今回は南紀派を取り上げるぞ。幕末の将軍継嗣問題で真っ二つに分かれた一派のことらしいが、詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、南紀派について5分でわかるようにまとめた。

1-1、南紀派(なんきは)とは

江戸時代後期の安政年間に13代将軍徳川家定の後継者を巡って行われた派閥争いで、紀州徳川家の徳川慶福(後の14代将軍徳川家茂)を推した一派のこと。紀州藩主の派閥のために、南海道の紀伊の国で南紀派と言われたよう。

2-1、将軍継嗣問題の背景

image by PIXTA / 54489800

南紀派と一橋派の派閥争いの背後にある問題をご紹介しますね。

2-2、将軍家定の病弱

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不明(狩野派の絵師) - The Japanese book "Exhibition of the Treasures and Papers of the Tokugawa Shogunal Household", パブリック・ドメイン, リンクによる

13代将軍家定は文政7年(1824年)4月生まれで、12代将軍家慶の4男。家慶には14男13女が生まれたが、唯一家定だけが成人、しかし家定も幼少の頃から病弱で脳性麻痺の疑いがあり、天然痘のあばたを気にしていたなど、自分でもコンプレックスを持っていたらしくて人前に出ることを極端に嫌っていたそう。また、従弟でもある一橋派の越前福井藩主松平慶永(春嶽)などは、いも公方(料理好きでイモを煮て家臣に食べさせた)、暗愚とボロクソに。

家定は天保12年(1841年)、11代将軍で大御所家斉の死後、正式に父の12代将軍家慶の世嗣となり、黒船来航の19日後、嘉永6年(1853年)6月22日、父家慶が病死、家定は29歳で13代将軍に。

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2-3、ペリーの黒船来航

12代将軍家慶は、最初の黒船来航のすぐ後に亡くなったくらいなので、さぞかし心労が多いことだったはず。また嘉永7年(1854年)1月にマシュー・ペリーが7隻の艦隊を率いて再来日し、幕府は同年3月に日米和親条約に調印したとき、家定は将軍就任後さらに体調が悪化して廃人同様になったとまで言われていて、とうていこういう危機存亡のときにリーダーシップをとるべき指導者の姿ではなく、一橋派が英邁な将軍をというのも無理はない体たらく。

ということで、幕政は老中阿部正弘が主導、安政4年(1857年)6月に正弘が死去後、老中堀田正睦が幕政をつかさどることに。

2-4、徳川慶福とは

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不明(狩野派の絵師) - The Japanese book "Gems from the Shimadzu Family Documents and the Age of Atsuhime (島津の国宝と篤姫の時代)", Kyushu National Museum (九州国立博物館), 2008, パブリック・ドメイン, リンクによる

徳川慶福(よしとみ)は、弘化3年(1846年)閏5月24日、江戸の紀州藩邸で誕生。幼名は菊千代。尚、慶福の誕生16日前に父徳川斉順は46歳で死去。生母は斉順の側室お操(美佐)の方(実成院)で、兄は死産だったためひとりっ子。

慶福の父斉順(なりゆき)は、11代将軍家斉の男子26人、女子27人のなかの7男で、当初は異母兄敦之助の夭逝後、清水徳川家を継いだが、紀州藩10代藩主徳川治宝(はるとみ)の娘婿だった異母弟虎千代が早世。次に斉順が治宝の5女豊姫と結婚、治宝の婿養子となって紀州藩主になった人。父斉順の死後、11代将軍家斉の21男で12代将軍家慶と斉順の異母弟の斉彊(なりかつ)が紀州藩主になったが、嘉永2年(1849年)に死去、慶福はその養子として4歳で家督を継承。嘉永4年(1851年)元服、12代将軍家慶の諱をもらって慶福と名乗り、常陸介、従三位に。

ということで、お家騒動回避のために、徳川家は有能さではなく血の濃さと長男優先で後継ぎを選んできたが、慶福は将軍家定の従弟に当たるということで将軍の血縁に近く、生家が御三家なので臣下ではないこと、また幼少のためにペリー来航などでややこしい時代に、幕閣の老中たちの思うままに操れるという魂胆もあったはず。

