
手取川で大敗した織田軍
勝家よりも先に七尾城落城の知らせを受けた謙信は、手取川付近の松任城に入城し柴田軍の軍勢を待ち構えていきました。柴田軍は手取川を渡りきったところで、謙信が松任城に入城していることを知り勝家は急いで撤退するよう兵に伝達するも既に混乱している状況で指揮することが出来ない状況です。
そこに上杉軍が攻撃を仕掛けていき柴田軍は大打撃を与えられたことに加え、手取川が増水し千人を超す死傷者を出しその場から急いで撤退していき加賀国から退いていきました。またこの後に謙信は丸岡城付近まで迫っていたとされている説があるようですが、移動日数を考えると実現不可能なことであるとされています。
これにより織田軍が謙信に敗北し加賀国の一揆衆を従えていきました。
織田家凱旋
手取川で敗戦後に謙信が亡くなり、上杉領となっていた加賀・能登などを柴田軍が制圧していき加賀国を平定し越中国まで織田領土となる勢いでした。1581年4月に信長自身の天下布武と力を誇示するために正親町天皇を招待し、織田家が天下統一に一番近い存在であることを京へ知らしめる京都御馬揃えが行われていきます。
信長は自分の力を見せるだけでなく朝廷へ威圧し譲位する動きもあったとされ、織田家家臣を騒動する式典だったようで勝豊は勝家と一緒に上洛していきました。勝豊は越前衆として前田利家や柴田勝政など家臣や与力の者達と一緒に参加していきます。
信長の天下布武が崩れていく
京都御馬揃えを終えた翌年の1582年には、毛利氏を屈服させるために秀吉を大将とした中国征伐が始まっていて勝豊らは魚津城攻略に行っており天下統一も目前にまで迫っている状況でした。しかし信長重臣だった明智光秀の謀反によって時代は激変していき仇討を行った秀吉が急速に力をつけていきます。
その後に織田家指針を決める清州会議が行われ、信長遺領を分配していくことと織田家の次期当主を任命する内容を話し合っていきました。その結果は、今までの戦功を加味した上で勝家は北近江と長浜城だけしか得られず秀吉との石高にも大きな違いができていきます。
こちらの記事もおすすめ

本能寺の変だけじゃない「明智光秀」の一生を元塾講師がわかりやすく解説!
柴田軍対羽柴軍へ
秀吉と勝家は元々、仲が良い方ではなかったため今回の清州会議の決定も納得している形ではなく秀吉を筆頭とした派閥と対立していくことになる勝家。そして滝川一益や織田信孝などを味方に取り込む動きを見せていきます。
一方の勝豊は自身で築城した丸岡城から勝家の長浜城へと移り守備を任されていくことになりました。丸岡城は勝家の家臣安井家清が城主となっていきます。
そして勝家は反秀吉派を束ねる存在となっていくと、秀吉などから謀反の疑いをかけられていき対立していきました。
こちらの記事もおすすめ

織田四天王の一人「滝川一益」清州会議が運命を左右した?そんな勇将を歴女がわかりやすく解説
勝家を裏切る
いよいよ秀吉と勝家の戦が始まり、越前国まで侵攻してきた羽柴軍は長浜城を取り囲んでいきました。勝豊はこの状況よりも前に病を患っていたとされ、まともに戦が出来る体ではなかったようです。
取り囲まれて羽柴軍より大谷吉継が勝豊の下に訪れ、このまま勝家付いていても冷遇されたままでいいのかと尋ねられると勝家の恩義はあったものの同じ養子だった勝政との待遇差に嫌気がさしていると答えていきました。
また従兄にあたる佐久間盛政と仲が悪かったこともあり、羽柴軍へ寝返る決意をして勝豊と長浜城は義継の調略によって羽柴軍の一員となっていきます。
\次のページで「丸岡築城主の勝豊が逝く」を解説!/