
丸岡築城主の勝豊が逝く

近江国で羽柴軍と柴田軍が対陣していくと、長期戦となる構えを両軍とも執っていましたが勝豊の兵が密かに陣営から離れ羽柴軍の動向を盛政に知らせていき砦を陥落させられてしまいました。この時は既に床に伏せていた勝豊は代理で家臣を参陣させていきます。
そして賤ケ岳での争いが行われる直前に、勝豊は亡くなり病死してしまいました。
安土桃山から江戸時代へ
勝家が居なくなり越前国を収めていく大名は、丹羽長秀でした。長秀の家臣として青山宗勝を丸岡城の守備を任せていき、1585年に長秀が亡くなると、秀吉に仕えるようになり九州征伐の戦功が認められ4万六千石で丸岡城の城主となっていきます。
慶長の役で朝鮮出兵をしていた1589年に秀吉が病によって亡くなってしまうと、秀吉と同等の力を持っていた徳川家康が秀吉との決めごとを破っていきました。家康の行いに異論を唱えた毛利氏を筆頭に全国各地で毛利氏の西軍と徳川氏の東軍に分かれて戦っていくことになります。
宗勝は西軍に属して兵力では劣っていましたが、浅井畷という場所の細い道で前田軍の大軍を待ち伏せし大打撃を与えることに成功しました。しかし関ヶ原本戦で西軍が大敗となり、宗勝は改易され丸岡城から離れていきます。
城主が十七代まで継続
宗勝の後に丸岡城へ入城するのは結城氏の家臣だった今村盛次。しかしお家騒動が発生し幕府の裁量によって本多成重が1612年に城主となっていきますが、二代目福井藩松平忠直が品格の無い行いが続き豊後へ追放されていきました。
これによって本多氏は幕府から独立した福井藩主となりますが、1624年に四代目の藩主本多重益が藩政を行わずお家騒動が発生したため幕府が本多氏の改易を決定。その後に有馬氏が入城し明治政府が発令した廃藩置県まで六代に渡って丸岡城を居城として活動していきました。
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