3-1、南紀派のメンバー


江戸城の大名は、家格によって控室が違い、南紀派は溜間(たまりのま)詰めの親藩、譜代大名がほとんど、そして将軍の側近く仕えるものなど、主なメンバーを紹介しますね。

3-2、将軍家定

家定の父家慶は、病弱な息子に将軍の大役が務まるか心配し、正室喬子女王の甥(慶喜の母登美宮吉子女王は妹)で、子供の頃から利発な話を聞いていた水戸斉昭の7男慶喜に一橋家を継がせ、何度も一橋邸を訪ねたりして慶喜の成長を見守り、次いで将軍継嗣にしようと考えていたが、老中阿部正弘らが反対、結局、家定を将軍継嗣にしたということ。

このため当の家定は、父が自分以外のよその賢い子(慶喜)を可愛がって将軍の位をやってしまうと嫉妬心を持ったかも。そして、自分はまだ30代で男子誕生の可能性もあるのに、従弟にあたる越前福井藩主松平慶永(春嶽)や正室篤姫の実家の薩摩藩の島津斉彬らが中心となって「養子を早く決めろ、年長で英明な将軍がいい」と騒ぐのが、いたたまれなかったらしく、仮に養子としても、慶喜は自分と年が近すぎる(13歳違い)、自分より慶喜の方が美形で大奥女中たちが騒ぐ、などという理由で慶喜に反感を抱いていたといわれていて、南紀派ということに。

\次のページで「3-3、井伊直弼」を解説!/

3-3、井伊直弼

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井伊直安(1851-1935) - 世田谷区ホームページ 文化財 井伊直弼画像, パブリック・ドメイン, リンクによる

彦根藩13代藩主井伊直中(なおなか)の14男として生まれたが、兄弟が多く庶子であったため養子にも行けずに32歳まで300俵の部屋住み。弘化3年(1846年)、14代藩主で兄の直亮の世子で兄の井伊直元が死去、直弼は兄の養子として彦根藩の後継者に。そして嘉永3年(1850年)、直亮の死去で藩主となり藩政改革を行い、名君と呼ばれたということ。そして江戸城溜詰筆頭大名として将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題で存在感を示すことに。また水戸斉昭らの親藩、島津斉彬らの外様大名が幕政に関わるのには反対で、ことごとく対立し、当然将軍継嗣問題でも南紀派に。

3-4、徳川慶頼(よしより)

田安徳川家の5代、8代当主。田安家3代目斉匡(なりまさ)の9男で松平慶永(のちの春嶽、越前福井藩主)の異母弟。天保10年(1839年)慶頼は田安家を相続。家定継嗣問題では南紀派として井伊直弼と提携。安政5年(1858年)8月、家定の遺命として新将軍に慶福改め家茂となると、将軍後見職に就任。実権はなく井伊直弼の傀儡だったよう。安政の大獄後の文久2年(1862年)には、家茂が17歳になったことで将軍後見職を解任。文久の改革で将軍後見職は一橋慶喜に。慶頼は文久3年(1863年)隠居して長男寿千代へ家督を譲ったが、2年後に寿千代は夭折、家督は慶頼の3男亀之助、のちの16代家達が継承。

3-5、松平容保(かたもり)

会津藩主、尾張家の分家高須松平家の出身で、尾張本家の徳川慶勝は長兄で一橋派。容保は、会津前藩主の養父松平容敬(かたたか)が高松藩主松平頼胤とともに井伊直弼の若い頃に面倒を見た関係で、容保は直弼に息子のように可愛がってもらったということ、会津藩主として溜間詰め大名だったために南紀派に。

3-6、松平頼胤(よりたね)

 水戸藩の支藩である高松8代藩主松平頼儀の次男、頼恕の養嗣子となって天保13年(1842年)頼恕の死去で高松藩主に。井伊直弼は彦根藩主になりたての頃、溜間詰めの会津の松平容敬と頼胤に世話になったということで、南紀派。弘化元年(1844年)幕命で若年の水戸藩主徳川慶篤の藩政を補佐。尚、正室文姫は11代家斉の16女で家慶の異母妹。

