幕末日本史歴史江戸時代

13代将軍家定の継嗣問題で慶福を推した「南紀派」を歴女がわかりやすく解説

3-9、薬師寺元真(やくしじもとざね)

天保元年(1830年)当時は将軍世子だった家慶の小姓、後、家定の小姓を務め、嘉永6年(1853年)徒頭に。井伊直弼の大老就任前日、井伊家を訪ねて将軍一大事と密談、大老就任を依頼したということ。安政6年(1859年)に御側御用取次に出世し、南紀派の紀州藩附家老水野忠央の妹を養女にし、御側御用取次平岡道弘と結婚させたそう。そういうわけで、御側御役取次平岡道弘、小姓頭取高井豊前守、諏訪安房守と並んで「同志忠義之衆」と称されて井伊大老と将軍とを結ぶ側近として活躍。 しかし文久2年(1862年)、井伊直弼暗殺後に隠居の上、知行の一部を召し上げられ処罰。

3-10、平岡道弘

御側御用取次書院番。嘉永2年(1849年)、将軍家慶、家定の御側御用取次に就任。南紀派として信濃上田藩主の老中松平忠固に与し井伊直弼の大老就任を実現。桜田門外の変後、他の南紀派は処罰されたが、文久2年(1862年)には若年寄に昇進。

3-11、大奥

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不明 – 尚古集成館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

江戸城大奥の発言権はかなり大きく、大奥に嫌われた老中などが失脚するほど。
また11代家斉の子供たちが諸大名に嫁入りなどで連れて行った大奥女中たち、また前述のように将軍家慶正室と水戸斉昭の正室が姉妹という具合なので、仕える立場の奥女中ネットワークの情報が半端なかったよう。

なので、水戸斉昭が女性問題を起こしたことが大奥の女性たちに伝わって嫌悪され、それが斉昭息子の一橋慶喜嫌いにもつながったということ。また、島津斉彬が養女篤姫を家定の正室として大奥入りさせ、家定や大奥を一橋派にするつもりが、肝心の篤姫が水戸嫌いに染まって南紀派になってしまった話も有名。そして慶福が美少年で大奥で人気があったことも大きいということ。大奥では水戸家は紀州家に比べて将軍家よりも血縁が遠く、御三家といっても下々なら他人同然と言われていたという話もあったそう。

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へええ、奥女中ネットワークってすごいが、やっぱり美少年はいつの時代も得だよな

4-1、将軍継嗣問題の行方は

将軍家定は、正室として鷹司政煕の娘任子を、次に一条忠良の娘秀子を迎えたが、次々と早世。3人目に島津斉彬の養女でさらに近衛忠煕の養女として篤姫(天璋院)が大奥入り、側室も一人くらいはいたが、実子はひとりも生まれず。年齢的にはまだ30代だが、将軍になる前から後継者が問題になっていたはずで、家定の病気悪化にともない、安政4年(1857年)頃から将軍継嗣問題はさらに激化することに。ということで、家定の後継者候補は、家定の従弟にあたる紀州藩主慶福を推す南紀派と、ペリー来航のややこしい時代を乗り切るために英邁と評判の高い一橋慶喜を推す一橋派の激突に。

家定は後継者争いについて、表立った発言もほとんどしなかったものの、安政5年(1858年)6月25日、諸大名を招集、そして慶福を将軍継嗣にするという意向を伝えて、7月5日に一橋派の諸大名の処分を発表、家定が最初で最後の将軍らしい行動だったが、翌日の7月6日(1858年8月14日)に35歳で死去。13歳の慶福が14代将軍家茂(いえもち)に。

4-2、安政の大獄

将軍家定は、南紀派の側仕えの者から一橋派が将軍の廃位を企てていると吹き込まれたということで、安政5年(1858年)4月、井伊直弼の大老就任を発令。井伊直弼は病身で虚弱とはいえ将軍をバックに独裁体制を敷くことに。

直弼は、通商条約の無勅許調印を行い、一橋派の老中堀田正睦を罷免し、将軍継嗣が慶福に決定後、決定に抗議して無断登城した水戸斉昭、越前福井藩主松平慶永、尾張藩主徳川慶勝らを隠居、謹慎に、一橋慶喜、水戸藩主徳川慶篤は登城禁止の処分に。そのうえに一橋派、尊攘派の志士たちを弾圧、越前福井藩士橋本左内らを死罪にするなど、「安政の大獄」を断行。

安政の将軍継嗣問題で勝利した南紀派

徳川将軍家は、お家騒動防止のために能力ではなく血筋と長子優先で来ましたが、安政の将軍継嗣問題は、ペリーの黒船来航もあり、幕府の権威も落ちてきたころなので、血縁の近い慶福を推す南紀派は常識的な譜代大名たちと権力を握りたい幕閣の中心人物といったところでは。

結局は最後の力を振り絞った将軍家定が、慶福を継嗣に決定して亡くなったことで、14代将軍は13歳の慶福改め家茂に決定。この措置に憤慨した一橋派の斉昭、慶篤、慶勝らが許可なく江戸城へ登城して大老井伊直弼に談判したことで蟄居謹慎を命ぜられ、井伊は安政の大獄で弾圧開始、一橋派大名はほとんど隠居、謹慎となり、橋本左内を始めとする彼らの家来、大勢の有望な志士たちが粛清され、その反発で桜田門外の変で井伊直弼も暗殺。その後は南紀派の一部も処罰されたということで、開国か攘夷かの争いもミックスした幕末のパワーゲームだったのですね。

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