日本史明治歴史

ビタミンの父と呼ばれた「高木兼寛」東京慈恵医科大学の創設者を歴女がわかりやすく解説

1-3、兼寛、イギリスへ留学

兼寛は鹿児島医学校のウィリス校長のもとで2年余りの間学んだ後、恩師の石神良策に海軍軍医になるように勧められて、明治5年(1872年)4月に東京へ赴任。明治5年(1872年)、石神が海軍医務行政の中央機関であった海軍軍医寮(後の海軍省医務局)の幹部として推挙されたため、一等軍医副(中尉相当官)として海軍入り。兼寛は、海軍病院勤務をしつつ、病院や軍医制度に関しての建議も行っていて、大軍医(大尉相当官)に昇進。

明治 6 年(1873年) 8 月に海軍病院内に軍医寮学舎(軍医学校) が開設、イギリスから海軍軍医のウィリアム・アンダーソンが教師として招聘されて、軍医寮学舎で解剖,生理,外科,内科などを教授、兼寛の通訳を通して授業を行ったということ。

兼寛はこのアンダーソン軍医のすすめで、明治8年(1875年)、海軍初の医学留学生としてアンダーソンの母校でもあるロンドンのセント・トーマス病院医学校(現キングス・カレッジ・ロンドン)に留学。尚、このセント・トーマス病院医学校には、フローレンス・ナイチンゲールが看護婦養成施設(ナイチンゲール看護婦学校)を開設していたということ。兼寛は、5年間の在学中に最優秀学生の表彰を受けて、イギリスの外科医、内科医、産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得し、明治13年(1880年)帰国。

兼寛は薩摩藩士なので西南戦争のときにイギリス留学中だったのは幸運。尚、留学中に、一時帰国中のウィリス校長とも再会したということ。

海軍の事情
実は、ウィリアム・ウィリスは最初、東京医学校の校長として招聘されたのですが、事情が代わって東京医学校ではドイツ医学を取り入れることになって、イギリス医学のウィリスは1年もたたずにクビとなり、気の毒に思った西郷隆盛が莫大なお給料で鹿児島医学校に招聘した事情が。

ということで、後の東大医学部、陸軍はフランス式からドイツ式に変更となっていましたが、薩摩閥が中心となって創設された海軍は全面的にイギリス方式となっていて、病院関係だけがドイツ医学では具合が悪いため、海軍の医師もイギリス医学を学んだ人をと石神良策が奔走し、兼寛が招聘され、イギリスに留学となったということ。

2-1、兼寛、海軍の脚気に注目

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兼寛は、明治13年(1880年)イギリス留学から帰国後、31歳で海軍中医監、東京海軍病院院長となり、脚気の予防と治療の研究を開始。兼寛は海軍軍人の生活環境と脚気の発生状況との関連調査から始め、衣類や気候なども脚気と関係なかったが、階級によって脚気の発病が違うことから食物に行き着き、炭水化物を多く取り過ぎタンパク質の摂取が少ないことに起因するのではないかと推論。

そして海軍では白米とわずかな副食の兵食を洋食と麦飯に変えたところ、脚気新患者数、発生率、それに死亡数が、明治16年(1883年)か明治18年(1885年)にかけて激減。

また兼寛は、明治17年(1884年)に軍艦「筑波」で航海実験も行って成功し、兵食改革の必要性を説いたため、海軍では兵食が米からパン食に変わったが、パンが不評のため麦飯になったということ。尚、兼寛の航海実験は日本の疫学研究の最初のものであったということで、日本疫学の父とも呼ばれているそう。

兼寛は、西洋風の食事を海軍の兵食に取り入れるにあたり、イギリス仕込みのカレー、シチューをアレンジした肉じゃがが普及したのも有名。そして兼寛は、明治15年(1882年)海軍医務局副長兼学舎長(軍医学校校長)に就任し、最終的には明治16年(1883年)海軍医務局長、明治18年(1885年)海軍軍医最高峰の海軍軍医総監に就任。

