その辺のところを幕末、明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、一橋派について5分でわかるようにまとめた。
1-1、一橋派(ひとつばしは)とは
江戸末期、安政年間に13代将軍徳川家定の継嗣として、御三卿の一つの一橋徳川家の当主徳川慶喜(のちの15代将軍)を推した一派のこと。対して紀州藩主徳川慶福を推す一派は南紀派。
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2-2、将軍家定の問題
13代将軍家定は文政7年(1824年)4月生まれ、12代将軍家慶の4男で唯一成人した子供だが、病弱で脳性麻痺といわれ人前に出ることを極端に嫌い、乳母にしか心を開かなかったということ。
父家慶は家定を将軍世子にするのもためらっていたということで、祖父の11代将軍家斉と側近に至っては、孫家定の暗殺も狙っていたという話もあるほど、家定は家斉のところでは決して食べ物を口にしなかったそう。
しかし天保12年(1841年)、家慶の将軍就任で、家定は正式に父の世嗣となり、嘉永6年(1853年)6月、父家慶がペリー来航直後に病死後は29歳で将軍に就任。家定の正室は最初の鷹司政煕の娘任子が輿入れ後7年で、翌年迎えた一条忠良の娘秀子も、輿入れ後半年で死亡、側室もひとりくらいで後継ぎが期待できない状態であったそう。
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2-3、黒船来航で騒然とした世の中に
Kano Naizen – Kobe City Museum, パブリック・ドメイン, リンクによる
大名家、将軍家では、家族だけでなく多数の家来がいるため、後継ぎがしっかりしないと家中が分裂騒ぎになってお家騒動が起こるのが定番。ましてや後から考えるとペリー来航で幕末の動乱が開始するこの時代、江戸幕府の根底が揺らぎ始めて来たことで、よりしっかりした将軍が必要だと誰にも思えたことでしょう。
しかし現実の13代家定は病弱で引きこもりがち、嘉永7年(1854年)1月、ペリーの再来日でさらに体調が悪化、幕政を執るどころではなかったというのですから、一橋派が当時は英邁と思われていた慶喜を次期将軍にと熱心に運動したのも無理はないはず。
またペリー来航を契機に老中阿部正弘が人材登用を行い、賢侯と言われた外様大名らの意見を聞き入れて水戸藩主斉昭を国防に起用したりしたため、それまでは幕政に参加出来なかった外様大名たちが口をはさむようになり、開国に伴う条約問題についで将軍継嗣問題にも意見を言うようになったわけで、阿部正弘はパンドラの箱を開けたようなものだったかも。
2-4、一橋慶喜(よしのぶ)とは
Anonymous Japanese – Bakumatsu Meiji Kosha Shincho, パブリック・ドメイン, リンクによる
慶喜は、天保8年(1837年)9月、江戸小石川の水戸藩邸で9代水戸藩主徳川斉昭の7男として誕生。母は正室吉子女王(有栖川宮家出身で12代将軍家慶の正室の妹)で、幼名は七郎麻呂。父斉昭は、2代藩主光圀を尊敬していたため、子供は江戸の華美な風俗に染まらないよう水戸で養育という光圀と同じ方針で、慶喜は生後7か月から9歳まで水戸で育てられ、藩校の弘道館で会沢正志斎らから学問と武術を習得。七郎麻呂の英邁さは幼少時から注目されていたということで、父斉昭も他家に養子にやらず、ちょっとひ弱な長男慶篤の控えの方針だったそう。
弘化4年(1847年)、一橋家相続のために江戸へ出府した七郎麻呂は、元服して最初は松平昭致(あきむね)、そして12代将軍家慶の内意で御三卿一橋家の世嗣とされて一橋家を相続。家慶から偏諱を賜わって徳川慶喜に改名。家慶は正室の甥になる慶喜を見込んだようで、たびたび一橋邸を訪問して慶喜の成長を見守り、将軍継嗣の有力な候補として考えるほどだったが、老中阿部正弘の諫言で断念。
3-1、一橋慶喜を推した一橋派
南紀派の溜間詰めの大名に対して、大廊下や大広間詰めの大名と幕閣で占められた一橋派のメンバーをご紹介しますね。
3-2、徳川家慶
不明(狩野派の絵師) – The Japanese book “Exhibition of the Treasures and Papers of the Tokugawa Shogunal Household”, パブリック・ドメイン, リンクによる
12代将軍家慶は、正室の有栖川宮有栖川宮織仁親王の6女喬子女王(たかこ)が、慶喜の母である水戸斉昭の正室吉子女王の姉になるため、慶喜は義理の甥、子供の頃から利発だったという慶喜の噂を聞いていたよう。そして将軍の位には遠い水戸家出身の慶喜が一橋家を継いだのも家慶の意向であったということで、家慶は、病弱な跡取り家定に代わって慶喜を後継ぎにする考えで、慶喜を将軍家に近い御三卿のひとつである一橋家を継がせることでワンステップ近づけ、段階を踏んで次に将軍世子にと考えたのでは。
老中阿部正弘の諫言で息子の家定が世子となったとはいえ、その考えを捨てきれないまま家慶は急死。水戸斉昭、松平慶永と言った将軍に近い親族には、家慶は慶喜を将軍にしたい考えを漏らしていたなどで、強気で推していたのかも。
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