大学のキャンパスといったらどんなイメージをするでしょうか。

部活やサークルの勧誘。どこかの研究室メンバーによるBBQ。華やかなアベック。ジャグリングの練習。そして、拡声器を使って何かを呼びかける政治活動家たち。大学の雰囲気や世代によっても異なるが、だいたこんなとこでしょう。最後に挙げた「活動」。かつてはかなり盛んな時期があった。各大学に「全学共闘会議」と呼ばれる活動に特化した組織が大々的に存在していた。

彼らがどんな目的で何をしていたか、昭和史に詳しい平成産まれのR175と解説していく。

ライター/R175

学生時代、個人的に昭和史に興味があり図書館やネットで知識を得ていた。理系学部に属しながら、社会科学系図書館に通っていた。

1.学生生活を良くしたい~全学共闘会議(全共闘 ゼンキョウトウ)

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拡声器を持った若者が何かを呼びかけたり、授業が始まる前にビラを配りに来たりといった光景が各地の大学で散見されます。現代では、アメリカ軍の基地問題、自衛隊派遣、消費税、選挙権などのテーマがあるでしょう。かつては、こういった学生たちによる活動がかなり盛んな時期がありました。

拡声器を持って人々に自分たちの主張を訴えたり、自分たちの主張を書いたビラを配ったり、デモをしたり、そして時には警察と衝突したり。かつて(1960年代後半)、そういった自分たちの主張をする「活動」をする組織が各大学に存在しました。そういった組織の1つが「全学共闘会議」、略して「全共闘」と呼ばれるもの。

~大学全共闘」、あるいは大きな大学では「~大学~学部全共闘」といったネーミング。闘争活動に力を注ぐあまり授業にほとんど出席せず留年、それどころか逮捕されたり、退学処分を受け大学を去っていく学生も少なくありませんでした。彼らの思いは一体何だったのでしょうか。

注意1:活動組織は全共闘だけじゃない

学生運動がさかんだった1960年代後半。全共闘もさかんに活動していた組織の1つですが、みんながみんな「全共闘」だったわけではありません。

似た名前の組織に「全学連」があります。こちらは1948年に日本の145大学で結成された自治組織。共産党や新左翼党派といった政党の傘下にあります。彼らも盛んに学生運動を行っていました。全学連の中には、「全共闘」と対立しているグループもありました。

確かに学生運動が最も盛んだった1968~69年頃の一連の闘争は「全共闘運動」と称されますが、学生運動をしていたみんながみんな「全共闘」だったわけではありません。

注意2:当時の大学生がみんなが学生運動をしていたわけではない

この記事のテーマは?「全共闘世代」。全共闘の「世代」であっても、学生運動ノータッチだった方も多数いらっしゃいます。

フルでバイトを入れないと生活していけない、授業はちゃんと出たい、麻雀が忙しい、部活が忙しい、エレキバンドをやりたい、何でもいいから自由に過ごしたい。学生たちには皆それぞれの事情があります。

あくまで、その頃の若者の一部が学生運動をしていたということ。高校生が皆「タピオカ」をインスタやツイートに挙げるわけではなく、東京の若者が皆ハロウィン時期に渋谷に行っているわけではありません。それと同じです。

2.きっかけの1つは授業料値上げ

道行く人にアジテーションしたり、デモを起こしたり、バリケード封鎖して立てこもったり。学生闘争は一種のブームだったと捉えられることもあります。しかし、何も目的なくただただ盛り上がっていたわけがありません。

アルバイトをしながら何とかやりくりしているのに突然授業料を上げられる。困りますね。皆怒ります。有志で集まり大学側に抗議。

もちろん授業料値上げ以外にも理由がありました。授業料値上げをきっかけに学生たちの抗議が激しくなったケースが多いですが、他にも事情はさまざま。学生寮の寮則を、学生会館の運営権、医師国家試験の受験資格など各大学でさまざま事情がありました。

3.デモ・ストライキ

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大学側に抗議するため、まずはデモ。大勢で集まってデモ行進することで、自分たちの主張を強く訴えかけました。そして、授業を皆で放棄して、大学の運営を成り立たなくさせようとします。ストライキです。