2-2、当時の脚気は国民病だった

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脚気は江戸時代から「江戸患い」といわれていましたが、明治になっても増えていたということで、特に海軍と陸軍の軍隊では脚気にかかる兵士が多く深刻な問題だったそう。脚気は重くなると心不全によって手足がむくんできて、神経障害により足がしびれてくるために脚気と呼ばれていて、心臓機能が低下し衝心(しょうしん)を併発すると、脚気衝心となり、最悪の場合には死亡することに。

今では脚気がビタミンB1の不足で起こる病気だと誰でも知っていますが、この時代はビタミンが発見される以前であり、経験的に白米以外のものを食べれば治る、江戸や都会を離れて田舎に住めば治ることは漠然とわかっていても、銀シャリと呼ばれた白米がご馳走の時代で、現代以上にご飯の消費量が多く、副食がご飯のお供程度で貧弱だったうえに、主食が白米以外なのを良しとしない風潮もあったこと、また兼寛の時代は、顕微鏡の普及でドイツなどでは病原菌が相次いで発見され、細菌学が最先端の医学だったために、脚気も伝染病で病原菌が原因だろうとされていたことなど、兼寛の兵食改革で、誰もが納得できる明確な結果が出ていても、右へ倣えで麦飯に変えて全面解決とはいかなかったのですね。

2-3、脚気病原菌説に固執する原因は

そして、東大医学部教授(後に学長)の緒方正規が、明治18年(1885年)に脚気病原菌説を発表。しかしドイツ留学中の北里柴三郎がこの学説を批判したために東大医学部と対立、北里がドイツ留学から帰国しても東大医学部から排除され対立し続けたという事件もあったということで、何が正しいか、どうすれば脚気の病気を防げるのか、治せるのかよりも、東大医学部の教授の学説に異論を唱えるやつはけしからんという学閥対決のような方向に。

そういうわけで、東大医学部やドイツ留学してドイツ医学を学んで陸軍の軍医の森鴎外らとは違い、兼寛はイギリス医学を学んだ海軍の軍医のために、この脚気論争と言われる対立は、陸軍対海軍、ドイツ医学対イギリス医学という対決に。もうひとつ大事なことは、この脚気はヨーロッパではほとんどない病気だったので、なんでも欧米をお手本にしていたこの時代、外国のお手本がなかったこともややこしくなる原因だったかも。

2-4、脚気論争勃発

兼寛は、海軍軍医総監となり、明治18年(1885年)3月、「大日本私立衛生会雑誌」に脚気に対する自説を発表。兼寛のたんぱく質の不足と麦が含むたんぱく質は米より多いため麦飯の方がよい、という説は、脚気の原因確定には根拠が少なく、脚気伝染病細菌説派を説得できず。兼寛には海軍での脚気の蔓延を劇的に改善した成果があるが、いかんせんビタミン発見以前、何も間違ってはいないが、なぜ白米が悪くて麦飯が良いのかを学問的に説明することが難しかったため、粗さがしばかりされて東京大学医学部から次々に批判され、兼寛は反論できずに沈黙。

そして東京大学医学部出身の陸軍省医務局長の石黒忠悳と陸軍軍医総監の森鴎外が脚気細菌説を頑強に主張したため、陸軍は海軍が麦飯に変えて脚気を撲滅したのを目の当たりにしながら、科学的根拠もなくひたすらに白米を規則とし、副食も貧しい日本食を採用し続け、麦飯を禁止する通達まで行い、台湾では現地で麦飯を兵食にした責任者を処罰したこともあったということで、明治 27 年(1894年)の日清戦争では、陸軍の戦死者が1000 人弱に対し、脚気で病死が3900 人、明治 37 年(1903年)の日露戦争では陸軍の戦死者7000人に対し、脚気で病死は28000 人というすさまじい数字に。海軍では日清戦争時に脚気の死亡者は1人だったということ。

尚、陸軍の軍医の中でも、土岐頼徳、堀内利国などの少数が、異を唱えて麦飯を奨励した人はいたということで、堀内は、兼寛が成果を収めた麦飯を拒否することについて「実験がはっきり成功しているのに、その学理がはっきりしないからといって実行しないのは、水がなぜ火を消すのかわからないといって火事に水を使わないようなものではないか」と、ごもっともな批判を。

