幕末日本史歴史江戸時代

13代将軍家定の継嗣問題で慶福を推した「南紀派」を歴女がわかりやすく解説

3-3、井伊直弼

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井伊直安(1851-1935) – 世田谷区ホームページ 文化財 井伊直弼画像, パブリック・ドメイン, リンクによる

彦根藩13代藩主井伊直中(なおなか)の14男として生まれたが、兄弟が多く庶子であったため養子にも行けずに32歳まで300俵の部屋住み。弘化3年(1846年)、14代藩主で兄の直亮の世子で兄の井伊直元が死去、直弼は兄の養子として彦根藩の後継者に。そして嘉永3年(1850年)、直亮の死去で藩主となり藩政改革を行い、名君と呼ばれたということ。そして江戸城溜詰筆頭大名として将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題で存在感を示すことに。また水戸斉昭らの親藩、島津斉彬らの外様大名が幕政に関わるのには反対で、ことごとく対立し、当然将軍継嗣問題でも南紀派に。

3-4、徳川慶頼(よしより)

田安徳川家の5代、8代当主。田安家3代目斉匡(なりまさ)の9男で松平慶永(のちの春嶽、越前福井藩主)の異母弟。天保10年(1839年)慶頼は田安家を相続。家定継嗣問題では南紀派として井伊直弼と提携。安政5年(1858年)8月、家定の遺命として新将軍に慶福改め家茂となると、将軍後見職に就任。実権はなく井伊直弼の傀儡だったよう。安政の大獄後の文久2年(1862年)には、家茂が17歳になったことで将軍後見職を解任。文久の改革で将軍後見職は一橋慶喜に。慶頼は文久3年(1863年)隠居して長男寿千代へ家督を譲ったが、2年後に寿千代は夭折、家督は慶頼の3男亀之助、のちの16代家達が継承。

3-5、松平容保(かたもり)

会津藩主、尾張家の分家高須松平家の出身で、尾張本家の徳川慶勝は長兄で一橋派。容保は、会津前藩主の養父松平容敬(かたたか)が高松藩主松平頼胤とともに井伊直弼の若い頃に面倒を見た関係で、容保は直弼に息子のように可愛がってもらったということ、会津藩主として溜間詰め大名だったために南紀派に。

3-6、松平頼胤(よりたね)

 水戸藩の支藩である高松8代藩主松平頼儀の次男、頼恕の養嗣子となって天保13年(1842年)頼恕の死去で高松藩主に。井伊直弼は彦根藩主になりたての頃、溜間詰めの会津の松平容敬と頼胤に世話になったということで、南紀派。弘化元年(1844年)幕命で若年の水戸藩主徳川慶篤の藩政を補佐。尚、正室文姫は11代家斉の16女で家慶の異母妹。

3-7、松平忠固(ただかた)

嘉永7年(1854年)の日米和親条約と、安政5年(1857年)の日米修好通商条約の調印時の老中。徳川斉昭と対立して終始一貫して開国を主張、幕府の開国論を牽引し、外様大名らを入れずに譜代大名中心で幕政を進める派だったそう。尚、南紀派の井伊直弼、一橋派の松平慶永が、それぞれ将軍継嗣問題に絡んで忠固に金を贈ろうとしたときに忠固はどちらからも受け取らなかったため、南紀派という見方が一般的だが、実際には中立であったという説も。

3-8、水野忠央(ただなか)

紀州徳川家付家老で紀伊新宮藩主、大名並みの3万5000石の領地を持っていたが、附家老で陪臣、大名として認められなかったため、譜代大名並みの待遇を切望し、他の附家老5家(成瀬家、竹腰家、安藤家、水野家、中山家)が連帯、幕府に待遇改善を求めて運動を展開したり、妹を旗本の養女として大奥に入れて、将軍家慶の晩年の側室として4子を儲け(夭折)、家慶の御小姓頭取の薬師寺元真、御小納戸頭の平岡道弘にも妹を嫁がせ、御小納戸水野勝賢、御使番佐橋佳為、村上常要に弟を養子にさせたそう。13代将軍家定にも姉を側室にし、妹も大奥に。

そして忠央は紀州家附家老として慶福を推し、井伊直弼と手を結んだということ。桜田門外の変後は、旧南紀派の忠央は失脚、家督を嫡男の忠幹に譲って隠居、幽閉処分に。

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