しかし、学生がストライキを起こしたところで大学側はあまり困りません。「授業に来ないなら勝手にどうぞ、全員”不可”をつけますから」といった具合。

デモやストライキだけでは要求を呑んでもらえない学生はたちは次の行動に。

\次のページで「4.バリケード封鎖」を解説!/

4.バリケード封鎖

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大学の建物の一部を占拠して封鎖。椅子や机やらを大量に並べて壁(バリケード)を作ったのです。そうなると、大学側は困ります。占拠されているキャンパスはニュース報道で目立つもの。「あの大学、あんなことになってるのか。荒れてるのだな」という印象に。

入学試験をするにも、機動隊を呼んで警備する必要が出てきます。バリケード封鎖している学生たちが入学試験の妨害をしてくる恐れもあるのです。1960年代中頃、こういった「バリケード封鎖」が各大学に広まりました。

5.東大紛争

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東京大学でもバリケード封鎖が行われていました。きっかけは、医師国家試験の受験資格を巡っての抗議活動でした。戦後、医師の国家試験を受けるためには、「インターン制度」といって卒業後に6か月間診療修練を積むことが義務付けられていました。

これに対し学生は「インターンという制度の元、劣悪な環境で働かせている」として抗議活動をスタート。1968年3月、東京大学の安田講堂を一時的に占拠し卒業式を中止させます。

5-1.混乱は激化

1968年度、新学期になっても、医学部学生からの反発が強く、再び安田講堂が占拠されます。これに対し、大学側は「機動隊」を導入し強制排除。学生側の反発は高まり、今度は安田講堂にバリケードが築かれました。安田講堂が本格的に封鎖されます。

その後、大学内の主要な建物がどんどん封鎖され、まともに大学運営が出来なくなり、大混乱状態。大学総長も辞任。

5-2.機動隊によるバリケード解除

1969年1月、大学側は機動隊に安田講堂のバリケード解体を要請しました。封鎖解除1日目、機動隊はまず各学部施設のバリケードを解除していき、安田講堂までたどり着きます。

しかし、学生側から火炎瓶や投石、劇薬による激しい抵抗に合い苦戦。夕方に一旦引き上げます。

強硬手段をとれない警察官

東大紛争が起きた当時、学生運動に対し警察が強く出られない事情がありました。理由は活動家仲間による反発への恐れ。

安田講堂への突入で、活動家たちを死傷させると、仲間の活動家たちからの反発が強まり警察官が攻撃される恐れもあります。また、更に事件がおきる可能性もあります。そのくらい当時の日本では活動家たちが恐れられていました。

よって、活動家たちに下手な対応をとることは出来ず、それで以ってバリケードを解除していくのは非常に難しいのです。

封鎖解除2日目。早朝午前6時半から、作戦開始。

抵抗する学生たちをケガさせられない。とは言え、バリケードを解除する必要があります。警察側は催眠ガスや放水によって応戦し夕方には安田講堂を制圧しました。

\次のページで「5-3.まさかの東大入試がなくなる」を解説!/

5-3.まさかの東大入試がなくなる

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受験生の皆さんが聞くと特にショッキングな出来事。1969年、なんと東大の入試が中止になりました。ストライキや授業中止が相次いでいて、まともに運営出来ておらず、新入生を迎えることは難しいと判断されました。東大を目指していた現役生は浪人か別の大学を受ける、浪人生はもう一浪か別の大学を受けることに。

次の年の東大入試は単純計算で志願者が2倍になると思うと、絶望ですね。

6.全国的に広がる

安田講堂のバリケードが解体されたことで、東大での全共闘運動は下火に。しかし、皮肉にも東大紛争をきっかけに、全国の他大学に全共闘運動が一気に広がります。

1969年(昭和44年)頃には、京都大学をはじめ、北海道大学、東北大学、一橋大学、東京外国語大学、東京教育大学、横浜国立大学、静岡大学、信州大学、金沢大学、名古屋大学、大阪大学、大阪教育大学、大阪市立大学、岡山大学、広島大学、九州大学、熊本大学、明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学、法政大学、日本大学、東洋大学、中央大学、同志社大学、立命館大学、関西大学、関西学院大学、など、日本の主要な国公立大学や私立大学の8割に該当する165校が全共闘による闘争状態にあるか全学バリケード封鎖をしました。

