幕末日本史歴史江戸時代

13代将軍家定の継嗣問題で慶福を推した「南紀派」を歴女がわかりやすく解説

2-3、ペリーの黒船来航

12代将軍家慶は、最初の黒船来航のすぐ後に亡くなったくらいなので、さぞかし心労が多いことだったはず。また嘉永7年(1854年)1月にマシュー・ペリーが7隻の艦隊を率いて再来日し、幕府は同年3月に日米和親条約に調印したとき、家定は将軍就任後さらに体調が悪化して廃人同様になったとまで言われていて、とうていこういう危機存亡のときにリーダーシップをとるべき指導者の姿ではなく、一橋派が英邁な将軍をというのも無理はない体たらく。

ということで、幕政は老中阿部正弘が主導、安政4年(1857年)6月に正弘が死去後、老中堀田正睦が幕政をつかさどることに。

2-4、徳川慶福とは

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不明(狩野派の絵師) – The Japanese book “Gems from the Shimadzu Family Documents and the Age of Atsuhime (島津の国宝と篤姫の時代)”, Kyushu National Museum (九州国立博物館), 2008, パブリック・ドメイン, リンクによる

徳川慶福(よしとみ)は、弘化3年(1846年)閏5月24日、江戸の紀州藩邸で誕生。幼名は菊千代。尚、慶福の誕生16日前に父徳川斉順は46歳で死去。生母は斉順の側室お操(美佐)の方(実成院)で、兄は死産だったためひとりっ子。

慶福の父斉順(なりゆき)は、11代将軍家斉の男子26人、女子27人のなかの7男で、当初は異母兄敦之助の夭逝後、清水徳川家を継いだが、紀州藩10代藩主徳川治宝(はるとみ)の娘婿だった異母弟虎千代が早世。次に斉順が治宝の5女豊姫と結婚、治宝の婿養子となって紀州藩主になった人。父斉順の死後、11代将軍家斉の21男で12代将軍家慶と斉順の異母弟の斉彊(なりかつ)が紀州藩主になったが、嘉永2年(1849年)に死去、慶福はその養子として4歳で家督を継承。嘉永4年(1851年)元服、12代将軍家慶の諱をもらって慶福と名乗り、常陸介、従三位に。

ということで、お家騒動回避のために、徳川家は有能さではなく血の濃さと長男優先で後継ぎを選んできたが、慶福は将軍家定の従弟に当たるということで将軍の血縁に近く、生家が御三家なので臣下ではないこと、また幼少のためにペリー来航などでややこしい時代に、幕閣の老中たちの思うままに操れるという魂胆もあったはず。

3-1、南紀派のメンバー


江戸城の大名は、家格によって控室が違い、南紀派は溜間(たまりのま)詰めの親藩、譜代大名がほとんど、そして将軍の側近く仕えるものなど、主なメンバーを紹介しますね。

3-2、将軍家定

家定の父家慶は、病弱な息子に将軍の大役が務まるか心配し、正室喬子女王の甥(慶喜の母登美宮吉子女王は妹)で、子供の頃から利発な話を聞いていた水戸斉昭の7男慶喜に一橋家を継がせ、何度も一橋邸を訪ねたりして慶喜の成長を見守り、次いで将軍継嗣にしようと考えていたが、老中阿部正弘らが反対、結局、家定を将軍継嗣にしたということ。

このため当の家定は、父が自分以外のよその賢い子(慶喜)を可愛がって将軍の位をやってしまうと嫉妬心を持ったかも。そして、自分はまだ30代で男子誕生の可能性もあるのに、従弟にあたる越前福井藩主松平慶永(春嶽)や正室篤姫の実家の薩摩藩の島津斉彬らが中心となって「養子を早く決めろ、年長で英明な将軍がいい」と騒ぐのが、いたたまれなかったらしく、仮に養子としても、慶喜は自分と年が近すぎる(13歳違い)、自分より慶喜の方が美形で大奥女中たちが騒ぐ、などという理由で慶喜に反感を抱いていたといわれていて、南紀派ということに。

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うむ、父は病弱な息子に負担をかけたくなかったんだろうが、息子の受け取り方は複雑だったんだろうな

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