2-5、森鴎外からの批判がすごかった

森鴎外は若くして東大医学部の前身を卒業し、ドイツ留学までしたエリート軍医で衛生学が専門でしたが、陸軍軍医総監という最高位まで出世したものの、医学者としてはほとんど実績がなかったということ。ドイツ語は出来たようで、論文もドイツなどで発表されたものの引用がほとんど、それも表現を変えたりして実質、臨床医学からはかけ離れていて、当時から医学界では相手にされていなかったという話もあるそう。

そういうわけで、文豪鴎外は、ドイツの留学先からわざわざ兼寛を罵倒する論文を送って来たり、東京大学とは無関係な兼寛が東京大学から日本で最初の医学博士の学位を授与され男爵となったときも、「麦飯博士」、「麦飯男爵」と貶し、東大農学部教授であった鈴木梅太郎が、米ぬかから抽出したオリザニン(ビタミンB1)を発見し、脚気を予防するという論文を発表したときは、「百姓学者がなにを言うか、米ぬかが脚気の薬になるなら、馬の小便でも効くだろう」と言ったとか、論証を重ねるどころか文章力だけで、兼寛や、鈴木梅太郎を罵倒し続けたということで、栄養説の正しさが立証されても、最後まで細菌説に固執し自分の非を認めなかったということ。

そして森鴎外は陸軍軍医総監とはなったが、華族に処せられるはずが叙位されなかったのは脚気論争が原因とされているそう。鴎外が退官後、すぐに陸軍は兵食に麦飯を取り入れたということですが、鴎外ひとり(上司の石黒忠悳はその後、誤りを認めたということ)が意地を張り続けたことで死ななくてもよい数万の陸軍兵士が亡くなった責任は重いはず。尚、鷗外はコッホに師事したが、同じくコッホの弟子の北里柴三郎が脚気細菌説は誤りだと発表すると批判したうえ、なんと北里がペスト菌を発見したときも痛烈に批判したそう。

3-1、兼寛、医学校、施療病院、看護学校も設立

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兼寛は、ウィリスから臨床を大事にするイギリス医学を学んだため、日本の医学界が東京帝国大学医学部、陸軍軍医団がドイツ医学一色で、学理第一で研究優先になっているのを心配し、イギリス留学から帰国後の明治14年(1881年)、前年廃止された慶應義塾医学所の初代校長松山棟庵らと、臨床第一のイギリス医学と患者本位の医療を広める医学団体成医会と成医会講習所を設立。当時の講習所は夜間医学塾として、兼寛ら海軍軍医が講師として教えたそう。成医会講習所は明治18年(1885年)に第1回の卒業生7名で、明治22年(1889年)、正式に医学校として認可され成医学校と改称され、明治 36 年,専門学校令によって東京慈恵医院医学専門学校となり、わが国最初の私立医学専門学校に。また、明治15年(1882年)、芝の天光院に貧しい者のための施療病院を設立。元海軍卿の勝海舟の融資などを受け、有栖川宮威仁親王を総長に迎え、明治20年(1887年)、総裁に迎えた明治天皇の皇后の昭憲皇太后から「慈恵」と命名を受けて、東京慈恵医院として兼寛が院長に就任。そしてイギリスで学んだセント・トーマス病院には、ナイチンゲール看護学校が併設されていたこともあり、医療での看護の重要性と担い手の看護婦の育成教育にも尽力。陸軍卿の大山巌の夫人でアメリカ留学中に看護婦の資格を取った大山捨松夫人らの鹿鳴館の「婦人慈善会」の後援も得て、明治18年(1885年)日本初の看護学校の有志共立東京病院看護婦教育所を設立、アメリカの宣教師リードらによる看護教育が開始されたということ。この看護婦教育所からは明治21年(1888年)には昭憲皇太后臨席で、5名が卒業。

皇族、それに大山捨松夫人といううってつけの留学経験者に後援を仰ぐなどで経済的基盤を確立した兼寛は、なかなかの手腕と政治力を持っていたといえそう。現在は、それぞれ東京慈恵会医科大学、東京慈恵会医科大学附属病院、慈恵看護専門学校に。

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