現代では数多くの歴史的建造物が現存していて、建てられた当時を想像しながら観光すると気分が高揚してくるな。戦国時代から江戸時代へと時代が移り徳川幕府が作られたことで一気に太平の世が築かれていき大坂の陣を最後に大規模な戦は無くなったことで城を廃城していく動きが強まっていったな。それでも全ての城を廃城するにも地域を治める大名の居城を無くすわけにはいかなかったようです。

そこで今回は、戦国時代後期若しくは江戸時代初期に作られた天守閣が現存する丸岡城について歴史マニアで歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

柴田勝豊が建造したとする説や江戸時代に入ってから建造したとする説があるため、どちらの説も解説していき丸岡城の背景を紹介していく。

建造された時期

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数年前までは日本最古のお城と呼ばれていましたが、発掘調査の結果として戦国時代のものではないと判明しました。

丸岡城の建てられた場所

丸岡城が建てられているところは、戦国期でいうと越前国で今は福井県坂井市丸岡町に現存しており小高い丘の上の建てられています。また周囲には堀が作られていたとされ、五角形の形をして丸岡城を囲んでいました。

江戸時代前期に書かれたとする武家事記によると、柴田勝家の家臣だった吉田次兵衛の嫡男を勝家の養子に出し柴田勝豊と名乗っていき越前征伐の際に養父勝家と出陣し上杉氏と争っている最中に丸岡城を築き入城したとされています。当時の丸岡城は勝家が越前国を支配した際に、居城として建造した北ノ庄城の支城としての役目を担っていました。

お城の構造

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構造については、平地若しくは丘陵に建てられた連郭式平山城だったようで山城主体の防御力に徹した城作りだけでなく政務を熟す城としての役割も備えた丸岡城でした。遺構で唯一残されている天守閣は、独立式望楼型 2重3階となっており寛永時代の木がそのまま現代でも残されています。

一階部分には石落としが出来る場所が作られていて石垣をよじ登って来る敵に、石を落としたり弓矢などで攻撃することが可能な場所もあり至るところに防衛機能が備えられた丸岡城。

北陸地方には天守閣が残されているお城は丸岡城だけで大変貴重なお城ということに加えて1950年に国の重要文化財にも指定されていきました。また現存されているお城でも珍しいとされている石垣も今も尚、当時と変わらない状態で丸岡城を囲んでいて近隣の民家に丸岡城の城門と思しき門があるようです。

城主となる柴田勝豊

最初の城主となる勝豊について紹介していきます。

丸岡城築城から加賀国平定

天正4年1576年に勝豊が丸岡城を完成させ四万六千石で入城していきました。養父勝家と一緒に加賀国平定を織田信長から命令されていて約90年間一揆衆によって独立していた国を平定するべく奔走していきます。

1577年になると加賀国まで侵攻してきた上杉謙信と対立していくと、勝家と援軍として到着していた羽柴秀吉が軍議で互いの意見が対立していき信長の許可を得ることなく秀吉が戦線を離脱していきました。秀吉が離脱したことと七尾城が家臣の謀反にあい落城してしまい形成は不利となっていきます。

しかし勝豊らは落城したとは知らずに進軍を続けていて、手取川を越えた先にある村を焼き払っていました。

\次のページで「手取川で大敗した織田軍」を解説!/

手取川で大敗した織田軍

勝家よりも先に七尾城落城の知らせを受けた謙信は、手取川付近の松任城に入城し柴田軍の軍勢を待ち構えていきました。柴田軍は手取川を渡りきったところで、謙信が松任城に入城していることを知り勝家は急いで撤退するよう兵に伝達するも既に混乱している状況で指揮することが出来ない状況です。

そこに上杉軍が攻撃を仕掛けていき柴田軍は大打撃を与えられたことに加え、手取川が増水し千人を超す死傷者を出しその場から急いで撤退していき加賀国から退いていきました。またこの後に謙信は丸岡城付近まで迫っていたとされている説があるようですが、移動日数を考えると実現不可能なことであるとされています。

