日本史歴史江戸時代

シーボルトが長崎で開いた私塾「鳴滝塾」を歴女がわかりやすく解説

3-3、鳴滝塾の跡

現在は残っていないが、塾の建物は木造2階建てで書庫などがあり、庭には日本各地でシーボルトが採取した薬草類が栽培されていたということで、シーボルトは出島から塾まで、週一くらいの頻度で通って講義や診療活動を。

尚、シーボルト帰国後、鳴滝塾の建物はお瀧とイネに残されて住んでいたが、お瀧が再婚後に私塾の跡地を売却。安政5年(1858年)の日蘭修好通商条約締結で追放令が解除された翌年、オランダ貿易会社顧問として再来日したシーボルトは、荒れ果てた鳴滝塾の跡地を見て悲しみ、貿易会社の仕事をする一方で鳴滝の住居を買い戻して住んだということ。

そしてシーボルト帰国後は、娘の楠本イネが保存に尽力、大正11年(1922年)、シーボルト宅跡の名称で国の史跡に指定され、平成元年(1989年)、隣接地にシーボルト記念館が開館。

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再来日後も鳴滝に住んだのか、よっぽど気に入ってたんだな

蘭学医が集まり、シーボルトの指導を受けた塾

鳴滝塾は、シーボルト来日を聞いて日本中から集まった蘭学医たちが指導を受けた塾。その後のポンぺの行った体系的な医学校ほどではなかったが、本物のヨーロッパの名門医学部出身のシーボルトの指導が行われたのですから、蘭学書を読むだけの日本の蘭学医にとってシーボルトは神のごとき存在で、彼の弟子たちは高野長英をはじめ、高名な蘭学者に成長。

また、シーボルトは優秀な弟子たちに、自分の研究のための植物や動物を採集させたり研究論文を書かせたりしたが、それはスパイというよりも、自然科学への関心の深さと、ヨーロッパにおける日本研究の先駆けとなるためのどん欲な資料収集だったはず。

そして何よりも弟子の二宮敬作が、シーボルト先生の忘れ形見のイネを心底慈しんで産科医に指導して育てたことは、シーボルトが鳴滝塾で行った弟子たちとの交流、功績が表面的ではなかったことをあらわしているのでは。

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