日本史明治歴史

ビタミンの父と呼ばれた「高木兼寛」東京慈恵医科大学の創設者を歴女がわかりやすく解説

今回は高木兼寛を取り上げるぞ。海軍カレーを取り入れて脚気撲滅に尽力した人ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、高木兼寛について5分でわかるようにまとめた。

1-1、高木兼寛は日向の生まれ

高木 兼寛(たかきかねひろ)は、嘉永2年(1849年)9月15日、日向国諸県郡穆佐郷(現:宮崎県宮崎市高岡町)で薩摩藩郷士高木喜助兼次と、母園の長男として誕生。通称は藤四郎、号は穆園。

子供の頃は、四書五経や示現流の剣術を習い、また薩摩藩の下士の副業として畑仕事や大工仕事も学んだそう。そして黒木了輔という地元の医師に憧れ、医師を目指して18歳で薩摩藩蘭方医の石神良策に師事。

3年後の戊辰戦争では、石神良策とともに薩摩藩兵の軍医として従軍、西郷隆盛の頼みで鳥羽伏見の戦いから東北戦争まで従軍したイギリス外交官で医官ウィリアム・ウィリスが、当時最先端のクロロフォルムを使った外科手術や過酸化マンガンを使用した消毒で多数の傷病兵を治療するのを目の当たりにし、助手も務めることに。

1-2、兼寛、ウィリアム・ウィリスに学ぶ

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兼寛は明治2年(1869年)、開成所洋学局に入学して英語と西洋医学を学んだが、明治3年(1870年)、戊辰戦争に従軍して多大な貢献をしたイギリス外交官兼医官のウィリアム・ウィリスを西郷隆盛がヘッドハンティングし、鹿児島に医学校と赤倉病院を創設したために、兼寛も従軍の賞金と藩主からの奨学金を学資に、鹿児島医学校の第一期学生に。尚、鹿児島医学校は 4 年制の本科 と2 年制の別科があり、本科では英語で教え原書を使用、本科の優秀な学生は助手として別科の指導を行ったということで、兼寛も校長のウィリスに認められて教員助手をしていたそう。

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