これにより織田軍が謙信に敗北し加賀国の一揆衆を従えていきました。

織田家凱旋

手取川で敗戦後に謙信が亡くなり、上杉領となっていた加賀・能登などを柴田軍が制圧していき加賀国を平定し越中国まで織田領土となる勢いでした。1581年4月に信長自身の天下布武と力を誇示するために正親町天皇を招待し、織田家が天下統一に一番近い存在であることを京へ知らしめる京都御馬揃えが行われていきます。

信長は自分の力を見せるだけでなく朝廷へ威圧し譲位する動きもあったとされ、織田家家臣を騒動する式典だったようで勝豊は勝家と一緒に上洛していきました。勝豊は越前衆として前田利家や柴田勝政など家臣や与力の者達と一緒に参加していきます。

信長の天下布武が崩れていく

京都御馬揃えを終えた翌年の1582年には、毛利氏を屈服させるために秀吉を大将とした中国征伐が始まっていて勝豊らは魚津城攻略に行っており天下統一も目前にまで迫っている状況でした。しかし信長重臣だった明智光秀の謀反によって時代は激変していき仇討を行った秀吉が急速に力をつけていきます。

その後に織田家指針を決める清州会議が行われ、信長遺領を分配していくことと織田家の次期当主を任命する内容を話し合っていきました。その結果は、今までの戦功を加味した上で勝家は北近江と長浜城だけしか得られず秀吉との石高にも大きな違いができていきます。

柴田軍対羽柴軍へ

秀吉と勝家は元々、仲が良い方ではなかったため今回の清州会議の決定も納得している形ではなく秀吉を筆頭とした派閥と対立していくことになる勝家。そして滝川一益や織田信孝などを味方に取り込む動きを見せていきます。

一方の勝豊は自身で築城した丸岡城から勝家の長浜城へと移り守備を任されていくことになりました。丸岡城は勝家の家臣安井家清が城主となっていきます。

そして勝家は反秀吉派を束ねる存在となっていくと、秀吉などから謀反の疑いをかけられていき対立していきました。

勝家を裏切る

いよいよ秀吉と勝家の戦が始まり、越前国まで侵攻してきた羽柴軍は長浜城を取り囲んでいきました。勝豊はこの状況よりも前に病を患っていたとされ、まともに戦が出来る体ではなかったようです。

取り囲まれて羽柴軍より大谷吉継が勝豊の下に訪れ、このまま勝家付いていても冷遇されたままでいいのかと尋ねられると勝家の恩義はあったものの同じ養子だった勝政との待遇差に嫌気がさしていると答えていきました。

また従兄にあたる佐久間盛政と仲が悪かったこともあり、羽柴軍へ寝返る決意をして勝豊と長浜城は義継の調略によって羽柴軍の一員となっていきます。

\次のページで「丸岡築城主の勝豊が逝く」を解説!/

丸岡築城主の勝豊が逝く

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近江国で羽柴軍と柴田軍が対陣していくと、長期戦となる構えを両軍とも執っていましたが勝豊の兵が密かに陣営から離れ羽柴軍の動向を盛政に知らせていき砦を陥落させられてしまいました。この時は既に床に伏せていた勝豊は代理で家臣を参陣させていきます。

そして賤ケ岳での争いが行われる直前に、勝豊は亡くなり病死してしまいました。

丸岡城の城下町と伝説

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賤ケ岳で勝家が討ち取られ、織田重臣の一人だった丹羽長秀の領土となっていきました。また丸岡城には伝説があり、伝説に関連する石碑が残されています。

安土桃山から江戸時代へ

勝家が居なくなり越前国を収めていく大名は、丹羽長秀でした。長秀の家臣として青山宗勝を丸岡城の守備を任せていき、1585年に長秀が亡くなると、秀吉に仕えるようになり九州征伐の戦功が認められ4万六千石で丸岡城の城主となっていきます。

慶長の役で朝鮮出兵をしていた1589年に秀吉が病によって亡くなってしまうと、秀吉と同等の力を持っていた徳川家康が秀吉との決めごとを破っていきました。家康の行いに異論を唱えた毛利氏を筆頭に全国各地で毛利氏の西軍と徳川氏の東軍に分かれて戦っていくことになります。