3-7、松平忠固(ただかた)

嘉永7年(1854年)の日米和親条約と、安政5年(1857年)の日米修好通商条約の調印時の老中。徳川斉昭と対立して終始一貫して開国を主張、幕府の開国論を牽引し、外様大名らを入れずに譜代大名中心で幕政を進める派だったそう。尚、南紀派の井伊直弼、一橋派の松平慶永が、それぞれ将軍継嗣問題に絡んで忠固に金を贈ろうとしたときに忠固はどちらからも受け取らなかったため、南紀派という見方が一般的だが、実際には中立であったという説も。

3-8、水野忠央(ただなか)

紀州徳川家付家老で紀伊新宮藩主、大名並みの3万5000石の領地を持っていたが、附家老で陪臣、大名として認められなかったため、譜代大名並みの待遇を切望し、他の附家老5家(成瀬家、竹腰家、安藤家、水野家、中山家)が連帯、幕府に待遇改善を求めて運動を展開したり、妹を旗本の養女として大奥に入れて、将軍家慶の晩年の側室として4子を儲け(夭折)、家慶の御小姓頭取の薬師寺元真、御小納戸頭の平岡道弘にも妹を嫁がせ、御小納戸水野勝賢、御使番佐橋佳為、村上常要に弟を養子にさせたそう。13代将軍家定にも姉を側室にし、妹も大奥に。

そして忠央は紀州家附家老として慶福を推し、井伊直弼と手を結んだということ。桜田門外の変後は、旧南紀派の忠央は失脚、家督を嫡男の忠幹に譲って隠居、幽閉処分に。

\次のページで「3-9、薬師寺元真(やくしじもとざね)」を解説!/

3-9、薬師寺元真(やくしじもとざね)

天保元年(1830年)当時は将軍世子だった家慶の小姓、後、家定の小姓を務め、嘉永6年(1853年)徒頭に。井伊直弼の大老就任前日、井伊家を訪ねて将軍一大事と密談、大老就任を依頼したということ。安政6年(1859年)に御側御用取次に出世し、南紀派の紀州藩附家老水野忠央の妹を養女にし、御側御用取次平岡道弘と結婚させたそう。そういうわけで、御側御役取次平岡道弘、小姓頭取高井豊前守、諏訪安房守と並んで「同志忠義之衆」と称されて井伊大老と将軍とを結ぶ側近として活躍。 しかし文久2年(1862年)、井伊直弼暗殺後に隠居の上、知行の一部を召し上げられ処罰。

3-10、平岡道弘

御側御用取次書院番。嘉永2年(1849年)、将軍家慶、家定の御側御用取次に就任。南紀派として信濃上田藩主の老中松平忠固に与し井伊直弼の大老就任を実現。桜田門外の変後、他の南紀派は処罰されたが、文久2年(1862年)には若年寄に昇進。

3-11、大奥

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不明 - 尚古集成館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

江戸城大奥の発言権はかなり大きく、大奥に嫌われた老中などが失脚するほど。
また11代家斉の子供たちが諸大名に嫁入りなどで連れて行った大奥女中たち、また前述のように将軍家慶正室と水戸斉昭の正室が姉妹という具合なので、仕える立場の奥女中ネットワークの情報が半端なかったよう。

なので、水戸斉昭が女性問題を起こしたことが大奥の女性たちに伝わって嫌悪され、それが斉昭息子の一橋慶喜嫌いにもつながったということ。また、島津斉彬が養女篤姫を家定の正室として大奥入りさせ、家定や大奥を一橋派にするつもりが、肝心の篤姫が水戸嫌いに染まって南紀派になってしまった話も有名。そして慶福が美少年で大奥で人気があったことも大きいということ。大奥では水戸家は紀州家に比べて将軍家よりも血縁が遠く、御三家といっても下々なら他人同然と言われていたという話もあったそう。

