
城下町の風景
丸岡城の城下には戦国時代以降の建造物が多く残されていて、資料館には江戸期の甲冑や刀そして本多家が使用していた駕籠が保存されています。越前国を朝倉氏が支配していた頃は、豊原寺が戦の拠点として活用していて三千坊の宿坊が立ち並んでいたようですが現在は豊原寺は残されておらず跡地に歴代院主のお墓とお地蔵さんがありました。
豊原寺は織田信長が朝倉氏を攻め滅ぼそうと侵攻した際に、あたり一帯を焼き払ったため一向宗と共に焼けてしまったとされています。また鎖国から開国の時代が近づいて行く中で、幕府の命で海岸付近に砲台を設置し防衛するように指示され欧米国と戦った場所が国指定跡地に指定。
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別名霞ヶ城
当時の丸岡城は別の呼び方もされていて、霞ヶ城といわれていて柴田氏と一向宗との争いが絶えない中で現在も残されている天守閣横にある井戸から大蛇が現れ丸岡城を霞かけて混乱させ幾度も撃退した逸話があります。
実際のことを考えるとこの時代に大蛇が居るとは考えにくいので、後世で後付けされた内容だと思われますが恐らく当時と同じように春先では美しい桜が丸岡城を霞ませていたことでしょう。
ただ落城しなかったのは大蛇のおかげなく、勝豊を慕っていた家臣達の働きが大きかったことだと思います。
人柱となったお静

当時勝家が越後国を収め勝豊が丸岡城を築城工事をさせていきましたが、石垣が何度も崩れてしまい思うように築城工事が進まず勝豊の頭を悩ませていました。ある時、城下に人柱となる案内を掲げ申し出た者には条件を付けると書き数日すると貧困生活を送っている未亡人のお静が子を侍に取り立ててくれれば人柱になると勝豊に申し出てきます。
この条件を了承した勝豊は、お静を土中に埋め丸岡城を完成させていきましたが長浜城へと移封。丸岡城を離れてしまうとお静との約束が果たされず子は、今までと変わらない生活を送っていくことになってしまいました。
これを怨んだお静は大蛇となり暴れまわり田植えの時期になると堀から溢れるほどの雨が降り、城下に住んでいた者達はお静の涙雨と呼んだとされています。
一筆啓上
この地には日本一短い手紙と称された石碑が丸岡城の入り口付近に存在していて、成重の父が書いた一筆啓上の地としても有名です。成重の父は鬼作佐と呼ばれた猛者であると同時に頑固者でしたが、長篠の戦いの時に妻宛てに送った書状が「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」。
これは成重父の重次は、猛者とはいえいつ何時命を落とすか分からないため自身が留守中は妻に家を取り仕切るように伝えた書状です。内容は火には気を付けて成重を泣かすさず、馬の手入れをよろしく頼むとの内容でした。
鬼とも呼ばれた父の内面は、いつも妻や子を気にかけていた優しい心をもった父だったことでしょう。
近年までは日本最古の天守閣と呼ばれた
丸岡城を舞台にした戦があまり行われていないため、当時の記録は築城したことと歴代城主しかはっきりとは分かっていないため平山城としてどこまで防御力があったかは不明ですが現存しているお城の状況を見ると守りが堅そうに見えます。
つい最近までは現存するお城の中で、日本最古の天守閣と呼ばれていましたが福井市による歴史学などに精通した専門家を集めて調査委員会を発足させて丸岡城を調べていく過程で部材が江戸初期の木材であることが判明しました。これにより日本最古の天守閣でしたが、松本城にその座を奪われてしまいます。
調査した結果で築城された時代が分かりましたが、私自身は存在もしていないお城について書物に残すとも思えませんので勝豊が築城したということを信じたいと思いました。