宗勝は西軍に属して兵力では劣っていましたが、浅井畷という場所の細い道で前田軍の大軍を待ち伏せし大打撃を与えることに成功しました。しかし関ヶ原本戦で西軍が大敗となり、宗勝は改易され丸岡城から離れていきます。

城主が十七代まで継続

宗勝の後に丸岡城へ入城するのは結城氏の家臣だった今村盛次。しかしお家騒動が発生し幕府の裁量によって本多成重が1612年に城主となっていきますが、二代目福井藩松平忠直が品格の無い行いが続き豊後へ追放されていきました。

これによって本多氏は幕府から独立した福井藩主となりますが、1624年に四代目の藩主本多重益が藩政を行わずお家騒動が発生したため幕府が本多氏の改易を決定。その後に有馬氏が入城し明治政府が発令した廃藩置県まで六代に渡って丸岡城を居城として活動していきました。

\次のページで「城下町の風景」を解説!/

城下町の風景

丸岡城の城下には戦国時代以降の建造物が多く残されていて、資料館には江戸期の甲冑や刀そして本多家が使用していた駕籠が保存されています。越前国を朝倉氏が支配していた頃は、豊原寺が戦の拠点として活用していて三千坊の宿坊が立ち並んでいたようですが現在は豊原寺は残されておらず跡地に歴代院主のお墓とお地蔵さんがありました。

豊原寺は織田信長が朝倉氏を攻め滅ぼそうと侵攻した際に、あたり一帯を焼き払ったため一向宗と共に焼けてしまったとされています。また鎖国から開国の時代が近づいて行く中で、幕府の命で海岸付近に砲台を設置し防衛するように指示され欧米国と戦った場所が国指定跡地に指定。

別名霞ヶ城

当時の丸岡城は別の呼び方もされていて、霞ヶ城といわれていて柴田氏と一向宗との争いが絶えない中で現在も残されている天守閣横にある井戸から大蛇が現れ丸岡城を霞かけて混乱させ幾度も撃退した逸話があります。

実際のことを考えるとこの時代に大蛇が居るとは考えにくいので、後世で後付けされた内容だと思われますが恐らく当時と同じように春先では美しい桜が丸岡城を霞ませていたことでしょう。

ただ落城しなかったのは大蛇のおかげなく、勝豊を慕っていた家臣達の働きが大きかったことだと思います。

人柱となったお静

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当時勝家が越後国を収め勝豊が丸岡城を築城工事をさせていきましたが、石垣が何度も崩れてしまい思うように築城工事が進まず勝豊の頭を悩ませていました。ある時、城下に人柱となる案内を掲げ申し出た者には条件を付けると書き数日すると貧困生活を送っている未亡人のお静が子を侍に取り立ててくれれば人柱になると勝豊に申し出てきます。

この条件を了承した勝豊は、お静を土中に埋め丸岡城を完成させていきましたが長浜城へと移封。丸岡城を離れてしまうとお静との約束が果たされず子は、今までと変わらない生活を送っていくことになってしまいました。

これを怨んだお静は大蛇となり暴れまわり田植えの時期になると堀から溢れるほどの雨が降り、城下に住んでいた者達はお静の涙雨と呼んだとされています。

一筆啓上

この地には日本一短い手紙と称された石碑が丸岡城の入り口付近に存在していて、成重の父が書いた一筆啓上の地としても有名です。成重の父は鬼作佐と呼ばれた猛者であると同時に頑固者でしたが、長篠の戦いの時に妻宛てに送った書状が「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」。

これは成重父の重次は、猛者とはいえいつ何時命を落とすか分からないため自身が留守中は妻に家を取り仕切るように伝えた書状です。内容は火には気を付けて成重を泣かすさず、馬の手入れをよろしく頼むとの内容でした。