7.学生運動の陰り

全国で全共闘運動が盛んに起きますが、最終的には鎮圧されてしまうことに。「せっかく主張しても力で封じ込まれる」というムードが出てきます。そこで、2手に分かれました。諦める派orもっと頑張る派。

8.武装化

何としでも、対抗したいと思う人たち(もっと頑張る派)は、武装化していきます。機動隊に制圧されるんであればそれに敵うだけの「武力」をつければいい。そのような発想で、一部の集団は武装組織に。

武装するのはさすがに抵抗がある」そう思う人が多いもの。闘争活動をする人数が減っていき、学生運動は徐々に下火になってきます。一方、闘争を続ける選択をした人たちは、鎮圧されないよう武力を強化武装化して闘争を続けることを選んだ過激派は武器の調達を試みました。

8-1.警察官を襲撃

上赤塚交番襲撃事件:1970年12月18日、過激派メンバー3人が板橋区の志村警察署上赤塚交番を襲撃。応戦した警官によって、過激派メンバーの一人が射殺されました。日本の左翼運動家が警察官に射殺された初めてのケース。

8-2.猟銃店を襲撃

警察官の襲撃に失敗した過激派グループは鉄砲店からの銃強奪を実行します。

真岡銃砲店襲撃事件:1971年2月17日、過激派グループの6人が電報配達を装って栃木県真岡市の銃砲店の勝手口を叩き乱入し、一家4人を縛った上猟銃10丁(散弾銃9、ライフル1)空気銃1丁・鉄弾約2300発を強奪。

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9.本格的な非合法組織に~学生運動衰退の理由~

過激派が本格的に事件を起こすようになると、支持する人が減ってきます。支持者が減った過激派グループは資金源に困り、金融機関の襲撃などさらなる犯罪行為に及ぶことに。

9-1.殺人事件

犯罪行為を繰り返すうちに、怖くなったメンバーが逃げようとします。しかし、逃がしてしまうと警察への密告のおそれあり。そこで最悪な選択へ。なんと、逃げようとし仲間を殺してしまうのです。

そして、警察からの逃れるために山にこもって活動していました。山奥での不便な生活の中、軍事訓練を続ける中メンバーたちはストレスを抱えていきます。

怒りの矛先は仲間へ。

人間、ストレスがたまってくると仲間のちょっとした言動にイラっとくるもの。他のメンバーから目をつけられた人は「イジメ」の対象に。山の中での集団生活中、仲間からの集団リンチ事件が起きます。これが山岳ベース事件です。

他にもハイジャック事件を起こしたり、機動隊を襲撃して殺害したり等、過激派を選んだ人たちは、非合法な道に進み急速に支持を失います。

ガチでやるか諦めるか二択

自分たちの意見を主張したいけれど、中途半端に主張したところで鎮圧されてしまう。だったら、諦めようか。主張するなら、本格的に武装化する必要があり、非合法な手段になってしまう。学生運動へのハードルが一気に上がり、活動する人は少数に。そして、衰退していきました。

空前絶後の大混乱

大学側に本格的に抗議するためには、バリケード封鎖等実力行使が必要。東大紛争をきっかけに全国の大学に広がります。全共闘世代とは、このような学生運動をしていた世代のこと。学生運動は警察によって鎮圧されてしまい、諦めムードに。諦めなかった一部の人は過激派となるが、急速に支持を失う。かくして、学生運動をする人が減っていきました

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現代社会

本気で意見を主張「全共闘世代」の状況を平成産まれのライターが客観的にわかりやすく解説

大学のキャンパスといったらどんなイメージをするでしょうか。

部活やサークルの勧誘。どこかの研究室メンバーによるBBQ。華やかなアベック。ジャグリングの練習。そして、拡声器を使って何かを呼びかける政治活動家たち。大学の雰囲気や世代によっても異なるが、だいたこんなとこでしょう。最後に挙げた「活動」。かつてはかなり盛んな時期があった。各大学に「全学共闘会議」と呼ばれる活動に特化した組織が大々的に存在していた。