4-1、将軍継嗣問題の行方は

将軍家定は、正室として鷹司政煕の娘任子を、次に一条忠良の娘秀子を迎えたが、次々と早世。3人目に島津斉彬の養女でさらに近衛忠煕の養女として篤姫(天璋院)が大奥入り、側室も一人くらいはいたが、実子はひとりも生まれず。年齢的にはまだ30代だが、将軍になる前から後継者が問題になっていたはずで、家定の病気悪化にともない、安政4年(1857年)頃から将軍継嗣問題はさらに激化することに。ということで、家定の後継者候補は、家定の従弟にあたる紀州藩主慶福を推す南紀派と、ペリー来航のややこしい時代を乗り切るために英邁と評判の高い一橋慶喜を推す一橋派の激突に。

家定は後継者争いについて、表立った発言もほとんどしなかったものの、安政5年(1858年)6月25日、諸大名を招集、そして慶福を将軍継嗣にするという意向を伝えて、7月5日に一橋派の諸大名の処分を発表、家定が最初で最後の将軍らしい行動だったが、翌日の7月6日(1858年8月14日)に35歳で死去。13歳の慶福が14代将軍家茂(いえもち)に。

4-2、安政の大獄

将軍家定は、南紀派の側仕えの者から一橋派が将軍の廃位を企てていると吹き込まれたということで、安政5年(1858年)4月、井伊直弼の大老就任を発令。井伊直弼は病身で虚弱とはいえ将軍をバックに独裁体制を敷くことに。

直弼は、通商条約の無勅許調印を行い、一橋派の老中堀田正睦を罷免し、将軍継嗣が慶福に決定後、決定に抗議して無断登城した水戸斉昭、越前福井藩主松平慶永、尾張藩主徳川慶勝らを隠居、謹慎に、一橋慶喜、水戸藩主徳川慶篤は登城禁止の処分に。そのうえに一橋派、尊攘派の志士たちを弾圧、越前福井藩士橋本左内らを死罪にするなど、「安政の大獄」を断行。

安政の将軍継嗣問題で勝利した南紀派

徳川将軍家は、お家騒動防止のために能力ではなく血筋と長子優先で来ましたが、安政の将軍継嗣問題は、ペリーの黒船来航もあり、幕府の権威も落ちてきたころなので、血縁の近い慶福を推す南紀派は常識的な譜代大名たちと権力を握りたい幕閣の中心人物といったところでは。

結局は最後の力を振り絞った将軍家定が、慶福を継嗣に決定して亡くなったことで、14代将軍は13歳の慶福改め家茂に決定。この措置に憤慨した一橋派の斉昭、慶篤、慶勝らが許可なく江戸城へ登城して大老井伊直弼に談判したことで蟄居謹慎を命ぜられ、井伊は安政の大獄で弾圧開始、一橋派大名はほとんど隠居、謹慎となり、橋本左内を始めとする彼らの家来、大勢の有望な志士たちが粛清され、その反発で桜田門外の変で井伊直弼も暗殺。その後は南紀派の一部も処罰されたということで、開国か攘夷かの争いもミックスした幕末のパワーゲームだったのですね。

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幕末日本史歴史江戸時代

13代将軍家定の継嗣問題で慶福を推した「南紀派」を歴女がわかりやすく解説

3-9、薬師寺元真(やくしじもとざね)

天保元年(1830年)当時は将軍世子だった家慶の小姓、後、家定の小姓を務め、嘉永6年(1853年)徒頭に。井伊直弼の大老就任前日、井伊家を訪ねて将軍一大事と密談、大老就任を依頼したということ。安政6年(1859年)に御側御用取次に出世し、南紀派の紀州藩附家老水野忠央の妹を養女にし、御側御用取次平岡道弘と結婚させたそう。そういうわけで、御側御役取次平岡道弘、小姓頭取高井豊前守、諏訪安房守と並んで「同志忠義之衆」と称されて井伊大老と将軍とを結ぶ側近として活躍。 しかし文久2年(1862年)、井伊直弼暗殺後に隠居の上、知行の一部を召し上げられ処罰。

3-10、平岡道弘

御側御用取次書院番。嘉永2年(1849年)、将軍家慶、家定の御側御用取次に就任。南紀派として信濃上田藩主の老中松平忠固に与し井伊直弼の大老就任を実現。桜田門外の変後、他の南紀派は処罰されたが、文久2年(1862年)には若年寄に昇進。