鬼とも呼ばれた父の内面は、いつも妻や子を気にかけていた優しい心をもった父だったことでしょう。

近年までは日本最古の天守閣と呼ばれた

丸岡城を舞台にした戦があまり行われていないため、当時の記録は築城したことと歴代城主しかはっきりとは分かっていないため平山城としてどこまで防御力があったかは不明ですが現存しているお城の状況を見ると守りが堅そうに見えます。

つい最近までは現存するお城の中で、日本最古の天守閣と呼ばれていましたが福井市による歴史学などに精通した専門家を集めて調査委員会を発足させて丸岡城を調べていく過程で部材が江戸初期の木材であることが判明しました。これにより日本最古の天守閣でしたが、松本城にその座を奪われてしまいます。

調査した結果で築城された時代が分かりましたが、私自身は存在もしていないお城について書物に残すとも思えませんので勝豊が築城したということを信じたいと思いました。

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日本史歴史江戸時代

日本最古と呼ばれた天守閣がそびえ立つ「丸岡城」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説

現代では数多くの歴史的建造物が現存していて、建てられた当時を想像しながら観光すると気分が高揚してくるな。戦国時代から江戸時代へと時代が移り徳川幕府が作られたことで一気に太平の世が築かれていき大坂の陣を最後に大規模な戦は無くなったことで城を廃城していく動きが強まっていったな。それでも全ての城を廃城するにも地域を治める大名の居城を無くすわけにはいかなかったようです。

そこで今回は、戦国時代後期若しくは江戸時代初期に作られた天守閣が現存する丸岡城について歴史マニアで歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

柴田勝豊が建造したとする説や江戸時代に入ってから建造したとする説があるため、どちらの説も解説していき丸岡城の背景を紹介していく。

建造された時期

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数年前までは日本最古のお城と呼ばれていましたが、発掘調査の結果として戦国時代のものではないと判明しました。

丸岡城の建てられた場所

丸岡城が建てられているところは、戦国期でいうと越前国で今は福井県坂井市丸岡町に現存しており小高い丘の上の建てられています。また周囲には堀が作られていたとされ、五角形の形をして丸岡城を囲んでいました。

江戸時代前期に書かれたとする武家事記によると、柴田勝家の家臣だった吉田次兵衛の嫡男を勝家の養子に出し柴田勝豊と名乗っていき越前征伐の際に養父勝家と出陣し上杉氏と争っている最中に丸岡城を築き入城したとされています。当時の丸岡城は勝家が越前国を支配した際に、居城として建造した北ノ庄城の支城としての役目を担っていました。

お城の構造

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構造については、平地若しくは丘陵に建てられた連郭式平山城だったようで山城主体の防御力に徹した城作りだけでなく政務を熟す城としての役割も備えた丸岡城でした。遺構で唯一残されている天守閣は、独立式望楼型 2重3階となっており寛永時代の木がそのまま現代でも残されています。

一階部分には石落としが出来る場所が作られていて石垣をよじ登って来る敵に、石を落としたり弓矢などで攻撃することが可能な場所もあり至るところに防衛機能が備えられた丸岡城。

北陸地方には天守閣が残されているお城は丸岡城だけで大変貴重なお城ということに加えて1950年に国の重要文化財にも指定されていきました。また現存されているお城でも珍しいとされている石垣も今も尚、当時と変わらない状態で丸岡城を囲んでいて近隣の民家に丸岡城の城門と思しき門があるようです。

城主となる柴田勝豊

最初の城主となる勝豊について紹介していきます。

丸岡城築城から加賀国平定

天正4年1576年に勝豊が丸岡城を完成させ四万六千石で入城していきました。養父勝家と一緒に加賀国平定を織田信長から命令されていて約90年間一揆衆によって独立していた国を平定するべく奔走していきます。

1577年になると加賀国まで侵攻してきた上杉謙信と対立していくと、勝家と援軍として到着していた羽柴秀吉が軍議で互いの意見が対立していき信長の許可を得ることなく秀吉が戦線を離脱していきました。秀吉が離脱したことと七尾城が家臣の謀反にあい落城してしまい形成は不利となっていきます。

しかし勝豊らは落城したとは知らずに進軍を続けていて、手取川を越えた先にある村を焼き払っていました。

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