摩藩に生まれて医師を志し、戊辰戦争で薩摩藩兵を治療したイギリス人医師ウィリアム・ウィリスの教えを受けてイギリスに留学、優秀な成績を得て帰国し、海軍の悩みの種であった脚気について研究、実験を行い、予防に効果のある麦飯とカレーを推奨し、海軍の脚気を撲滅して、疫学の父、ビタミンの父と呼ばれた人。

しかし陸軍軍医と東京帝大医学部が兼寛の方法での脚気予防を断固として認めず、当時の最新医療だった脚気細菌説を振りかざし、明治の脚気論争が勃発。これがイギリス式医学対ドイツ式医学、海軍対陸軍といった対立となり、まさに机上の空論が極まって、陸軍の脚気患者、死亡者はその後30年もの間、全く減らずという悲劇に。

兼寛は、そのことが関係してかどうか、臨床を重んじる私立医学校や病院、看護学校を設立し、「病気を診ずして病人を診よ」と言い続け、ドイツ式の学究第一主義よりも臨床第一、患者さんの気持ちになって医療を行えと教えたということ。

脚気論争についての森鴎外関係の話は何度読んでも呆れてしまうほどですが、高木兼寛にイギリス流の臨床重視の医学を教えたウィリアム・ウィリスと、もちろん高木兼寛の功績は森鴎外の文学以上に価値がある人命に関することなので、もっと広く知られてもいいのでは。

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