彼らがどんな目的で何をしていたか、昭和史に詳しい平成産まれのR175と解説していく。

ライター/R175

学生時代、個人的に昭和史に興味があり図書館やネットで知識を得ていた。理系学部に属しながら、社会科学系図書館に通っていた。

1.学生生活を良くしたい~全学共闘会議(全共闘 ゼンキョウトウ)

image by PIXTA / 30698736

拡声器を持った若者が何かを呼びかけたり、授業が始まる前にビラを配りに来たりといった光景が各地の大学で散見されます。現代では、アメリカ軍の基地問題、自衛隊派遣、消費税、選挙権などのテーマがあるでしょう。かつては、こういった学生たちによる活動がかなり盛んな時期がありました。

拡声器を持って人々に自分たちの主張を訴えたり、自分たちの主張を書いたビラを配ったり、デモをしたり、そして時には警察と衝突したり。かつて(1960年代後半)、そういった自分たちの主張をする「活動」をする組織が各大学に存在しました。そういった組織の1つが「全学共闘会議」、略して「全共闘」と呼ばれるもの。

~大学全共闘」、あるいは大きな大学では「~大学~学部全共闘」といったネーミング。闘争活動に力を注ぐあまり授業にほとんど出席せず留年、それどころか逮捕されたり、退学処分を受け大学を去っていく学生も少なくありませんでした。彼らの思いは一体何だったのでしょうか。

注意1:活動組織は全共闘だけじゃない

学生運動がさかんだった1960年代後半。全共闘もさかんに活動していた組織の1つですが、みんながみんな「全共闘」だったわけではありません。

似た名前の組織に「全学連」があります。こちらは1948年に日本の145大学で結成された自治組織。共産党や新左翼党派といった政党の傘下にあります。彼らも盛んに学生運動を行っていました。全学連の中には、「全共闘」と対立しているグループもありました。

確かに学生運動が最も盛んだった1968~69年頃の一連の闘争は「全共闘運動」と称されますが、学生運動をしていたみんながみんな「全共闘」だったわけではありません。

注意2:当時の大学生がみんなが学生運動をしていたわけではない

この記事のテーマは?「全共闘世代」。全共闘の「世代」であっても、学生運動ノータッチだった方も多数いらっしゃいます。

フルでバイトを入れないと生活していけない、授業はちゃんと出たい、麻雀が忙しい、部活が忙しい、エレキバンドをやりたい、何でもいいから自由に過ごしたい。学生たちには皆それぞれの事情があります。

あくまで、その頃の若者の一部が学生運動をしていたということ。高校生が皆「タピオカ」をインスタやツイートに挙げるわけではなく、東京の若者が皆ハロウィン時期に渋谷に行っているわけではありません。それと同じです。

2.きっかけの1つは授業料値上げ

道行く人にアジテーションしたり、デモを起こしたり、バリケード封鎖して立てこもったり。学生闘争は一種のブームだったと捉えられることもあります。しかし、何も目的なくただただ盛り上がっていたわけがありません。

アルバイトをしながら何とかやりくりしているのに突然授業料を上げられる。困りますね。皆怒ります。有志で集まり大学側に抗議。

もちろん授業料値上げ以外にも理由がありました。授業料値上げをきっかけに学生たちの抗議が激しくなったケースが多いですが、他にも事情はさまざま。学生寮の寮則を、学生会館の運営権、医師国家試験の受験資格など各大学でさまざま事情がありました。

3.デモ・ストライキ

image by PIXTA / 30698787

大学側に抗議するため、まずはデモ。大勢で集まってデモ行進することで、自分たちの主張を強く訴えかけました。そして、授業を皆で放棄して、大学の運営を成り立たなくさせようとします。ストライキです。

しかし、学生がストライキを起こしたところで大学側はあまり困りません。「授業に来ないなら勝手にどうぞ、全員”不可”をつけますから」といった具合。

デモやストライキだけでは要求を呑んでもらえない学生はたちは次の行動に。

\次のページで「4.バリケード封鎖」を解説!/

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