3-11、大奥

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不明 – 尚古集成館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

江戸城大奥の発言権はかなり大きく、大奥に嫌われた老中などが失脚するほど。
また11代家斉の子供たちが諸大名に嫁入りなどで連れて行った大奥女中たち、また前述のように将軍家慶正室と水戸斉昭の正室が姉妹という具合なので、仕える立場の奥女中ネットワークの情報が半端なかったよう。

なので、水戸斉昭が女性問題を起こしたことが大奥の女性たちに伝わって嫌悪され、それが斉昭息子の一橋慶喜嫌いにもつながったということ。また、島津斉彬が養女篤姫を家定の正室として大奥入りさせ、家定や大奥を一橋派にするつもりが、肝心の篤姫が水戸嫌いに染まって南紀派になってしまった話も有名。そして慶福が美少年で大奥で人気があったことも大きいということ。大奥では水戸家は紀州家に比べて将軍家よりも血縁が遠く、御三家といっても下々なら他人同然と言われていたという話もあったそう。

4-1、将軍継嗣問題の行方は

将軍家定は、正室として鷹司政煕の娘任子を、次に一条忠良の娘秀子を迎えたが、次々と早世。3人目に島津斉彬の養女でさらに近衛忠煕の養女として篤姫(天璋院)が大奥入り、側室も一人くらいはいたが、実子はひとりも生まれず。年齢的にはまだ30代だが、将軍になる前から後継者が問題になっていたはずで、家定の病気悪化にともない、安政4年(1857年)頃から将軍継嗣問題はさらに激化することに。ということで、家定の後継者候補は、家定の従弟にあたる紀州藩主慶福を推す南紀派と、ペリー来航のややこしい時代を乗り切るために英邁と評判の高い一橋慶喜を推す一橋派の激突に。

家定は後継者争いについて、表立った発言もほとんどしなかったものの、安政5年(1858年)6月25日、諸大名を招集、そして慶福を将軍継嗣にするという意向を伝えて、7月5日に一橋派の諸大名の処分を発表、家定が最初で最後の将軍らしい行動だったが、翌日の7月6日(1858年8月14日)に35歳で死去。13歳の慶福が14代将軍家茂(いえもち)に。

4-2、安政の大獄

将軍家定は、南紀派の側仕えの者から一橋派が将軍の廃位を企てていると吹き込まれたということで、安政5年(1858年)4月、井伊直弼の大老就任を発令。井伊直弼は病身で虚弱とはいえ将軍をバックに独裁体制を敷くことに。

直弼は、通商条約の無勅許調印を行い、一橋派の老中堀田正睦を罷免し、将軍継嗣が慶福に決定後、決定に抗議して無断登城した水戸斉昭、越前福井藩主松平慶永、尾張藩主徳川慶勝らを隠居、謹慎に、一橋慶喜、水戸藩主徳川慶篤は登城禁止の処分に。そのうえに一橋派、尊攘派の志士たちを弾圧、越前福井藩士橋本左内らを死罪にするなど、「安政の大獄」を断行。

安政の将軍継嗣問題で勝利した南紀派

徳川将軍家は、お家騒動防止のために能力ではなく血筋と長子優先で来ましたが、安政の将軍継嗣問題は、ペリーの黒船来航もあり、幕府の権威も落ちてきたころなので、血縁の近い慶福を推す南紀派は常識的な譜代大名たちと権力を握りたい幕閣の中心人物といったところでは。

結局は最後の力を振り絞った将軍家定が、慶福を継嗣に決定して亡くなったことで、14代将軍は13歳の慶福改め家茂に決定。この措置に憤慨した一橋派の斉昭、慶篤、慶勝らが許可なく江戸城へ登城して大老井伊直弼に談判したことで蟄居謹慎を命ぜられ、井伊は安政の大獄で弾圧開始、一橋派大名はほとんど隠居、謹慎となり、橋本左内を始めとする彼らの家来、大勢の有望な志士たちが粛清され、その反発で桜田門外の変で井伊直弼も暗殺。その後は南紀派の一部も処罰されたということで、開国か攘夷かの争いもミックスした幕末のパワーゲームだったのですね。

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