平安時代日本史

伝説に残る弘法大師「空海」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

よぉ、桜木健二だ。奈良時代から平安時代への変わり目に宗教界もひとつの節目を迎える時期となった。「空海」は留学僧として唐へ渡り、日本に帰って「真言宗」を開いたカリスマ的な僧侶だ。

今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「空海」をテーマに解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

riri_ririco

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平安時代は得意分野。

1.空海、唐へ留学する

Kobo Daishi (Taisanji Matsuyama).jpg
Anonymous Kamakura-period artist – https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/rekishibunka/bunkazai/ken/kouboudaisizou_1fuku.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

空海の伝記については不明な部分が多く、特に修行時代については詳しくわかっていません。そのため、弘法大師が各地に現れ、奇跡を起こしたという伝説が多く残されています。伝説は真言宗への信仰とは別に「弘法大師信仰」として現代でも親しまれているのです。

大学寮へ入学後、出家

空海は、774年に讃岐(香川県)の地方官吏の息子として生まれました。

その当時の官人の子どもはたいてい、国ごとに設けられた国学という学校に入り、都の大学寮を目指して勉強します。空海も例にもれず18歳で大学寮へ行くのですが、彼にとっては大学の学問だけでは不足で、二、三年後には山林修行をするためにやめてしまいました。その後は紀伊半島や四国の山々を巡ったとされています。

そうして、24歳のときに出家を反対する親族に出家宣言として『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を書き上げました。この著書は儒教、道教、仏教の比較して優劣をつけた論文で、「儒教は官吏の道、道教は仙人になる道で、来世の父母をことはできない」と主張し、仏教が最も優れていると説きます。また、後に『聾瞽指帰』を『三教指帰(さんごうしいき)』と改めて朝廷に提出すると、これは宮廷で広く読まれ、任官試験の対策書として貴族たちの間で活用されることになりました。

留学僧として唐へ

image by PIXTA / 41679951

『聾瞽指帰』を書いたあと、空海が唐へ旅立つまでの足取りは実はよくわかっていません。おそらく山林修行を続けていたのでしょう。このころに『大日経』などの密教経典と出会い、さらに唐の言葉を学んだのではないかと考えられています。

そして、803年、空海は31歳で留学僧として遣唐使の船団に乗り込みました。

このとき、同じ船団には「天台宗」の開祖「最澄」もいたのですが、この当時のふたりに面識はありません。最澄は桓武天皇から信頼され、すでに名前の通った僧侶なのに対して、空海はまったく無名の留学僧にすぎませんでした。最澄が一年の短期留学だったのに対し、空海は二十年におよぶ長期留学を命じられています。

青龍寺の密教僧「恵果」に弟子入り

唐の長安(今の西安)に入ると、空海は青龍寺の密教僧「恵果(えか)」に弟子入りして灌頂を受けます。

密教でいう「灌頂」というのは入門の儀式のことです。このとき空海は「遍照金剛」の灌頂名を与えられました。「遍照金剛」は大日如来の別名であり、「この世の一切を遍く照らす最上のもの」を意味します。四国遍路などで「南無大師遍照金剛」と唱えるのはここからきているんですよ。

恵果は空海がすでに過酷な修行を十分に積んでいるのを見抜き、すぐに密教の奥義を伝授して継がせることにしました。さらに空海のために曼荼羅や、たくさんの経典と法具をつくって持たせてくれたのです。

ちょっとだけ謹慎

恵果の入寂(僧侶がなくなること)後の806年、空海は偶然にも居合わせた遣唐使の船に便乗して帰国することに成功しました。当時、遣唐使の派遣はめっきり減っていて、そのこともあっての二十年留学でしたから、この偶然はとても幸運なことです。

しかし、二十年留学の約束を日本国家と交わしていたわけですから、二年で帰って来るとはいったいどういうことなんだ、と問われることになります。

そうは言っても無名だった空海がたった二年で得た成果はとてつもなく大きなものでした。このときに空海が朝廷に提出した『請来目録』には帰国の事情と、恵果から授かった経典、法具、曼荼羅などの目録が詳しく記されています。なので、空海が唐から持ち帰ったのがどういうものだったのか、現代にも正確に伝わっているのです。

朝廷としても、こんな大功績を納めた空海の対応に困ってしまいました。ために、朝廷は無事に大宰府(福岡県)に帰り着いた空海に、そのまま大宰府に二年間滞在する謹慎を言い渡したのです。

次のページを読む
1 2 3
Share:
riri_ririco